また一歩、近付いた

 ご飯にする? お風呂にする? それとも――

 なんて、最近知った言葉(しかし、既に何十年と使い古されているらしい。)を掛けようとしたら、その前に号泣された。これには非常に焦った。どうにか話を聞いてみれば、『おかえり』と言う言葉が感情を揺さぶったらしい。

 以前から機会を窺っていたのだが、同棲や新婚の真似事をするつもりだった。何故なら私の競争相手は彼女の家族だから。彼らを越えるには、将来的に私が新しい家族になるのだと強く認識させる必要があると考えた。

 だから彼女が家まで送られるのを渋ったのは、逆に好都合だった。休日に会う時も、一度外に出てから彼女の部屋に戻ると言う機会は少ない。少し強引だったけれど、仕掛ける切っ掛けを作れたのだ。今後も同じ様な事を繰り返して、徐々に実感を得てもらうつもりだった。

 しかし、ここに来ておままごとの様な事をする事になるとは。今では周りよりも遅れていると自覚しているが、私の感性も案外捨てた物では無い様だ。


「落ち着きました?」

「……うん、ごめんね。」

「謝るのは私の方っス。まさか泣くとは思わなくて、ごめんなさい。」


 中学時代の彼女は祖父母の家で過ごしていたと聞いている。当然、その祖父母とも同じ遣り取りはあったはずだ。だからこのくらいなら過剰にトラウマを刺激するほどではないと思っていたのだけれど、考えが甘かった様だ。

 必要があれば別だが、無意味に彼女を傷付けたくはない。今回は引くべきだろうか。やはりと言うべきか、無理に近付くのは相応にリスクが付き纏う物なのだ。

 しかし、彼女は首を横に振った。少し充血してしまった瞳で、私を真っ直ぐに見詰める。


「違うの。確かにね、昔を思い出して、寂しい気持ちはあるよ。でも、嬉しかったんだ。また、帰れる場所が出来たんだって。」


 私には、良く分からなかった。だってここは彼女の部屋で、帰る場所のはずだから。

 けれど、家族を失った事と関係がある事くらいは分かる。どうして彼女がそう思ったのか、無理に問い質す気は起きない。嬉しいと感じてくれたのなら、きっとそれで良いのだと思う。


「良く、分かんないっスけど。陽葵さんが嫌じゃないなら、またこういう事しても良いっスか?」

「……うん。私ね、すっごく嬉しいよ。ありがとう、結華ちゃん。」


 また泣き出しそうな顔で、彼女は笑った。こんな笑顔を見るのは、初めてだった。

 彼女の手から離れて倒れたままだった傘を玄関のドアノブに引っ掛けて、私達は部屋の中へと入る。そこはまだまだ飾り気が少ないけれど、夏祭りの時の人形やウサギ柄のシュシュなど、私の贈った物が勉強机の上に飾られている。


「スイマセン、ご飯の事とか、他にも何も考えてませんでした。お金も持ってきてないし……。」

「そんなの良いんだよ。あははっ、今は大した物も無いんだけどね。」


 甘い香りに包まれながら、私は自身の無計画さに気付いた。突発的だったとは言え、財布くらいは持ってくるべきだったか。

 だからと言って今更遠慮するのもおかしな話で、別の事で返そうと思う。そうだ、料理であれば今回は私が――


「鯖缶くらいしか無くって、ごめんね?」

「え、あぁ。美味しいっスよね。鯖缶。」


 冷蔵庫に入っていたのは野菜類のみ。夕飯はそれに加えて、キッチンの収納に大量に保管されていた缶詰(これには非常に驚いた。前回の時点では気付かなかった。)の中から鯖の味噌煮を一つと冷凍保存されていたご飯。一応野菜を切って盛り付けるくらいはしたが、料理と言えるのかも疑わしい。と言うか、これは前に泊まった時と同じことをしているだけではないだろうか。これくらいではお返しにもならないし、彼女の胃袋も掴めない。

