その隣は譲れない
その言葉を否定したくて、柳原さんを抱き締めた。幼い子をあやす様に頭を胸元に抱き寄せて、その背中を出来る限り優しく撫でる。私よりも背が高いはずなのに、その姿はずっと小さく見えた。
馬鹿か、私は。何のために声を掛けたんだ。『消えてしまいそうなほど重症なわけではない』? 何を見ているんだ。今にも自ら消えて無くなってしまいそうじゃないか。
「何、するんですか。」
「……柳原さんは、そのくらいで諦めちゃうの?」
柳原さんからの抵抗は無い。その気が無いのか、それとも気力が無いのか。どちらかは分からないけど、私はその問いには答えず、自らの問いを被せた。
「仕方ないじゃないですか。うちの親だって、私の事を想って言ってくれてるのは分かるんです。結局、私達みたいな子供は身の丈に合った場所へ行くものなんですよ。」
「そうかな。どんな場所でも、やれる人は頑張れるよ。でも、柳原さんは逆なんだと思う。どんなに良い場所でも、あなたは結華ちゃんが居ないと駄目なんでしょ? だったら、あなたにとっての一番良い所を目指す方が良いよ。」
私の言葉は、ただの綺麗事なのかもしれない。だってそうだろう、将来を見据えるなら、その人の能力に相応しい環境に居た方が上を目指せる。柳原さんのご両親も、そしてきっと学校の先生もそう考えていると思う。
だけど、それが本当に良い事なのだろうか。本人の意志を無視してまで推すべき事なのだろうか。頭から否定して道を決め付けるのは、本当に柳原さんのためになるのだろうか。だって柳原さんが望んでいるのは上ではなく、彼女の隣だ。私とはまた違う意味で、丘野結華と言う人の隣に居たいのだ。
燃え尽きた彼女を見ているからか、それとも今の状況の所為だろうか。まだほんの少ししか柳原さんの事は知らないけど、望まぬ進学先でモチベーションが落ちてしまった時の事が想像出来てしまう。だからこそ、決して軽視する様な問題ではないはずだ。
「いつかは踏ん切りを付けなくちゃいけなんですよ。それが今だっただけの話です。」
「それはあなたが決める事だよ。親や他の人に任せる物じゃない。大丈夫、絶対に何とかなる。だってあなたは結華ちゃんに勝ち続けてきたんだもん。それともご両親は、あなたのライバルよりも手強いのかな?」
「……そんな事無い。結華に比べたら、誰だろうと相手になりません。」
「あはっ、言い切ったね。」
ずっと俯いたままだった柳原さんが、顔を上げる。その瞳には、力強い炎が点っている様に見えた。
抱き締めていた所為で酷く近くて、思わず息を飲む。一つだけ弁明するならば、決して心が浮ついているわけではない。同じ見惚れると言う表現であっても、これは恋ではなく感嘆。例えるならば、目の前に突如として最高峰の美術品が現れた様な物なのだ。
「ああ、そうか。くひっ、自分の事ながら滑稽と言うか、笑い飛ばしたい気分です。」
苦笑しながら、柳原さんはやんわりと私の腕を解いた。もう、大丈夫なのだろうか。
「それが当たり前だったから、ですかね。自分から言っておいて、どうして忘れてたんだろう。」
「うん?」
「約束したんです。高校でも、いっぱい勝負しようって。まあ、アイツは嫌がってましたけど。」
そう言って、肩を竦めた。微笑んでいても、その声からはどうにも寂しそうな響きがあった。
彼女と柳原さんとの約束事も、初めて知った。ライバル同士の話だ、わざわざ私に話す事でも無い。彼女だって、自ら全てを話してくれるわけではない。だけど、少しだけ疎外感を覚えてしまう。そもそも、二人の間柄に私は関係無いと言うのに。
「勝負するのは良いけど、程々にしてね? 結華ちゃんは私のなんだから。」
「さて。それは高梨さん次第ですね。」
「私?」
虚空にも地べたにも、柳原さんの視線は向いていない。それは私の瞳を真っ直ぐに射貫いている。そこには間違いなく活力が宿っていて、あの日の彼女を思い出させる。
二人共、本当に強い人達だ。ほんの少しの言葉で、自ら立ち直ってしまうのだから。そこに強い繋がりを感じて、少し妬いてしまいそう――いいや、この気持ちはちょっと違っていて、多分羨ましいのだと思う。私もその様に在れたのなら、なんて。
「精々アイツの気を引いておいてください。今も結華から好かれる努力くらいはしてるんでしょう?」
当然だと言い掛けて、喉が詰まる。私にその言葉を口にする資格はあるのか。最愛の人にすべき事を、そのライバルからの言葉で、私は気付かされた。
彼女から好かれるための努力。果たして私は、それが出来ているのだろうか。
――受け身なだけじゃ飽きられるかもよ?
