身をすり寄せる傘の下
秋雨や、の後に続く俳句を私は知らない。恐らく詠んだ人間が居たであろう事は知っていても、その句を知る機会が無かった。いいや、知っていたとしても覚えているかは怪しい物だ。
そんな事を思ったのは放課後に駅へと向かう途中、雨が降り始めたからだ。雨足は弱いけど、残暑がようやく終わった頃だと少し冷える。少しとは言え雨に打たれた所為もあるだろうけど。
そう、私はスマートフォンに入れてある天気予報のアプリも見ずに傘を持ってこなかった間抜けだ。こんな事ならお金が勿体無いなどと考えずに折り畳み傘を買っておくべきだったか。それを言うならそもそも学校の近くのマンションを借りれば良かったのだろうが、当時の私にその選択肢は無かった。かつて私の家があった、あの街に戻りたかったのだ。要するに、ただのわがままだ。
駅に着いて電車を待つ間に、スマートフォンを取り出す。目的は天気予報、ではなく。
『傘忘れちゃった』
コネクトを起動して、泣き顔のスタンプと共に彼女へメッセージを送る。自虐的ではあるが、少しでも笑ってくれたら良いなと思った。
既に彼女は帰宅しているのか、返信は思いの外早かった。
『まだ』『学校』『ですか?』
『んーん』『電車待ちだよー』
『むかえにいきます』
その文を目にして固まってしまった私の耳に、電車がホームへと滑り込んでくる音が届いた。はっと我に返って、電車の腹の内側へ乗り込む。いつも通り、座席はそこそこ空いている。端の方が空いていたので、そこに座ってもう一度スマートフォンの画面を見た。
嬉しさが込み上げてくる。彼女から想われているのを感じる。雨の所為で少し冷たかったけど、体の内側の方がじわりと暖かくなった気がした。
同時に、少しの葛藤が過る。彼女の申し出は非常に嬉しいけど、私なんかのためにわざわざ駅まで迎えに来てもらうのは気が引ける。しかし平日に会える機会なんてほとんど無いし、そう思うと無性に甘えたくなってしまう。
結局の所、折角の好意を断るなんて出来ず、私は少し悩んでから了承の旨を送った。今の状況的に言えばどうやっても無理なのだが、本音を言えば逆が良かった。私が迎えに行く立場で居たかった。これでも年上として、こうありたいと思う物があるのだ。それに、彼女にもこんな風に喜んでもらいたい――ああ。彼女もそう思っているのだろうか。
「おや? おやおや? そこに居るのは高梨さん
「そう言うあなたは
「いや、回りくどいな!」
彼女と通じ合った気がして気持ちを噛み締めていると、不意に声を掛けられた。スマートフォンから目を離して顔を上げれば、そこには去年同じクラスだった
「ユズちゃん、この時間に帰るなんて珍しいね。」
「あー、うん。まあ、ちょっとね。てか傘は?」
「忘れちゃった。あれ、ユズちゃんも?」
隣に座ったユズちゃんの制服は所々が濡れていて、その手に傘の姿は無かった。
「いいや。ウチはわざと持ってこなかったんだ。なんたって雨は恵みだからな!」
「何それ。前は普通に持ってきてたよね。」
「考えが変わったのさ。知ってる? 雨は龍が降らせてるんだよ。」
フィクションでしか聞かない様な単語が聞こえたが、これはいつもの事だ。ユズちゃんはオカルト好きで、話をすれば普段耳にしない言葉も良く出てくる。そしてオカルト話をすると、悪い癖も出てくる。
「龍って、ドラゴンとかの龍?」
「そう、それ。つまり雨って神秘的なんだよ。そもそも水と言うのは大昔から霊的な物が宿るとされていて、信仰の対象だったんだよ。これがミヅチって言うヘビの事なんだけど、元々は水の霊と書いて
こう言った話になると非常に長く、そしてどんどん脱線していくのだ。これがユズちゃんの悪い癖である。ちなみに、今回はかなり短く終わった方だ。
私はオカルト関係にそこまでの興味は無いけど、その話を聞くのは楽しいのであまり水は差さない事にしている。と言うか話の遮るとすごく残念そうな顔をするので、ちょっと申し訳無くなると言うのもある。
「で、神秘的な何かは感じた?」
