依存
「ふう。良し、終わり!」
「お疲れ様っス。頑張りましたね。」
私が終了を告げれば、彼女は開いていた二冊の教科書を閉じて、挟んだテーブルの向こうから小さな掌で私の頭を撫でた。嬉しいし心地好い感覚なのは確かだけど、それは小さな子供を褒めている様で、撫でられる身としてはちょっとむず痒い。
夏休みも残す所一週間。結華ちゃんからの誘惑を受ける中、私はついに宿題を全て終わらせた。毎日計画的に進めていたので余裕を持って終わらせる予定ではあったのだが、やはり実際に完了出来た達成感は大きい。
一方で彼女からの誘惑――いや、最早調教と言うべきか。そちらも驚異的な速度で進んでいた。毎日設定した量の宿題を消化する度に、『ご褒美』と称して快楽を与えられるのだ。今や私の体はパブロフの犬ならぬ結華ちゃんの犬と言った状態で、今しがた宿題を終わらせたばかりだと言うのに体が火照り始めている。最後までやったのだから、今日はきっとすごい事になるのではと期待が高まっている。
「じゃあ、ちょっと買い物行きませんか?」
「……え?」
――ご褒美は?
おかしい。ちょっと頭を撫でられただけで終わってしまった。いや、撫でてもらえるのは嬉しい。嬉しいけど、貰えると思っていた物を貰えずにショックを受けている。
「どうしました?」
「あ、その……。いつもの、は……?」
「いつもの?」
「ご褒美……。」
おかしい。どうして困惑しているのだろう。あれは結華ちゃんからしてきた事なのに。もしかして意地悪で
「あれは勉強してる陽葵さんを誘惑するための言い訳だったんスけど……。もう宿題終わったから良いかなって。」
「嫌だ嫌だ嫌だっ! ご褒美っ! ねえ、私頑張ったよ? ねえっ!」
おかしい! 絶対におかしい! これを楽しみに頑張っていたのに! どうしてそんな事を言うの!?
「……これはちょっと想定外だけど、まあ良いか。じゃあ出掛ける前に、ご褒美あげますね。」
「あ……。あはっ……!」
やった。結華ちゃんからご褒美が貰える。気持ち良い事をしてもらえる。結華ちゃんに愛してもらえる。
「嬉しそうっスね、陽葵さん。自分が何言ってるか、ちゃんと分かってます? 年下の子にご褒美せがんでるんスよ? 子供みたいに必死に駄々まで捏ねて。普通逆じゃないっスか?」
私を馬鹿にする様に、くすくすと笑う。結華ちゃんのスイッチが入った。これが無いと、もう満足出来ない。
テーブルの向こうから指が伸びてきて、口の中に突っ込まれる。細い指が頬の内側を、歯茎を、上顎を、舌を、無遠慮に弄くり回す。くすぐったいけど気持ち良い。
「聞いてます? そんな事で明日からどうするんスか? 今日でご褒美終わりなんスよ?」
その言葉に、私は正気に戻った。真剣な時に氷を背中に入れられた気分だ。
私の口から指を引き抜いた彼女は、唾液に塗れたそれを自身の唇に乗せた。
「陽葵さん。もう依存症になっちゃったみたいっスね?」
確かにパブロフの犬の様な状態だと自覚していた。宿題が終わる、イコールご褒美が貰える物だと思い込んでいた。ただ、それが続いたのはたったの一週間程度。ほんの僅かな期間で、私は彼女に依存してしまっていた。
私は愕然とした。彼女に依存している事実にではなく、明日からご褒美が無いと言う事に。
「あ……。どうしよう……。ご褒美、無くなるんだよね……?」
「そうなりますね。だから今日は、代わりになりそうな物を探しに行こうかなって思ってたんスよ。」
「……代わり?」
彼女はこちらに来て、後ろから私を抱き締めた。小さな体なのに、私を全て包んでくれるみたいに優しくて、暖かい。
「自分へのご褒美って聞いた事ありません? もし私が居なくても、陽葵さんが自分にご褒美をあげられる様になれば良いんスよ。流石に学校始まったら毎日会うのは難しいっスからね。」
「私が、自分に……? でも、そっか。そうだよね。学校始まっちゃうんだ。最近毎日会ってたから、ちょっと寂しいかな……。」
「私も寂しいっス。出来ればずっと一緒に居たい。……ま、それはそれとして。」
突如として耳に水音が響く。生温かい舌が、穴の入口を丹念に舐り上げる。熱い吐息が奥まで送られて、唇が耳たぶを優しく挟む。