先日言われた事を思い出す。それから、自問自答のリフレイン。動揺は眼前の隣人にも伝わってしまう。
「あ……。それ、は……。」
「……まさか、嘘でしょう? 今まで一体何をしてたんですか? こういう経験の無い私が言うのも何ですけど、付き合うのはゴールじゃないんですよ。」
知らない内に、愛される事に慣れてしまっている。いつの間にか、彼女から与えられるものが当たり前になっている。それを得るための努力なんて、私はしていないのに。
考えてみれば、当然の事だった。交際しているからと言って、それが永遠に続くとは限らない。何もしなければ、やがてはこの手から零れていく。今の幸せをどこまでも続かせるためには、彼女の心を繋ぎ止めておかなければいけないのに。
――『今の幸せ』? 彼女に返そうと思っていた愛は、どこへ行った? 私が抱いている物は、本当に愛なのか? 私はまた、自分の事ばかりを考えているのではないか?
分からない。考えるほどに、分からなくなる。
「あれ? 何、分かんない、どうすれば良いの……?」
「ちょっと、高梨さん? 凹み過ぎじゃないですか? 少しくらい言い返してくれても……。」
「私、何も出来てない。やっぱり私なんかが、結華ちゃんと付き合ってるなんて――」
「――覚悟を決めろッ!」
一喝。
柳原さんは両手で私の肩を掴み、感情よりも芯を感じさせる様な、奥底へと響く様な声を向けた。
「逃げるな。あなたは結華に選ばれたんだ。……アイツはとっくに覚悟を決めて、本気であなたに向かってるんですよ。あなたも本気で行かないと、対等にはなれない。」
――最高に幸せだって言わせてみせますから。覚悟、しておいてくださいね。
今までの私は、本気だったか?
彼女への気持ちは本気だ。本気で、好きだと言える。だけど、本気で愛を伝えられているのだろうか。
彼女と付き合い始めてから。彼女の気持ちを、私は全て受け止めようと思っていた。それから時を経て、関係も進んで。私もまた、少しずつでも彼女へ気持ちを返していると思っていた。
違う。返すのではない。それだけでは、きっと足りない。
「……そう、だよね。もっと真剣にならなくちゃ。受け止めるだけじゃ、駄目だよね。」
「ええ。どうせ、アイツは放っておいても勝手にやります。高梨さんも出来る事はしていかないと、すぐに置いて行かれますよ。」
私の方から、自分の気持ちを全てぶつけなければいけない。言えなかった事も、伝えていかなければならない。
私の一番大切な人。彼女のお陰で、幸せの絶頂に居る。
怖かった。それを伝えたら、私への執着が失われてしまうかもしれないと思っていたから。
だからきっと、私はスタートラインにも立てていない。失う事を恐れて、逃げ回っているだけ。
彼女に追い掛けてもらうだけでは駄目なのだ。私から手を伸ばさなければいけなかった。私が、彼女を掴んで離さない様にしなければいけない。
「ありがとね。あははっ、力になれたらって思ってたのに、何だか逆になっちゃった。」
「それはお互い様って事で。私も色々吐き出せたお陰で、頭の中がすっきりしましたよ。」
全く、最近の私は駄目だ。彼女と出会うまでは、頭を悩ませる事も心を乱される事も忘れていたのに。ネガティブな思考に染まる事も、忘れていられたのに。学校で馬鹿な事を言って、困っている人に手を貸して、それだけで良かったのに。