「神秘とは冷たい物だって思ったね。やっぱり傘は必要だなー。」
神秘とか龍とか色々出てきたけど、何だかんだ言って、結局は雨に打たれて冷たかっただけなのだ。それがちょっとおかしくて、くすりと笑いが漏れた。
「思ったより普通の感想だね。」
「普通だからね。あー、やっぱり陽葵ちゃんは良いな。部活の奴らなんて全然話聞いてくれないし。」
「そうなの? そう言うの、話し合ったりしてるんだと思ってた。」
入学当初のユズちゃんはオカルト研究部に入りたかったそうだが、陸ヶ峰にはそんな部活は存在していなかった。どうして存在しない部活に入ろうと思っていたのか。もしもユズちゃんだけがその存在を認識していたとしたら――なんて、オカルトと言うか、ホラーの様な考えが過った事もある。聞いてみれば、勝手にユズちゃんがあるだろうと思い込んでいただけだった。
結局、マイナーなジャンルが好きな人が集まりやすいだろうと考えて文芸部に入ったそうだ。今まで部活の話はほとんど聞かなかったけど表情を見るに、どうやらユズちゃんにとってはあまり居心地は良くないみたいだ。
「駄目駄目、愛だの恋だの、そんなんばっかだよ。」
「ふーん。それも良いと思うけどなぁ。」
ユズちゃんの言葉にカチンと来て、棘を含む口調になってしまう。私達の関係が否定されたみたいで、嫌だと思った。その気持ちが伝わってしまったからだろう、苦笑された。私に恋人が出来た事を知っていると言うのもあると思う。
いつからだろう。今の私は怒りとか嫉妬とか、そう言ったマイナスの感情を我慢出来なくなっている。前は感じていても隠せていたのに。
「……ごめんね、嫌な言い方になっちゃった。」
「や、ごめんごめん。恋愛が悪いとか言うわけじゃないんだよ。一応物書きみたいな事もしてるわけだし、皆が皆そればっかで他に見向きもしないってのも面白くないじゃんか。少ないけど何人か集まってるんだから色んな趣味が見れても良いじゃん?」
そんなに気を悪くした様子も無く、少しほっとする。気を遣わせてしまった事に違いは無いだろうけど。胸中で嘆息、自己嫌悪。
私が何を思おうとも時は進み、会話もまた進む。ネガティブな気持ちは一旦隅に追い遣って、ユズちゃんの話に集中する。
「確かにそう考えると勿体無いかも。普通の作文でもテーマは必要だし、小説とか漫画だったらもっと色々知ってた方が良さそうだよね。」
「去年の部誌なんか恋愛物だらけだったからなぁ。今年は一年の子達に期待しとくか。」
その言葉で、私はそう言えばと思い出した。もう少しで今年の文化祭の準備が始まる。陸ヶ峰の文化祭は十月の終わり頃。文化系の部活では既に始まっているのだろうけど、クラスの出し物は少なくとも一ヶ月前には始まる。となれば、今週か来週には何を催すのかを決める事になるのだろう。
文芸部は文化祭の出し物で、部誌――部員の創作物をまとめた本を配るのが毎年の恒例となっているそうだ。去年はユズちゃんには会いに行ったけど、部誌は貰わなかった。印刷部数も限られていたし、後から部員用に配られた物を借りて読ませてもらう事になっていたからだ。
ところで後輩に期待するとの事だが、どうしてだろう。部活内の人達は恋愛関係の話ばかりだと言っていたのに。
「あれ? その子達も恋愛物が好きなんじゃないの?」
「そうだけど、まあ実際に見てみない事には分からないからな。似たり寄ったりなのが嫌なだけで、恋愛その物が嫌なわけじゃないし。」
「ああ、そっか。読んでみたら面白かったとかあるよね。別のジャンル書いたりするかもしれないし。」
聞いてみれば簡単な事だった。恐らくだが、同学年の子や先輩達には見切りを付けているのだと思う。それは去年の部誌の話からも想像出来た。だからこそ、今年は後輩達の作品に期待しているのかもしれない。ただ、それがユズちゃんの趣味に合っている可能性は限り無く低いだろうけど。
「そう言う事。てかさ、陽葵ちゃん、ウチの後輩に何かした?」
「えっ。多分何もしてないよ……?」
そう問うユズちゃんは特に大きな感情を含んでいるわけではなく、ただ気になった疑問をぶつけてきた様に見える。
