迷い子

 あれ。どうしたんだっけ。

 遠くから女性の声が聞こえる。ううん、近くかな。酷い金切り声だ。どうしてそんなに、叫んでいるのだろう。

 あれ。息が、苦しい。肺の中の空気を全部吐き切った後みたいだ。


「――ぁぁぁ……ッ!」


 喉から、擦れた声が漏れている。

 そうか。あの女性の声は、私の物だったんだ。でも、どうして、叫んでいるんだっけ。

 ああ、そうだ。そんな事より、そらを助けなきゃ。きっと今頃、熱くて、苦しい思いをしている。私が、助けなくちゃ――

 空っぽの肺に生温かい空気が送り込まれる。一度、二度、三度。その度に、柔らかな何かが唇に触れる。


「陽葵さん! お願い、しっかりして!」

「……あ、え? 結華、ちゃん?」


 気付けば、彼女は私の両肩を掴んでいた。普段の小さく変化する表情とはまた違って、酷く真剣な眼差しだった。

 遅れて喧騒が耳に入る。数えきれないほどの人々が慌ただしく移動している。


「今、何が起きてるか、分かる?」

「えっと……火事、なんだよね?」

「うん。だから私達も避難しよう。大丈夫、私が一緒に居るから。」


 彼女に手を引かれ、私は歩き出した。周りを見れば他の客の姿は見えず、とっくに避難していたみたいだ。

 どうやら私は、火災報知器のアナウンスを聞いて錯乱していたらしい。思えば、中学の頃の避難訓練の時もそうだった。あれから避難訓練の日だけは欠席しているから、こうなる事もほとんど忘れていた。


「ここから離れた所で火が出たみたい。このまま一階まで降りれば大丈夫だよ。」


 安心させる様な、優しい口調。大きな心配を掛けてしまった。私はもう落ち着いているから大丈夫、なんて言おうとして。

 気付けば唇は震えていて、喉はおかしなくらい固まっている。さっきは、喋れたのに。

 握る手に力が篭もっている事に気付いた。それは多分、痛いくらいに。緩めようとしても、自分の体なのに上手く動かせない。

 きっと私はまだ怯えていて、緊張している。その一方で、酷く冷静な私が居る。同時に二つの自分が存在しているかの様だ。まるで私と言う人間を、その頭上から俯瞰しているみたいだ。

 結局彼女に気遣わせたまま、私は付いていく以外に何も出来ずに居た。


「どなたか、息子を知りませんか!? 五歳くらいの男の子を見ませんでしたか!?」


 一階まで降りると、階段の近くで女性が必死な様子で道行く人に尋ねていた。息子さんを探しているみたいだ。

 私は動けなかった。彼女の手を握り締めたまま、震えていた。いつもだったら、助けに行くはずなのに。

 結局、あの頃から変わっていない。本当の危機に陥った時、私は助けてもらうだけなんだ。お父さんも、結華ちゃんも、助けてくれたのに。私はただ、震えているだけ。


「お願い、誰か……。」


 か細い声が聞こえて、立ち止まる。手を繋いだ彼女からは戸惑いを、周りからは迷惑そうな視線を感じる。

 俯瞰していた私が、見下ろしていた私に吸い込まれていく。感覚は鮮明さを取り戻している。既に震えは無い。今なら、動ける。

 助けなきゃ。きっと、子供の方も母親を探している。助けを求めている。怖がってなんか居られない。今度こそ助けるんだ。


「……陽葵さん?」

「ごめん、結華ちゃん。……あの。お子さんと最後に一緒に居た場所は覚えてますか?」


 聞けば、二階で階段へ向かう途中にはぐれたらしい。探したくても人の流れに巻き込まれてここまで来てしまい、仕方なく階下で人に尋ねながら、もしかしたら息子さんが同じ様にこちらまで流されてくるかもしれないと待っていたそうだ。

 確かに息子さんの方からこちらまで辿り着く可能性はある。入れ違いになっては困るので、女性にはこの場で待つ様に伝えた。


「……本当に探しに行く気? ねえ、二階は危ないって分かってるの?」

「危ないから行くんだよ。結華ちゃんは先に外に出てて。これ、よろしくね。」


 小火ぼやなのか、既にある程度燃え広がっているのか。火事の規模がどのくらいかは分からないけど、彼女が言った通りに危険なのは間違いない。だからこそ、小さな子を見捨てるわけにはいかない。そうだ、二度と見殺しになんてするものか。