 早くも目算は崩れたが、まだ諦めるには早い。料理が駄目ならお風呂を――


「ありがとね。でも、朝の内に掃除しちゃったんだ。」

「え、あ、はい。几帳面っスね。」

「そう? ほら、私って寝るの早いから、朝起きるのも早めなんだよね。だからそういう余裕もあるんだ。」


 湯舟の掃除はとっくに終わっていて、軽く水で流した後は給湯器のボタンを押せば自動でお湯を張ってくれる。そこに私の出番は無い。

 ご飯とお風呂で出来る手伝いは大した事も出来ずに終わってしまった。残るはしか無いじゃないか。ならばお風呂で仕掛けるべきか――


「宿題あるから、沸いたら先にお風呂入って良いよ。」


 出鼻を挫かれた。一緒に入るのだと思っていたのに。あの時とは違って、彼女に断る理由なんて無いのに。

 ここで引き下がるつもりは無い。私は知っているのだ。今の彼女は誘惑に弱いと言う事を。まあ、私が弱くしたのだけれど。

 しかし、その前に。口内が魚臭いままでは、いざ始める時に雰囲気が壊れてしまう。先に歯を磨きたい所だ。


「陽葵さん。歯ブラシ借りて良いっスか。」

「んんっ!? それはちょっと……。特殊過ぎない?」

「だって、今日は持ってきてないし。」


 流石に人の歯ブラシを使いたいと思う様な嗜好は持っていない。彼女の物であるのなら嫌ではないと言うだけだ。それでも少し抵抗はあるけれど。

 前回は事前に泊まる約束をしていたので着替えなどを含めて色々と持ってきていたのだが、今回はそうではない。そもそも、当初は駅まで迎えに行って彼女の部屋まで送るだけのつもりだったのだ。やはり突発的に計画を実行するのは苦手だ。先程も無計画だと思ったけれど、準備不足と言うのは響いてくる。


「嫌ってわけじゃないけど……。新しいのあるから、それ使ってね?」


 結局、彼女の物を借りるなんて事はせずに。クローゼットの下段にある収納に仕舞ってあった新品を使う事になった。

 私が磨き始めると、彼女も忘れない内にと隣で歯を磨き始めた。何となくだが、これはちょっと同棲感があるのではないだろうか。こんな何気無い日常の中で、隣に彼女が居るのを想像する。明日の朝も同じ様に出来たら嬉しい。

 歯磨きが終わって少しすると、給湯器から音が鳴った。確認しに行けば、湯船には丁度良い温度のお湯が張られている。だからと言って一人で入るわけもなく、湯船に蓋を掛けてから彼女の元に戻った。

 確認しに行く前と変わらず、彼女は勉強机で宿題のプリントを前にシャープペンを動かしていた。先程見た所、大した量は無さそうに見えた。まあ、夏休みの宿題に比べれば日常的な課題の量なんてたかが知れているけれど。

 その後ろから、首元を包む様に抱き締める。力は込めずに、彼女へ体を預ける様に。


「……びっくりしたぁ。」

「えへ。進んでます?」

「あははっ、そんなにすぐには終わらないよ。お風呂、入らないの?」

「後で良いっス。一緒に入りたいんで。」


 耳元で話しているからか、彼女はくすぐったそうにしている。いや、もしかしたら気持ち良いのかもしれない。耳は彼女の大きな弱点だから。

 このまま息を吹き掛けたり、唇をくっ付けたりしたら、きっと彼女はその気になる。でも、勉強の邪魔をしたくはない。こうして抱き着いているだけでも、集中を途切れさせてしまっているのに。

 

「うーん、出来れば先に入ってて欲しいんだけど……。」

「……嫌なんスか。」

「そうじゃなくてね? 宿題終わったら、『ご褒美』欲しくなっちゃうから……。」


 控えめに拒絶されたみたいで、気分が沈んでしまったが、理由を聞けば理解は出来た。面白くは無いけれど。

 彼女は少し恥ずかしそうにしながら、机の脇に置かれたウサギのシュシュに視線を向けた。私が居ない内に一人で済ませようと言うわけか。実に面白くない。

 確かに自分で処理出来る様にするためでもあったが、本来の目的は離れていても私の事を想起させるため。私本人が目の前に居る時に、あの『首輪』は不要なのだ。本物がここに居るのに、彼女が想像上の私を求めるのは嫌だ。