しかし、私には全くと言って良いほどに身に覚えが無かった。そもそもユズちゃん以外の文芸部員にはほとんど関わった事が無い。一年生の子達なんて尚更だ。
「いやね、去年同じクラスだったって話したら、陽葵ちゃんの事めちゃめちゃ聞かれるんだよね。陽葵ちゃんの事、お姉様とか呼んでるよ。」
「お姉様って……。」
「ド変態のロリコンだって言ったら、お姉様を馬鹿にするなってブチ切れられた。事実なのにな。」
どうやらその後輩は何かに影響を受けているらしい。少女漫画辺りだろうか。お姉様なんてふざけて呼ぶのならともかく、実の姉妹でも現代では中々言わないだろう。
話を聞く限り、懸想されていると言うよりは理想を重ねられているだけみたいだ。その点はまだ良かったと思う。確実に断るので申し訳なくなるから、告白されるのは苦手なのだ。
しかし、一体誰なのだろう。一年生からの直接的な接触なんて告白された事くらいしか思い当たらない。もしその内の一人だったら多分ユズちゃんも本人経由で知っていると思うし、違うだろう。こちらからも積極的に関わるつもりは無いので多分問題は無いだろうが、少し気になる。
「うーん、周りにそんな子居ないし……。その子の勘違いじゃない?」
「夏休み前くらいに探し物手伝ってもらったって言ってたな。三つ編みで眼鏡掛けてる、いかにも文学少女って感じの子なんだけど。覚えてない?」
「……あっ、思い出したかも。割とちっちゃい子でしょ?」
「一部はでかいけどね。」
「そうそう、それでちょっと残念だなって思った。」
「普通に失礼だな!」
あれは七月の初め辺りの事だった。放課後に美化委員の仕事(学校内の花壇への水遣り。週ごとの当番制だ。)をしていると、何やら地面を見ながらうろうろしている生徒を見付けた。どうしたのかと訊ねてみれば、いつの間にかキーホルダーから自転車の鍵が外れていて落としてしまったそうだ。それで一緒になって探して、程無くして見付けられた。
その頃には結華ちゃんに夢中になっていたけど、まだ付き合ってはいなかったし、本当にそうなるとも思っていなかったので、ちょっとした役得くらいは良いかなと思っていた。全体的な小柄さは中々好みな方だったけど、胸が非常に大きくて内心でがっかりしたのを覚えている。
尚、これは当然の事だが。その子の手助けをしたのは償いの気持ちもあった。その癖、いつもの事ながら邪心を抱いているのだから、私は本当にろくでもない。
「……じゃ、またね。」
そう言って、ユズちゃんは立ち上がる。話している内に、降りるべき駅が目前に近付いていた。減速しているとは言え、電車はまだ動いている。吊革に掴まったユズちゃんが、こちらを振り向いた。
「うん。また何か聞かせてね。」
「いいや、今度は陽葵ちゃんが話してよ。聞き上手だけど、受け身なだけじゃ飽きられるかもよ?」
きっとユズちゃんとの関係ではなく、彼女との事を言っているのだろう。悪戯っぽく、にやりと笑った。それに頷いて、今度こそ別れる。
一人になった私は、先程言われた事について考えていた。受け身なだけでは、飽きられる。至極真っ当な意見だと思う。何故なら相手からのアクションが無いのは、自分に対してそこまでの興味を持っていないからではないかと感じてしまうからだ。
振り返ってみると、どうだろう。私は、彼女に対して何をしただろう。私から起こした行動で一番大きなものは、最初の出会いだ。あの時に声を掛けなければ、彼女が気付くまで待っていなければ、今の私達は無かった。
では、次は? 自宅に呼んだ事だろうか。いや、あれは彼女からの相談が無ければ誘わなかったと思う。だったら、プレゼントを贈った事だろうか。逆に言えば、そのくらいしか思い当たらない。
思い返してみれば、自分がどれだけ受け身な人間だったかを思い知らされて愕然とする。だって、そうだろう。冗談ではなく、ちゃんと告白したのは彼女だ。夏祭りのデートも、その前の宿泊の時だって、彼女から提案された。あの時も、今だって誘惑してくるのは彼女の方だ。私から何かをしてあげていると思っていても、その前には彼女からの明確なアプローチが存在する。そんなの、私がしてあげているのではない。ただ反応しているだけだ。