これが欲しかった。彼女の温もりを感じている背中に電流が走る。全身が緊張して快感が脳天へと突き抜けていく。
どうされるのが好きかなんて、彼女にはとっくに知られている。私自身が知らない所も探し出されている。私の体の事は、彼女の方がずっと詳しくなってしまった。
「結華ちゃ、あっ!」
「今日は私からあげますね。ご褒美貰えて良かったねぇ、駄々っ子の陽葵ちゃん?」
彼女は決して、胸や秘所と言った分かりやすい場所には触れてくれない。口内を舌で蹂躙しながら、二の腕を爪で軽く引っ掻く様になぞる。臍の下の辺りを服の上からゆっくり撫でて、時折ぽんぽんと優しく叩く。
肩を抱かれ幼い子供をあやす様な格好で、私はもどかしい快感をじわじわと与えられ続けた。
事が済んでから、私の頭はようやくまともな状態に戻った。実際にまともになっているのかも判別する手段は無いけれど、とりあえず性欲関連に思考を支配されてはいない、はずだ。
部屋を出た私達は近くにある雑貨屋に訪れていた。以前も一緒に来た所だ。そんな経っていないのに、その頃を少し懐かしく思う。彼女から貰ったシュシュも、ここで買ってくれた物だ。
「これとか可愛くないっスか?」
「うん、可愛いんだけどね? なんで首輪?」
腕を引かれて向かったのはペットグッズのコーナー。彼女が指を差したのは、犬用の首輪だった。赤色の首輪で、ハート型の金具が付いている。
確かに他のシンプルな物よりは可愛いけど、どうしてこんな物を見に来たのかが分からない。彼女もペットは飼っていないはずだ。
「思い出したんスよ。陽葵さんが、前に私の事飼いたいとか言ってたの。」
「えっ、そんな事言った?」
彼女の前でそんな事を口にしただろうか。学校でなら何度か言ったけど、サキちゃんから聞いたなら彼女はそう言うと思う。となれば、本当に私が言ったのか。
「言われましたよ。ペット禁止とかも。」
「うーん、それは言った様な……。あっ、最初に遊んだ時だ!」
思い出した。普通に考えて有り得ない事なので、冗談である事を前提に半分本気で言っていたと思う。あの頃は野良猫に懐かれた様な物だと思っていたのもある。
「そうそう、その時っス。まあ、そんなわけで。陽葵さん、私を飼いたいっスか?」
「えっ……。えっ!? どういう事!?」
「私にこの首輪を着けたりしたいっスか?」
私は何か試されているのだろうか。色々と知られている今、飼いたいなどと言えば本気で受け取られるかもしれないし、真面目に答えるべきか。
「結華ちゃんは、その、恋人だから。飼いたいとは思わないかな。」
「じゃあ、飼われたいっスか?」
「……えっ。」
「私に、飼われたい?」
彼女の中の小悪魔が顔を出す。上目遣いでこちらを見ながら、くすくすと笑っている。
待って欲しい。外でその顔をされるのは不味い。条件反射的に体が熱く反応してしまう。本当に不味い。このままでは社会的に死ぬ。早く返答しなければ。答えはノーだ。嫌だと言えば彼女は無理矢理な事はしない。
「……うん。」
何を肯定しているんだ、私は。そんな事をすれば、本当にこの場で色々されかねない。まさかそれを期待しているのか。それとも単純に、本当は飼われたいと思っているのか。
冷静に考えよう。彼女のペット、非常に魅力的な言葉である。彼女に従僕して可愛がられながら暮らすのも悪くない。
馬鹿な事ばかり考えていると、彼女はくすくすと笑うものの、いつも通りの雰囲気に戻っていた。
「く、ふふっ……。冗談っスよ。彼女をペット扱いするわけないじゃないっスか。」
「あっ……。あの時の仕返し? もう、本気かと思ったよ。」
「スイマセン。でも、ふふっ。うん、って。本当に飼われたいんスか?」
「あはっ、結華ちゃんなら良いかもね。」
どうやらからかいたくてこの辺りの売り場に来た様だ。例の代わりの物とやらがこれで、本当に首輪を嵌められるのかと思った。まあ、それも悪くないけど。
何か他の物を見てみようと話していると、誰かの視線を感じた。周りを見ると、知らない男の子がこちらを見ている。彼女も気付いた様で手を振ると、向こうも軽く手を上げてそのまま別の方へ歩いていった。
「友達?」
「ううん。元カレ。」