「じゃあ、久しぶりに私が直接『ご褒美』をあげます。お風呂の後に。」

「へえっ!?」

「要らないっスか?」

「欲しい、けど。それまで抑えられるかな……。」


 依存計画を仕掛けた頃を思い出す。あの時の彼女は『ご褒美』を貰えないと知った途端、癇癪を起こした幼い子供の様に駄々を捏ねていた。普段の様子からは考えられないくらいに取り乱していた。

 また同じ様になるかもしれないけれど、その時は仕方が無い。先に『ご褒美』をあげよう。勿論、限界を迎えたらの話だが。


「陽葵さん。我慢した後は、すごく気持ち良いらしいっスよ?」

「ちょっと待ってて。すぐ終わらせるから。」


 インターネットで得た情報の受け売りでやる気を促す。自分では試せないので、真偽は不明だ。

 勉強に関して手伝える事は無いので、宿題を終えるまでの間は彼女の匂いを堪能する事にした。あまり集中を乱してはいけないので、耳の近くはやめておく。後頭部の髪に顔を埋めて、ゆっくりと息を吸い込む。

 甘くて、重くて、その奥に爽やかな酸っぱさが少しあって。落ち着く様な、高揚する様な、相反する気分が胸の内で混ざり合う。頭の中が痺れて、くらくらと揺れる。

 きっと、私は興奮しているのだと思う。もしかしたら発情しているのかもしれない。

 彼女のために色々と調べている内に、自身に起こっている事についてもいくらか説明が付く様になった。出会って間も無い頃からこの調子だったのだ。実の所、私も彼女の事をあまり強く言えない。


「……ずるいよ、結華ちゃんだけ。私はこれから我慢しないとなんだよ?」

「お風呂の後は匂いが薄くなっちゃいますから。勿体無いでしょ。」


 恨みがましい声を聞いて、私は離れた。シャープペンを置いた彼女は、数枚のプリントをクリアファイルの中に仕舞う。どうやら宿題は終わったみたいで、しかし彼女の我慢は始まりを迎えた様だ。

 期待を孕んだ瞳に悪戯心がくすぐられる――いや、これは嗜虐心と言うべきか。少しずつ、たっぷりと焦らして、そうして我慢の限界が訪れて、どうしようもなく私を求めてくる様を見たい。


「ふ、ふふっ……。ちゃんと我慢してくださいね?」


 ちょっとキスをしてみれば、彼女はもう蕩けた顔になってしまっている。演技をしているわけでもないのに、思わず喉の奥から笑いが漏れる。それもまた、きっと彼女を興奮させてしまうだろう。


「……意地悪。」


 そんな目で睨まれても、私の嗜虐心を更にくすぐるだけだ。彼女の耳を指先で軽く撫でる。それだけで小さく声を漏らして、身を震わせた。


「ほら、お風呂行きますよ。」

「うー……。」


 でも、これ以上はお預けだ。彼女の手を引いて浴室へと向かう。

 『ご褒美』の事を配慮して、背中はタオルを使って洗ってあげた。その最中に一度だけ背筋を指でなぞると、面白いくらいに反応した。

 対して彼女は、素手で私の体を洗い始めた。相変わらず執拗に胸を触ってくるが、前の時の様な余裕は無い様で言葉も少なく、背後から荒い息遣いを感じる。

 それは湯船に入っても変わらなかった。彼女を背にする様にくっ付いて入ったのだが、やっぱり荒い息が耳に当たるし、やたらと胸を触ってくる。そんなにこんな貧相な胸が好きなのだろうか。それとも、もしや母性を求めていたりして。実は甘えているのだろうか。

 それにしても酷く興奮している様子なのに強引さは全く無くて、妙に優しく触れてくる。私の反応を見たからか、この前からこう言う触り方をしてくる。少しくすぐったくて、でもそれだけじゃなくて。胸を触られているのに、背中の辺りがぞわぞわして、頭がぼうっとする。

 この感覚が気持ち良い、つまり性的快感と言う物みたいだ。これをたくさん感じれば、陽葵さんの様になるのだろうか。正直な所、それは酷く恥ずかしい。しかし彼女と最後まで愛し合う日のためにも、もっと気持ち良さを感じられる様にならなければいけない。