今日だって同じだ。私は迎えに来てもらいたくてメッセージを送ったわけではない。いつだってこちらに一歩踏み込んでくるのは彼女の方なのだ。相手を好きだと行動で示してくるのは、いつだって彼女の方が先なのだ。
先日の羊佳ちゃんは好意を示すのが怖いと言っていたけど、私はそれ以下だ。好意を示しているつもりで、でも本当は自分からはほとんど動いていなくて、そんな事にも気付いていなかった。
スマートフォンに目を落とす。もう駅に着いていると、彼女からのメッセージが届いている。こちらももうすぐ着くとだけ返してスマートフォンを鞄に仕舞い、窓の外を眺める。窓に張り付いた雨粒が私の視線から遠ざかる様に、少しずつ横へと流れていく。それが何だか心寒かった。
「今日は髪、縛ってないんスね。」
「うん、途中で解いたの。濡れたら嫌だから。」
大きな傘の下で、私達は並んで歩く。聞けば、彼女のお父様の物を拝借したそうだ。私の方が背が高いからと言う理由で傘を持たせてもらっている。恋人との相合傘と言うのは初めての事で、当然ながら嬉しさもあるが、どうにもむず痒い物を感じる。
改札の近くで待っていたジャージ姿の彼女は周囲よりもずっと背が低くて、逆に目立っていた。彼女の体躯に似合わない大きさの傘を持っていたから、尚更だ。そんな彼女が私を見付けて、ぱたぱたと駆け寄ってくる様は堪らなく愛おしかった。
そんな彼女は傘を持つ私の腕を掴んでいる。同じくらいの身長だったら、腕同士を絡めたりしていたのだろうか。しかし、それでは私の方が惚れていなかったかもしれない。あの、文芸部の子の様に。今でこそそれだけではないと言えるが、見た目に惹かれたのが大きいと言う事実は変わらない。
「ねえ、陽葵さん。」
「うん?」
しとしとと降る雨音の中、鈴の様に高く、しかし落ち着いた声が届いた。それは静かで、確かで、そして安らかで。その音色を一度に表現する言葉を知らない事を悔やみたい気分だ。
「傘を忘れるのって、初めてっスか?」
「そんな事無いよ。昔も忘れちゃった事あったし……一人暮らししてからも何回か、ね。」
私なんて完璧とは程遠い人間だ。だから当然とも言えるが、傘を忘れたのは今日が初めてではない。その度に折り畳み傘を買っておけばと後悔するものの、後になってやはり不要だと考え直す。きっと今回もそうだろう。最悪、雨に濡れても風邪を引くだけだ。大した事では無い。
しかし、誰かに迎えに来てもらったのは本当に久しぶりだ。今回はずぶ濡れにならなくて良かった。下着の内側だけは濡れているけど、それは勝手に反応してしまうので仕方が無い。
「次からはわざと忘れても良いんスよ。また迎えに行きますから。」
「あはっ、それは魅力的かも。でも、駄目かな。駅まで来るのも大変でしょ?」
流石に雨が降る度に迎えに来てもらうのは申し訳無い。今回は甘えてしまったけど、私なんかのために彼女の負担は増やしたくない。こういう事は、慣れてしまってはいけないのだと思う。
「こんなの、大した事無いっスよ。陽葵さんに会えるって思ったら、むしろ嬉しいくらいっス。」
そうだ。きっと滅多に無い特別な事だから、とても嬉しいのだ。彼女の言葉も、小さな笑みも。いつも以上に、心が弾む。
彼女の家まで、あと少し。あと少しで非日常が、夢の様な時間が終わる。駅から近い事をちょっぴり恨んだ。
「もう少しで着いちゃうね。ちょっと寂しいかも。」
「え、まだでしょ。」
「でも、もう結華ちゃん
駅からの道を歩いて来て、丁字路に差し掛かって右側へ行けば、すぐに彼女の家が見える。私の部屋へは、反対側の道だ。ならば、そこで別れるべきだろう。それとも、彼女の家までは行った方が良いだろうか。
「……濡れて帰る気っスか? それじゃ意味無いっしょ。陽葵さん
思い掛けない言葉に、彼女の方を見る。じとりとした視線がこちらへ向けられている。彼女はやれやれと言った風に溜息を吐いた。