ちょっと耳がおかしいらしい。聞き慣れない単語が聞こえてきた。彼女は今、何と言ったのだろう。元カレとか言っただろうか。それが意味する所は。元、彼氏。以前の、恋人。
「……元カレ?」
「うん。確かあの人は最初だったかな。」
特に表情を変えないまま、彼女はあっさりとそう言った。私はこれまでに無いほどの衝撃を受けているのに。
彼女にそういう存在が居たなんて、考えた事も無かった。誰かと付き合うなんて、私が初めてなのだと思っていた。
もやもやとした物が心に渦巻く。気持ちが悪い。彼女はあの男の子を最初だと言った。まさか他にも居るのだろうか。
「……最初、って。何人か付き合った事あるの?」
「三人っスね。……彼女は、陽葵さんが初めてっス。」
三人も居たのか。女の方は私が初めてだと彼女は照れた様に言ってくるが、私はそれ所では無かった。
元カレ達に何をされてきたのだろう。何をしてきたのだろう。私に対して素直で好意を隠さず、積極的に接してくる彼女だからこそ気になった。同じ事を、彼らにもしてきたのではないかと考えてしまう。
ああ、苦しい、気持ちが悪い。彼女が過去に誰と付き合っていようとも、私には関係の無い事だ。そんな資格が無い事なんて分かっている。それでも、嫉妬は止まらない。
「陽葵さん?」
「ごめん。初めて聞いたから、びっくりしちゃった。」
「まあ、そんな言う事でもないっスから。……そんな顔しないでくださいよ。もしかして、嫉妬しました?」
私は、どんな表情をしているのだろう。良い顔をしていない事は分かる。だってこんな話、面白いわけがない。
「勝手に、私が初めてだと思ってただけだよ。結華ちゃん、可愛いもん。彼氏くらい居た事あるよね。」
「あー……。まあ、確かに告白された側っスけど。でも、多分陽葵さんが心配してる様な事は無いっス。あの人達と付き合ったのも、断る理由が無かっただけなんで。」
彼女は困った様に笑う。私も、彼女にそんな顔はして欲しくないのに。もやもやした物が増えていく。腕に抱き着かれても、嬉しい気持ちが湧いて来ない。
「した事って言えば一緒に下校したくらいじゃないっスかね。三人共、付き合ってすぐに別れてますし。しかも、こっちが好きになる前にフラれたんで。あんなの、付き合った内に入らないっスよ。」
ここまで聞いて、私は気持ちを持ち直した。こういう事で彼女が嘘を吐くはずが無い。私への真っ直ぐな好意を信じなければいけないと思った。
それにしても、あちらから告白したらしいのに別れを告げたのもあちらと言うのもどうなのか。それもかなり短期間で別れた様だ。全く理解出来ない。一体彼女の何が不満だったのだろう。
「うん、分かった。ごめんね、気にしちゃって。」
「ううん。多分私も、同じ事になったら嫉妬しちゃいますから。不安にさせちゃってごめんなさい。……陽葵さん、耳貸して。これは他の人に聞かれるの、ちょっと恥ずかしいから。」
つま先立ちをする彼女に対して、私は少しかがんで高さを合わせた。肩に掴まった彼女の息遣いが耳へと伝わる。それはご褒美の時とは違って、熱く扇情的な物ではなかった。
「私の初めてって、陽葵さんばかりなんだよ? デートしたのも、キスをしたのも、えっちな事したのも。それに、前は恋愛とか全然興味無かったから。だから実は、初恋……っス。」
ずるい。本当に、彼女はずるい。そんな事を言われて、喜ばない人間が居るだろうか。居たらそれは人間の心を持たない輩に違いない。
胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。さっきまでの嫌な気分などどこへやら、私は一転してドキドキと心をときめかせていた。
私から離れた彼女を見れば頬を紅潮させて顔を少し背け、しかし上目遣いにこちらへ視線を送っている。
やっぱりずるい。こんなに可愛い子が私の彼女で良いのだろうか。ああ、元カレ諸君よ、あなた達は本当に素晴らしいものを自ら手放したんだ。今やこの子は私のものだ。二度とあなた達の手には届かないだろう。
「あっ……。どうしたんスか、陽葵さん。」
「すごく嬉しい事言われちゃったから。ちょっと歩きにくいかもしれないけど、こうしていたいの。駄目かな?」