 持っていた鞄を彼女に押し付けて、先に避難する様に伝える。私の勝手に彼女まで巻き込んで、危ない目に遭わせたくない。


「ちょっと、陽葵さ――」

「ねえ。私、幸せになれたよ。えへへっ、さっきは言いそびれちゃった。」


 先程は火災報知器に邪魔されて言えなかった事を、今度こそ伝えた。こういうのを面と向かって言うのは少し照れ臭くて、つい笑ってしまう。そんな照れ臭ささえも幸せで。今なら、例え死んでしまっても悔いは無い。

 彼女を置いて、一人走り出す。大多数の人達がこの一階や外まで避難している様で、階段や上の階は人通りが少ない。私の所為で避難は遅れたが、今はそれが逆に良かった。

 二階を走りつつ息子さんの名前を呼び掛けながら周囲を探す。広い通路にはそれらしき姿は見当たらない。どこか、店の中にでも迷い込んでしまったのだろうか。

 異臭を感じる。何かが焦げた匂いが、少しずつ強まっている。火災現場が近いらしい。嫌な想像をして、しかしそれを振り払う。大丈夫、人の匂いはしていないはずだ。

 それでも焦りが募っていくのが分かる。ああ、乱れた髪が顔に当たって鬱陶しい。こんなちょっとした事でも苛立ちを感じてしまう。

 私の足音ばかりが響く中、微かな泣き声が聞こえた。押し殺そうとして、それでも漏れてしまった嗚咽の様な。数多く並ぶ服屋の一つ、その奥で見付けたのは、果たして件の男の子だった。聞けば、男は簡単に泣いたりしないのだと半泣きで強がっていた。まだ幼いのに、私よりもずっと立派だ。

 たった一人で縮こまりながらも強がる彼は、あの映画の少年の様だと思った。私はヒロインじゃないけど、この非日常の出口まで送り届ける事は出来る。母親の元へ案内しようと立ち上がった時、軽やかな足音が聞こえてきた。


「――陽葵さん!」

「結華ちゃん? どうして……。」


 彼女だった。自分の物と、私の鞄を持って、消火器まで抱えている。重いだろうに、それでも足取りはしっかりとしていた。大して乱れてもいない息を少し整えてから、彼女は消火器をその場に放り捨てた。

 先に避難する様に言ったのに、どうして。彼女には安全な所に居て欲しかった。行き場の無い気持ちに心がざわめく。


「……無事に見付かったみたいっスね。早く出ましょう。」


 彼女の言う通り、長居は無用だ。今は私の気持ちなんてどうでも良い、避難を優先するべきだ。

 頷いて、一緒に歩き出す。元の場所に戻るまで、私達はほとんど口を開かなかった。緊迫した空気を感じ取ったのか、男の子もまた静かにしていた。

 親子から何度もお礼を言われながらも外へ出ると、ショッピングモールのスタッフが拡声機を使って状況を説明していた。どうやら火事自体は大した事は無く、既に火は消し止められているらしい。ただし消防と警察が来て許可が下りるまでは、安全の確認と現場保存のため立ち入り禁止。営業再開の時刻は未定との事。

 動画でも撮っているのだろうか。スマートフォンを構えている人が多くて、少し嫌な気分になった。

 軽く腕を引っ張られて、彼女の方を見る。いつも通り、表情の変化は小さい。それでも、心配そうにこちらを見ているのは分かった。


「あの、陽葵さん。シュシュ落としました?」

「……え?」


 ――無い。

 思わず両手で自分の髪を撫で回す。無い。どこにも無い。髪を纏めていたはずの物が無い。

 壊れた? こんな時に限って?