「えっ、でも……。」
「でも、じゃないんスよ。風邪引いたらどうするんスか。看病は? 誰がしてくれるんスか。私だって、いつでも傍に居られるわけじゃないんスよ。」
彼女は間違いなく心配してくれていて、しかしその内容は酷く現実的だった。
考えてみれば一人暮らしをしてからのこれまでは、一般的に言えば幸いな事に風邪を引いた事は無かった。目立った病気や怪我もしていない。精々、少し体調が悪くなったくらいだろう。
だから甘く見ていると言えば、そうなのだろう。でも、それでも構わないと思っている。自ら進んで病気になるつもりは無いけど、なってしまった時には仕方が無い。例えそのまま死んでしまっても、言い訳が出来る。
つまり、私の体調なんかよりも彼女の負担の方が重い。普段、私の部屋へ遊びに来るのとは違う。わざわざ部屋まで送ってもらっても、彼女はすぐに家まで歩いて帰らなければならないのだ。
「でもでも、うちまで付いてきてもらうのも悪いし、ね?」
「……陽葵さんって、変なとこで遠慮しますね。悪いって思うなら普通、最初に断るんじゃないっスか?」
彼女の足元から音が止み、掴まれた腕を引っ張られて。釣られる様に、私の足も止まる。
彼女の言葉は事実に他ならない。今更遠慮するのなら、最初から断れば良かったのだ。理由を話せば彼女だって納得して――と思ったが、泊まりに来た時の事を思い出す。納得してくれるかは分からないけど、理解はしてくれると思う。ただ、それで止まるとは思えない。
でも、彼女に会えて、優しくしてもらえただけで十分だ。十分過ぎるほどに、幸せを感じている。これ以上は、流石に望み過ぎなのではないだろうか。
「じゃあ、一緒に暮らしますか。」
「……えっ?」
「帰るとこが一緒なら大丈夫でしょ?」
思考の途中に、どうしようもない空白が生まれる。だってそれは、私が喉から手が出るほどに、欲しい言葉だったのだから。
独りの静けさは寂しい。それは彼女と関わる内に、思い出してしまったものだ。一人暮らしをしてからは、夜の静寂が辛かった。それも罰だと思いながらも、次第に慣れていったはず、なのに。彼女と出会って、週末に遊ぶ様になって。彼女が去ったあとの部屋は、前よりもずっと寂しくて、静か過ぎて、孤独を感じる。
だから私の部屋まで送ってくれたあと、その先に期待してしまう。少しでも良い、一緒に居てくれたのなら。出来れば、翌朝まで共に過ごせたなら。それはきっと、最上の幸せの一つなのだと思う。
「あははっ、びっくりしちゃった。いつか一緒に暮らせたら良いよね。」
「私は今の話をしてるんスよ。」
その眼差しは、真っ直ぐに私を射貫く。誤魔化しすら許さないと言いたそうな雰囲気に、思わず息を飲んだ。
妄想、あるいは理想と現実の区別は付けるべきだ。現実的に考えれば、別れ際のキスくらいが精々だろう。せめて明日が休日であれば、まだ違ったのかもしれないけど。
「あのね。私達はまだ子供なんだよ。気持ちだけでどうにかなるものじゃないの。そのくらい結華ちゃんだって分かってるよね。」
「分かってますよ。だから、今日だけ。今日だけ、同じ所に帰りましょう。」
どうすれば、良いのだろう。何故、こんなにも真剣な面持ちで言うのだろう。それを受け入れるにしても、どちらに行けば良いのだろう。私の部屋か、それとも彼女の家か。
駄目だ、ご両親に迷惑は掛けられない。確かに、いつでも泊まりに来て良いとは言っていたけど、今日これからとなれば非常に迷惑なはずだ。例え表に出さなくとも、そのくらいは想像が付く。となれば、行き着くのは必然的に私の部屋になる。
「……先にご両親の許可は取って。」
「そこは連絡入れるだけで大丈夫っス。先に色々言ってあるんで。」
聞けば、事前に許可は取ってあるらしい。だったら少し安心――色々って、何だ。待て、落ち着け、高梨陽葵。流石に何もかもを明け透けには言っていないだろう。いやいや、例えそうだとしても、私達は男女の仲ではないのだから。女同士なのだからまだセーフ、セーフなのだ。いや、アウトか?
