柳原真理は何の価値も
丘野結華は、私の憧れだった。
私が初めて出会った頃の結華は、何をしても一番だった。楽器を持てば誰よりも上手くて、走れば同年代の誰よりも速くて、球技では結華が入ったチームが必ず勝つ。まあ、成績に関して言えば、当時は小学生だったのでほとんどの子は百点を取れていたけど。
特別な努力している様には見えないのに、アイツは常に一番だった。他者と比べて圧倒的な才能を持つ、天才だとか神童だとか呼ばれるべき子供だった。
片や、私は普通――いや、普通よりは秀でた才能があったのかもしれない。今まで結華に散々勝っておいて、自身を無才などとは言えない。そう、アイツには劣るが、ある程度の才能くらいは持っていた。所詮、磨き続けなければ埋もれてしまう、何もせずに大人になれば普通だと言われてしまう程度の物だったけれど。
最初は軽い考えだった。何か一つくらい、あの子に勝てる物があったら。そんな風に漠然と考えた。そうして選んだのは、足の速さだった。
それから私は、たった一つだけに絞って努力を積み重ねた。他を疎かにしてでも、走る事だけに熱を注いだ。
幸いな事に、私は目が良かった。更に言えば、要領も良かったのだろう。小学生であろうとも、アプリで動画の検索くらいは出来る。だから様々な選手の動きを覚えて、真似をし始めた。勿論、結華の走り方も。
それを繰り返していく内にいつしか自分に合った走法を会得して、当初よりもずっと速くなった。小学三年生の体力テストの日。その中の五十メートル走が、自分で決めた勝負の時だった。
勝った。勝ってしまった。いつも一番速かったあの子に、勝ってしまった。
『やるじゃん。でも、次は私が勝つからね。』
それまでにも何度か話した事はあったのに、不思議だ。その時、初めて結華にちゃんと見てもらえた気がした。口元に浮かべた挑戦的な笑みを覚えている。
それから何度か競走を持ち掛けられて、私は勝ち続けた。幼いながらに、これだけは負けたくないと言う意地があった。
『決めた。私、真理ちゃんのライバルになるから。覚悟しておいてよ。』
これが結華から勝ち取った宣言。私にとっては、対等であると認められた証だった。
それから私は、六年生になるまで短距離走で結華に負けた事は無かった。思えばその頃からだろうか。結華は滅茶苦茶な練習を繰り返していた。効率なんて度外視して、量だけをひたすらに消化していた。私のやり方とは真逆だった。傍から見ても、馬鹿だとしか言い様が無かった。
だけど六年生の春。それも体力テストの日だった。背と共に年々増えていく体重に、私は付いていけなかった。対して結華は小学四年の頃からほとんど変わらず、その身軽さで私を追い抜いた。成長した脚の長さなんて、全然有利に働かなかった。
結果、私は負けた。その時のアイツの目が忘れられない。あの失望の眼差しが忘れられない。
――この時には、勝ちたいって気持ちはありませんでした。負けたくない。それだけでした。だって、そうでしょう? 対等だと思ってたアイツに、そんな風に見られたくなかったんです。
私はもう一度努力した。今度こそ、アイツに負けない様に。それは中学に入ってからも続いた。
入学してすぐの頃、これまた体力テストの百メートル走でアイツに勝った。結華はまた、私をライバルだと認めてくれた。言葉にしなくたって、視線で分かった。
それから二人して陸上部に入って、僅差の勝ち負けを繰り返して、やがて私が勝ち続ける様になった。その時の先輩達には勝てなかったけど、私はそれでも良いと思っていた。私は結華にさえ負けなければ、それで良かったから。
だけど、結華は違った。私よりも速い人達を見て、もっと上を目指し始めた。だったら私も負けるわけにはいかない。アイツと対等で居るためには、それしか無かった。結果から言えば、私は一年の夏の時点で女子陸上部の誰よりも速くなって、今に至る。
――でもね。中学生ですよ? ただ走ってるだけじゃ、駄目じゃないですか。そう、勉強こそが本分ってやつです。
それまでの私は、走る事だけに力を入れていた。全てを注いでいたと言っても良い。だから、当然と言うべきか。中学一年生、一学期の中間テストの結果は酷い物だった。結華にも負けたけど、その目は私を映していなかった。アイツだって飛び抜けて良い成績だったわけでもないのに、当時の学年一位の名前だけを見ていた。