 嫌だ。失くしたくない。あれは結華ちゃんから貰った、大切な宝物なんだ。


「どこ行くんスか!」

「離してっ! 探しに行かなくちゃ……っ!」

「ちゃんと拾っておきましたから! 落ち着いてください!」


 再度店内に向かおうとすると、彼女は私の腕に思い切りしがみついて引き留めてきた。その言葉を聞いて、私は止まった。

 腕を離した彼女が鞄から水色の布を取り出す。差し出されたそれは、既に髪留めとしての機能を失っていた。

 それでも良い。彼女の手ごと、壊れたシュシュを両手で包む。この手の中に戻ってきてくれた事に、深く安堵した。


「あ、あぁ……。ありがとう……。」

「はあっ、もう……!」


 彼女が大きく溜め息を吐く。その表情は変化が小さ過ぎて、ほとんど真顔に見える。感情が上手く読み取れない。呆れているのか、怒っているのか。

 故意ではないとは言え、シュシュを失くしてしまったのは事実だ。いつも身に着けているのに。大切だって、言ったのに。


「ごめんね、落としちゃって。」

「壊れたんだからしょうがないっスよ。こんな状況だし。と言うか、陽葵さん。暴走し過ぎっス。反省してください。」


 思わず俯くと、両頬に温かいものが触れた。彼女は両手で私の顔を挟んで、前を向かせる。

 ふっ、と彼女は小さく笑う。そして幼い子を諭す様に、私を叱った。

 いつまでも落ち込んでは居られない。涙が出そうになるのを誤魔化して、空元気でも立ち直った様に見せる。


「あははっ、ごめんね? でも、見付けてくれて本当に助かったよ。あの子も無事に助けられたし、終わり良ければ――」

「何も良くなんてないっスよ。」

「――え?」

「結果論でしょ、それ。」

「あ、えっと……。」


 あれ。おかしい。一件落着と言った雰囲気だったはずなのに。

 目の前の彼女は無表情だ。いいや、少しだけ目付きが鋭くなっている。でも、それに気付かなくても、本気で怒っている事は明らかだった。

 怖い。彼女の事を、初めて怖いと思った。

 その視線に耐えられなくて。無理矢理に顔へ笑みを貼り付けて、緊迫した空気を変えようとおどけてみる。


「あはっ、もしかしてあの子に嫉妬しちゃったとか? 大丈夫だよ、私は――」

「ふざけないでよッ!」


 衝撃。

 何が起きたのか、理解出来なかった。

 じわり、じわりと頬に熱が集まっていく。

 数秒の間を置いて、私はようやく叩かれた事に気付いた。

 彼女の方を見れば、頬を紅潮させ、肩で息をしている。先程よりも目は鋭さを増していて、歯を食い縛っている。

 彼女は激怒していた。


「あ……。ごめん、ごめんなさい。シュシュ、無くしちゃって……。」

「……違う。その話は済んだじゃん。」

「……ごめん。」

「分からないの? ねえ。こんな事、アンタが一番良く分かってるはずでしょ? なんで怒ってるのか、本当に分からないの?」


 謝ったきり、私は続く言葉を見付けられずに居た。

 私が悪いのは分かっている。でも、彼女が怒っている理由が分からない。

 シュシュの事も違えば、つまらない嫉妬なんかでもない。だったら、他に何があるだろう。

 分からない。

 彼女は何度か大きく呼吸を繰り返してから、再び口を開いた。


「なんで私を置いていったの? 私が頼りないなら、周りの大人に声掛ければ良かったじゃん。どうして一人で突っ走ったの? ……ねえ、分かってるの? もっと大きな火事だったら、陽葵さんのやった事ってただの自殺行為なんだよ?」

「で、も……。結華ちゃんに、危ない事、させたくないし……。他の人だって、逃げたいだろうし……。私なら、別に……。」


 どうして。何故、良い事をしたのに怒られているのだろう。彼女だって、お節介なお姉さんの私も好きだと言ってくれたのに。

 命の価値は等しくない。今の私にとっては結華ちゃんが一番で、その次に身近な人達、小さい子供、見知らぬ他人と続く。

 だから彼女には早く避難して欲しかった。だから迷子の子供を助けようと思った。だから他の人を巻き込もうとは思わなかった。

 私なら別に、死んでしまっても構わない。あの場で、一番価値の無い命は私だった。本当なら、あの時に――家族を殺した時に、死ぬべきだったのだから。


「……そう。そうっスか。良く分かりました。今日はもう、帰りましょう。」

「結華ちゃん……?」

「頭を冷やしましょう。お互い、気が動転してるみたいっスから。」


 またも表情を無くした彼女は淡々とした、しかし有無を言わさぬ様な口調でそう言った。

 それからは、会話もほとんど無くて。すぐそこで揺れる小さな手は、私の腕に触れてもくれない。彼女の行く先を、私が追い掛ける。

 言い訳ばかりが頭をよぎる。だけど口にしたら、彼女を更に怒らせてしまいそうな気がした。

 どうして、こんな事になってしまったのだろう。幸せな気分なんて一つも感じない、酷く気不味い帰り道だった。

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