確かに挨拶にも行ったし、感じた限りでは悪くない評価はされていると思う。しかし、娘に邪な手を伸ばされて平然としていられるだろうか。将来的にならともかく、彼女はまだ中学生だ。もう少しで進学するとは言え、一つの区切りを目前としている中学生なのだ。それが不純異性交遊――いいや、決して不純なだけでは無いし、同性だけど。しかしそんな行為をしていると思えば、親としてはきっと嫌な気分になるのではないだろうか。
「色々って、変な事言ってないよね!?」
「変な事?」
「その、例えば、私との、えっちな事……とか。」
「言うわけないでしょ!? 急に泊まる事になった時とか、その辺の話をしただけっスよ!」
なるほど、確かに事前にそう言った話を通しておけばスムーズに事が運ぶわけだ。許可が下りるのであれば、だけど。その辺りに理解のあるご両親で助かったとも言えるが、私の内心は羞恥に悶えていた。
まだ友達だった頃とは違う。恋人の家に泊まると言う事は、するであろう事も察されているわけで。行為を想像させてしまう申し訳無さと恥ずかしさ、それから娘を汚してしまう(彼女との立場を考えると、どちらかと言えば私が汚されている方かもしれない。)事を考えると、どうしようもない焦燥と羞恥が私を襲うのだ。
結局、私は折れた。せめてもの仕返しに、連絡を取っている彼女を片手で抱き寄せた。体温が高くて、今の時分にはより抱き心地が良い。胸元の方から少し強張った声が聞こえる。ここでちょっとした悪戯を仕掛けたら――いや、やめておこう。
「……陽葵さん。私、通話してたんスけど。」
「ごめんね。はあ、結華ちゃんって、やっぱり暖かいね。」
連絡を終えた彼女が、こちらを見上げて睨む。そんな姿も可愛くて、つい嬉しくなってしまう。
「これじゃ歩けませんから。続きは帰ってから、ね?」
その言葉だけで、私はすっと、滑らかに彼女から離れた。部屋に戻れば、今の続きが待っているのだ。これがどれほどの誘惑か、他の人に想像出来るだろうか。いいや、出来るはずもない。
それからいくらか話しながら歩いて、私の部屋まで辿り着いた。鍵を開けると、彼女が我先にと中へ入る。気の早い事だ。振り返って私の方を見るその姿に、くすりと笑いが溢れる――
「おかえり、陽葵さん。」
「――えっ?」
あれ。おかえりって、何だっけ。聞き覚えがある。そうだ、家に帰ればそう言われるんだ。だけど、それを言ったのは誰だったっけ。
「あ、あぁ……っ。」
お母さん。
私がおかえりって言ったら、その人は、こう返したんだ。
「たっ、ただいま……っ! ただいまっ!」
だけど私の前には、たった一人しか居ない。彼女に抱き着いて、私は幼い子供の様に泣き続けた。
最愛の人が、私の帰りを迎えてくれる。それは本当に幸せな事で。たった一言で、ただのマンションの一室を、自身の家だと思えた。
ようやく、私は家に帰れたんだ。彼女のお陰で、帰る事が出来たんだ。
泣いて、泣いて、泣き続けて。背中を撫でる小さな手の感触は、涙を止めるどころか更に溢れさせる。傘の下で、雨は降り続ける。
今日の事を決して忘れない。一日だけでも、私の家族になってくれたから。この部屋と、彼女の腕の中が、私の帰る場所になったのだから。
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