それが無性に気に入らなかった。その時までは、私だけがアイツのライバルだったから。私は陸上の練習もそこそこに、勉強をメインに努力を重ねた。これはただの意地だ。むきになっていたと言っても良い。それでも私は、期末テストで学年一位の成績を収めた。あの時から一度も、一位以外の成績は取っていない。
――欲張り、だったんでしょうね。足の速さだけで満足しておけば良かったんだ。でも、私には他でもアイツに迫るだけの才能があった。だから、知らない内に追い詰めてたんだと思います。
結華は私に勝てる物を探し始めた。他の部活に料理――ああ、これも一応部活があっただろうか。テーブルゲームや対戦型のテレビゲームでも勝負した。射的だってそうだ、付き合いの悪いアイツにしては珍しく一緒に祭りへ行った時に勝負したのだ。最初の内は負けたりした物もあったけれど、やがてはその全てで私が勝つようになった。
――話は変わりますけど、ゾーンって言葉、知ってますか? 私は経験した事無いですけど、スポーツ選手なんかがたまに入る境地、って言えば良いのかな。ああ、そうですね。漫画なんかでは良くある表現みたいです。アイツはね、いつでも好きな時に、それに入れるんですよ。
ゾーン。超集中状態。これは本人から聞いた話だが、アイツはそれを自由に使えるらしい。はっきり言って眉唾物だが、そうでないと説明が付かない部分もある。
例えば、アイツは同時に複数の、全く別の物を練習する事がある。二教科の教科書を両手に持ちながら英語のリスニング音声をイヤホンで聞きつつ、学校のグラウンドを走るのなんてざらだった。普通の人間ならそんな事をしてもどれもこれも身に付くはずがない。良くて中途半端になるのが精々だろう。
でも、アイツは違う。ゾーンに入れば不要な事が頭から取り除かれ、必要な事にだけ集中出来るらしい。それはつまり、必要とあらば時間すらも置き去りにする。要するにアイツは、全く同時に物事を進めていたわけではない。超スローな体感の中で複数の事を少しずつ順番に熟していたのだ。
結華には多方面に対するとんでもない才能と、いつでもゾーンに入れると言う反則染みた特技がある。だから最初はアイツが勝つ物もあった。でも、私はアイツに陸上以外で二度負ける事は無かった。それは何故か。
一つ、結華は努力が下手だ。効率なんて考えずに、とにかく量を積み重ねる事を重視する。勉強においては特に顕著だった。最初から教科書の全てを暗記し始める様な馬鹿だ。それを複数同時に、と言うのは誰がどう考えても効率が悪い。前述の特技を以てしても無理がある。
二つ、見て分かる通り、肉体の成長が著しく悪い。十歳の頃から身長や体重がほとんど変わっていないのだから、事スポーツに関しては普通であれば平均的な中学生の体格に勝てるわけがない。それを技術で平然と覆してしまうのが結華なのだが、ある程度以上の実力を持つ相手には当然ながら苦戦する。その上、アイツは筋力でほとんど勝負が決まる様な事には手を出さなかったので、脚力以外は見た目通りに非力だ。
三つ、これは二つ目にも繋がる事だが、結華はいつも不調だった。普段の生活を思えば、当たり前だった。アイツは気絶するまで動き続けるし、ほんの一、二時間で起きたと思えば再び何かをし始める。そんな生活を送っていれば、体の成長だって阻害されるに決まっている。つまりアイツは幼いままの肉体に加えて、常に過労と睡眠不足と言うハンデを背負っていた。
――止めましたよ。そんな事をしたって、体を壊すだけだって。私だけじゃない。他の友達も、アイツの親だって止めてましたよ。無理矢理入院させられた事もありました。それでも、アイツは止まらなかった。
私にだって調子の悪い時はあった。だが、それが何だ。風邪? 生理? そんな物は言い訳に過ぎない。だって私のライバルは、もっと酷い状態で挑み続けていたから。だから私は、余計に負けるわけにはいかなかった。確かに、アイツから興味を失った目で見られる恐怖はあった。でもそれ以上に、全力を出し切れていない結華に負けるなんて、そんな事は認められなかった。
そんな日々が続いて、今年――中学三年の春、新学期。約二週間ぶりに会ったアイツは、唐突に部活を辞めた。私との最初の勝負を、走る事を投げ出した。何故と聞いても、教えてくれなかった。
結華から勝負を持ち掛ける事が無くなった。それまでのほとんどはアイツから仕掛けてきていたのに。しばらく考えて、その理由に思い当たった。いや、現実逃避だったのかもしれない。アイツはぼんやりとしている事が多くなったから。あの時に、もっと真剣に考えていれば――ああ、それはともかく。