「陽葵さん、着替え貸してくれませんか?」

「良いよ、そんなの。」

「……え?」

「要らないよ。どうせ脱ぐんだから。」


 お風呂を出てから着替えを持ってきていない事に気付く。着てきたジャージはあるけれど、体育で汗を掻いたので気が進まない。なのでパジャマの一着でも借りられないかと頼んだ所、裸で居ろと言われた。

 毅然とした風に言う彼女だが、息の荒らさとお風呂以外の要因で紅潮した頬が、何よりも言っている内容が余裕の無さを表している。

 と言うか、下着も着けさせない気か。いや、まあ、下着にもかなり汗が付いているだろうから、あまり着けたくはないけれど。

 仕方が無いので二人共裸のままで部屋に戻る。先程から、ずっと彼女の視線を感じる。我慢の限界が近いのかもしれない。髪を乾かして水分を摂ったら始めてあげるか――と、思った所で。私はベッドに押し倒された。 


「ちょっと、陽葵さん!?」

「はあっ、もう、無理ぃ……。ねえ、いっぱい我慢したよ……? だから、ね?」


 唇を塞がれる。すぐに熱い舌が入ってきて、私を探し求める様に口内を埋める。彼女の唾液と私のそれが混じり合って、渇いた喉を通り過ぎていく。

 幸せとは、何だろう。それは幾度となく考えた事だが、私の幸せはここにある。接吻くちづけをやめた彼女は、物欲しそうな、切なそうな瞳で私を見詰めている。物凄い熱量で、私を求めている。

 彼女の頭を、濡れたままの髪越しに撫でる。表情が和らいだのを見て、そのまま頭抱いて自身の胸に近付ける。


「良く我慢出来ましたね。はい、どうぞ。おっぱい、欲しいんでしょ?」


 胸の先に熱い息が、肌が、唇が、舌が、遠慮がちに近付いて。やがて小さく、音を鳴らした。

 その時、音と共に何かが弾けた様な気がした。体が勝手に跳ねる。吸い付かれる度に、舐め回される度に、ぞくぞくとした何かが体を走り回る。

 これがきっと、強い快感。彼女が身を任せたくなる気持ちも分かる気がした。けれど、今は私が『ご褒美』をあげるのだから。このまま流されるつもりは無い。


「ふふっ、えっちな赤ちゃんだなぁ……。」


 彼女の耳を爪の先で優しく引っ掻く。それだけで力が抜けた様で、簡単に体勢を変えられた。彼女を仰向けにして、片手で頭を抱えて胸を吸わせたまま、そのお腹を撫でる。臍の下、その奥に子宮が眠っている部分を。


「大丈夫。これは『ご褒美』だから。たくさん甘えて、たくさん気持ち良くなって?」


 恐らく、この前の『お仕置き』を思い出したのだろう。お腹に触れた時に体を強ばらせたけれど、優しく撫で続ける。胸を吸う音に、彼女の漏らす声が混じり始める。

 ああ、可愛い。陽葵さんはいつも私の事を可愛いと言うけれど、彼女の方がずっと可愛い。

 普段の優しい顔も、時にリードしたがる姿も、悪戯に成功した時の笑い声も。欲情した時の表情も、『ご褒美』を欲しがる姿も、『お仕置き』を受けた時の獣の様な叫びも。

 その全てが可愛い。今も胸を吸い続けている彼女が、たまらなく愛おしい。これは母性だとか、そんな限定された物ではなくて、もっと大きな物なのだと思う。

 けれど、彼女が母性を求めているのなら。今夜は思い切り甘えさせよう。このままどろどろに溶かして、疲れたら私の中で眠らせてあげよう。

 ――私は今日、彼女にまた一歩近付いたぞ。アンタ達はあの世で指を咥えて眺めていろ。

 明くる朝。隣で寝ていた彼女を起こして『おはよう』と言ったら、またしても泣き出してしまった。今日も学校はあるのに、乾かさなかった所為で髪も酷い有り様なのに、全く困ったものだと思いつつ。彼女を安心させるために、裸のままで抱き締め続けた。

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