だけど。それも悪くない変化なのだと思う。仮面を被り続ける日常は、本当を言えば無味乾燥だった。だからこそ何も感じずに居られた。でも彼女のお陰で、罪深い本当の自分を晒す気になれた。
あの時と同じだ。ほんの少しだけ、変われば良い。何度も心に抱いてきた『私なんか』とか、きっと自分本位の考えだ。彼女にとっては関係無い。今までの、自分の事ばかり考える自分を変えるんだ。
大丈夫。怖いのは最初だけ。ほんの少しだけ勇気を出して、自分から彼女に近付く。そうしたら、次からはもっと気軽に近付いていける。それも彼女から教わった事だ。
ふっ、と自嘲する。このくらい、本当なら付き合う前に知っておくべき事なのに。彼女の気持ちに甘え続けた結果、そのライバルから教えられる事になるなんて。今ですらこの有り様だ。彼女と付き合う前までの私は、あまりにもいい加減過ぎた。
「お互い頑張らないとだね。結華ちゃんと一緒に居るために。」
「……くひっ。負けませんよ、陽葵さん。」
「あはっ。私だって譲れないよ、真理ちゃん。」
認めてもらえたのかは分からない。だけど、スタートラインには立てたのだと、そう思った。だから私も、同じ様にライバルを呼んだ。
互いに彼女へ抱くそれが異なる感情であろうとも。私が真理ちゃんより出遅れていようとも。彼女の隣は、誰にも譲れない。
それはそれとして、真理ちゃんとも仲良くなれればと思う。ライバル同士だけど不和の無い彼女達の関係を思えば、きっとそれも不可能では無い。いがみ合うとすれば、それこそ互いに譲れない、対決の時だけで十分だ。
くすくすと笑い合っている内に、ふと気付く。それはほんの些細な事だけど、心の隅に引っ掛かった。
「あのさ。思ったんだけど、私達って名前似てるね。」
「一文字違いですからね。」
「……結華ちゃんも、その辺意識してたりして。」
「無いですね。アイツ、勝負事……と言うか、多分興味持ってる事、かな。それ以外には割と鈍いんですよ。それこそ指摘されないと気付かないくらいに、私達の名前なんて全く別に考えてると思いますよ。」
口に出した疑問は、間髪置かずに即答された。流石に、彼女の事を良く分かっているだけある。いつの日か、私も同じくらいに――いいや、もっとだ。真理ちゃんよりも、もっと彼女の事を理解する日が来れば、なんて。
湧いた願望は瞬く間に明確なる指針へ変わる。何と言う事は無い、知ろうと思ったのはこれが最初ではない。しかし、今までの様に理由を付けてではなく。純粋に、彼女の奥深くまで知りたい。
大丈夫。そこにあるものが綺麗じゃなかったとしても、嫌いにはなり得ない。そう、何があっても。
――駄目な所はたくさんあると思います。それでも、好きで居てくれませんか?
真理ちゃんと別れを告げてからの帰り道。街灯に照らされたアスファルトの上を歩きながら、すっかり冷たくなってしまった夜の空気に身を震わせる。来月には、出会いから半年になる。とっくに夏も残暑も過ぎて、冬が近付きつつあるのだ。今年こそはまともな防寒具を買うべきか。
長いマフラーでも買ってみようか。それを二人で巻けば、きっと真冬の寒さでさえ忘れてしまえるだろう。彼女の意見も聞きたいし、一緒に買いに行きたい。やっぱり動物の柄を選ぶのだろうか。
その光景を想像して、頬が緩む。誰も居ない部屋へ帰っても、想う暖かさをいつまでも感じていた。
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