私達は中学三年生だ。受験生だ。だから、これからは勉強に集中するに違いない。勝負するとなれば、今年は中間と期末のテストの結果だけになる。更に言えば、結華は去年の三学期末には学年二位にまで上り詰めていた。私との点数差は、ほんの僅かだった。
――考えてみてください。結華は練習や勉強のやり方は滅茶苦茶だったけど、それでも私以外には勝ってたんですよ。アイツがたった一つだけに絞って努力したら、絶対に勝てない。引き分けに持っていけるかも分からない。
だから私も、勉強だけに力を入れた。例え引き分けでも構わない。負けなければ、アイツと対等で居られるはずだから。
私達の学校では、学年で上位十名に限り、中間及び期末テストの点数と順位が掲示板に貼り出される。これは、五教科の合計に過ぎないけれど。それでも、勝負の基準としては丁度良かった。
結果が返されて掲示板を見れば、アイツの名前はどこにも無かった。一番上に、私の名前だけが載っていた。これは、後から本人から聞いた事だけど。結華は、中間テストの全ての解答用紙を白紙で提出したそうだ。名前すらも書かずに。
『ごめんね。私にはアンタのライバルなんて荷が重かったみたい。』
失望した。不貞腐れた態度の結華を見て、お前は誰だと叫びたかった。こんなのは結華じゃない、私のライバルはもっと気高かったはずだ。どれだけ泥に塗れても、どれだけ要領が悪くても、私を越えようと突き進んでいたアイツは、どこへ行ったのだと。
――多分、その頃でしょうね。結華と高梨さんが出会ったのは。中間の結果が返された次の週には、謝られましたよ。
そう、次の週には以前の様な覇気みたいな物は無くなったけれど、不貞腐れた態度は取らなくなった。過度な努力はしなくなったけれど、全く何もしないと言う事も無くなった。
それはきっと、高梨さんのお陰だと思う。アイツの悩みにも、本当の望みにも気付かなかった私では、何も出来なかった。いいや、知っていても、何も出来なかっただろう。例えばわざと負けるだなんて、それこそ
こうして振り返れば、我ながら異常なほどに固執している。周りはアイツが私に勝つ事に拘っていると思っているけれど、本当は逆だ。私がアイツに負けない事に拘っているのだ。アイツの本当の望みを知って、尚更そう思う。
だから私は、結華が居ないと駄目だ。アイツが居たから、今の私がある。同じ高校に行ったとして、それは先延ばしに過ぎないけれど。いつか近くにアイツが居なくなった時、私はどうなるのだろう。アイツと戦えなくて、いつしか努力をやめてしまうのではないか。そうして再会した時には、失望されてしまうのではないか。
――結華は、一番になりたいんでしたっけ。馬鹿ですよね。アイツはとっくに、私の一番のライバルだって言うのに。今はきっと、あなたの一番を目指してるんでしょう?
今日、親に怒られた。もっと偏差値の高い学校に行けるのに、どうして手を抜くのかと。
違うんだ。私にとって、学校の良し悪しなんて関係無い。そこに結華が居なければ、意味が無い。私の自身に対する価値基準は、結華のライバルとして相応しいかどうか、それだけだ。大袈裟に言えば、アイツとの勝負こそが生き甲斐なんだ。
別々の高校へ行けば、急激に疎遠になるのは目に見えている。今でさえ結華は高梨さんに夢中なのだ、アイツが陸ヶ峰に行けば更に高梨さんの方にばかり気が行くだろう。そうなれば他校へ行ってしまった友人の事など、その内思い出さなくなる。
そんなの、納得出来ない。だって私は、まだアイツに負けていないんだ。いいや、例え負けたとしても勝ちの目がある限り、私は結華のライバルで居続けなければならない。アイツとの勝負こそが、私達の絆だから。
だけど私は自分が行きたい学校すら選べない。何で一番になろうとも、こんな小さな望みさえ叶わない。ちゃんと話しているはずなのに伝わらない。大人は私以上に数字ばかり見ている。私の今までは、無駄だったのだろうか。
手は届くはずなのに、掴ませてもくれないなんて。だったらそんな人生なんて、要らない。結華が居ないのなら、こんな私に価値は無い。私には、何も残らない――
「そんな事無い!」
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