「駄目じゃ、ないっス。」
以前付き合っていた人が男の子なら、私も対抗して多少は男性的に振る舞うのもやぶさかではない。私はこの店に居る間、彼女の肩を抱きながら歩く事にした。この子は私のものなのだと、他者へ見せ付ける様に。
「それと同じのは無いみたいっスね。」
ヘアアクセサリーのコーナーへ行くと、彼女は私に声を掛けて立ち止まり、何かを探している様だった。どうやら私にくれたシュシュと同じ物を探していたみたいだ。
「品揃えは変わるからね。別のデザインのが増えてるのかも。」
「んー……。それ、結構傷んでるじゃないっスか。同じのがあれば、その。プレゼントしたかったんスけど。」
「ありがとね。でも、良いの。見た目は同じでも、結華ちゃんがくれたのはこれだから。」
今も付けているリボン付きのシュシュは、彼女に貰ってから三ヶ月近く経っている。彼女の言う通り、ほとんど毎日身に着けている所為で所々
それでも、私はこのシュシュを使い続けるつもりだ。遠くない内に中のゴムも切れてしまうかもしれないけど、これは私の宝物だから。例え壊れてしまっても、簡単に捨てる事など出来ない。
「見た目に拘ってるんじゃないんだ。結華ちゃんがくれた物が、大切なんだよ。」
シュシュだけの話ではない。お祭りに行った時に貰った動物の人形も、机の上に飾ってある。彼女が私のために手に入れてくれたから、私の部屋はほんの少しだけ殺風景ではなくなった。
多分、自分で景品を手に入れたとしても、そんなに思い入れなんて無かったと思う。まあ、彼女とデートに行った記念にはなったかもしれないけど。
物と言うのは見た目や機能だけが大事なわけじゃない。そこに詰まった気持ちや思い出が大切なんだ。だから私は、彼女からの贈り物は全て宝物だと思っている。
私と同じ様に、彼女の髪を飾るヒマワリが、彼女にとっての宝物であれば心底嬉しい。あれを選んだのは自分の名前と似ているだけと言う理由だったけど、贈った時には彼女に似合っていて本当に良かったと思ったものだ。後から花言葉を知って、ベッドの上で一人転げ回ったのも覚えている。
「そう、っスか。ふふっ……。じゃあ今回はこのウサギが付いたのとか――」
「ごめんなさい。やっぱり見た目もちゃんと選んで欲しいです。」
彼女が指で差したのは、デフォルメされたウサギがたくさんプリントされた物だった。先程は格好付けた事を言ってしまったけど、流石にそれは恥ずかしい。
「可愛いのに。」
「私じゃ似合わないよ。結華ちゃん、本当にウサギ好きだよね。パジャマもそうだったでしょ。」
「好き、なんスかね? 確かにウサギっぽいのは結構持ってますけど。」
彼女は今もウサギの耳が垂れた鞄を背負っているし、泊まりに来た時もウサギの着ぐるみパジャマを着ていた。特にあの格好は色々あった所為で印象に残っている。
「髪には着けなくても良いんで、これにしませんか?」
「えぇ。着けないのに買うの?」
「私をイメージしやすいなら代わりになるかなって。」
首輪だとか元カレだとかインパクトの強い事が立て続けにあった所為で忘れかけていたけど、この店には彼女の代わりとなる物を探しに来たのだった。
申し訳無いけど、こんな物が代わりになるとは思えない。いや、どんな物だろうと、彼女の代わりなんてこの世に存在するはずがないから。
それでもやる気みたいだし、私は止めるのを諦めて、ウサギのシュシュをレジへと持っていく彼女を見送った。
「明日から、これで練習しますよ。上手に出来たら、私からもご褒美をあげます。」
帰り道、私にシュシュの入った紙袋を渡しながら、彼女は非常に魅力的な事を口にした。自分で気持ち良くなれれば、更に彼女から気持ち良くしてもらえるのだ。私には得しか無い。
「……本当?」
「勿論。その方が陽葵さんもやる気が出るんじゃないっスか?」
「うん! 私、頑張るね!」
餌に釣られてその気になるなんて、我ながら単純である。ご褒美の一言で残りの休日に期待を寄せた私は、腕を組んでくる彼女と一緒に歩くのだった。
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