助けて。

 その日、私は下腹部の痛みでいつもより早く目が覚めた。腸がゆっくりと捻じられて悲鳴を上げている様な、鈍いのに重い痛みだった。何事かと思って掛けていた布団を捲れば、そこは血に塗れていた。

 この時点で、私はパニックに陥っていた。お腹をさすってみても怪我らしき物は無くて、何か重い病気なのかもしれないと思った。

 助けを呼ぶためにリビングまで行くけれど、痛みで上手く歩けない。よろよろと壁伝いに進んで、やっとの事で朝食の準備をしている母を見付ける。


「ママ……! 助けて……!」

「……ちょっと待っててね。すぐに薬あげるから。」


 持ってきてもらった薬を飲むと、シャワーを浴びて来る様に言われた。大人しく従って、血を洗い流す。浴室から出ると母が立っていた。


「生理……?」

「そ。生理不順って言われたの、覚えてないの? 去年病院行ったでしょ。……横のとこ折って。貼れるから。」


 親に裸を見られるのも久々だったけれど、そんな事を気にしている余裕は無い。今は生理用品の使い方を覚えなければならなかった。

 初めて知る痛みを堪えながら、必死で下着にセットしていく。思ったより簡単で良かった。

 生理なんて、私とは無縁の物だと思っていた。ずっと前に性教育だって受けたし、教科書にも載っていたけれど、私には訪れなかったから。だから、存在その物を忘れていた。

 こんなに痛くて辛いなんて、想像してもいなかった。他の女子はそんな事、表に出していなかったはずだ。ちょっと体調悪いとか、そのくらいで平気そうにしていたのだ。まさか、押し隠していたのか。

 真理も、勝負する時に生理が重なった事もあるのだろうか。こんなの、全力なんて出せるわけが無い。なのに、私に勝ち続けてきたのだ。そんな事、考えた事も無かった。


「でも、なんで今更……。ずっと来なかったのに。」

「最近まともな生活してるからでしょ。アンタ、ちょっと前まで散々無茶してきたじゃない。他の大きな病気になってないのが不思議なくらいだって言われたんだよ?」


 生理が来なかった理由は、私が努力していた所為だった。一番を目指していたから、正常では無かった。

 確かに今は夜に寝てきちんと朝に起きているし、以前ほど勉強に力を入れていない。部活を辞めてからは体育の授業くらいでしか体を動かしていない。そう言えば今日は体育があるはずだ。水泳は、多分参加出来ないだろう。


「今日は学校休んで大人しくしてなさい。連絡しとくから。」

「え、でも……。」

「今まで止めようとしても聞いてくれなかったんだから、こんな時くらいは言う事聞きな。」

「……うん。ごめん。」


 母は有無を言わさぬ様に、私に休みを言い付けた。上手く動く事も出来ないので、大人しく従う。幸い、今日は金曜日だ。来週は動ける様に、しっかり体調を整えよう。


「おはよう、結華。ココア飲む?」

「おはよう。うん、飲もうかな。」


 着替えを終えてリビングに戻ると、父がインスタントコーヒーを淹れていた。多分母から聞いて知っているのだろう。でも、心配そうにこちらを見るだけで、詳しく聞こうとはしなかった。


「熱いから気を付けて。」

「ありがと。」


 父が淹れてくれたホットココアを飲むと、少しだけ落ち着いた。もう梅雨も明ける様な気温なのに、体の芯は冷えている様な気がして。胃に落ちたココアの熱がじわりと広がって、かじかんだ手が徐々に解れていくみたいに、体の奥底が暖まっていく。

 結局まともに口にしたのはココアくらいで、朝食はほとんど食べられなかった。普段なら食欲が無くても食べられるのに、今日は食べる気力すら湧かなかった。昼食に関してもまた、同様だった。

 駄目になった布団を母が替えてくれたお陰で、ベッドで横になる事が出来た。しかし眠る事も出来ずに、ただ痛みに耐えてじっとしていた。薬を飲んだのに、全然効いていない気がする。その後、部屋から出たのは生理用品を替える時だけだった。

 気付けば夕方になっていて、傾いた陽の光が私の顔を照らしている。多少動けるくらいに痛みが引いてくると、頭の中を占めていたそれらが少なくなって、不安ばかりが湧いてくる。心細くて、胸の奥が苦しくて。泣きそうな気持ちが強くなっていく。

 枕元のスマートフォンに手を伸ばして、コネクトを起動する。陽葵さんの名前をタップして、チャット画面を開く。感情のままにメッセージを書いて、送信の直前で指を止めた。その内勝手に明かりの消えたスマートフォンを布団の上に放る。

 陽葵さんに会いたい。あの腕の中の温もりが恋しい。お願いしたら、来てくれるだろうか。

 でも、こんな事で呼び出すなんて、きっと迷惑に思われる。陽葵さんだって毎月我慢しているはずの痛みだから。私ばかりが辛いわけじゃないのだから、そんな我が儘は言いたくない。嫌われたくない。嫌だ。怖い。

 不安はどんどん増していって、自分の体を抱き締める。足りない。目の前には誰も居ない、いくら掴もうとしても空虚な感触ばかり。

 不意に通知音が鳴る。億劫な気分でスマートフォンに手を伸ばす。画面を見ると、起動したままのコネクトに新しいメッセージが届いていた。


『明日も遊ぶ?』


 それを見た瞬間、どくんと心臓が高鳴った。不安は消えないけれど、暖かい物が体の内側から溢れて来る。

 でも、やっぱり情けない事は言えなくて。書いてあった文字を全て消して、彼女へ返信を送る。


『ちょっと』『調子わるくて』『むりかも』『ごめんなさい』


 少し待ってみても、彼女からの返信は無くて。代わりに、着信音が響く。表示されている名前を見て、震える指で応答した。


『結華ちゃん?』

「……はい。どうしたんスか、急に通話したりして。」

『ごめんねぇ。ちょっと心配になっちゃったんだよぉ。』

「そんな、大した事じゃないっスよ。ちょっと汚い話なんスけど、生理来ちゃって。それだけっスから。」


 誤魔化す様な、空笑い。自分の中に溜まっていく気持ちに気付かれたくない、でも本当は察して欲しくて。私の意思に反して、わざとらしいくらいに弱々しい笑い方になった。

 この感情を喉の奥から全て吐き出せたら、どれほど楽になるだろう。でも、でも。もしもそれで嫌われてしまったら。絶対に、もっと苦しくなる。


『そっかぁ、結構重い方なのかなぁ? うーん、じゃあ外で遊ぶのはやめて、お見舞いでも行こうかなぁ。何か欲しい物とかあるぅ? あっ、そう言えば結華ちゃん知らなかったねぇ。えへへっ。』

「……陽葵さん。」

『うん?』


 甘く柔らかな声を聴いていたら。そんなに優しくされたら。欲しい物なんて、聞かれたら。

 ああ、駄目だ。一度口に出してしまえば、もう止められない。今、私が欲しいのは。


「陽葵さんが欲しい。寂しいの。助けて。」


 掌で口元を覆う。陽葵さんの吐息が聴こえる。けれど、言葉は返ってこなくて。やっぱり、困らせてしまった。

 自己嫌悪が渦巻く。丘野結華は自分勝手で最低の屑だ。もう、消えてしまいたい。


「……スイマセン、変な事言って。また明日――」

『通話が切れたら住所送って。すぐ行くから。待ってて。』


 声色を変えた陽葵さんはそう言って、一方的に通話を切った。声が聴けなくなった寂しさと、来てくれるかもと言う期待とがぜになって心を締め付ける。

 もう口を衝いて出てしまったのだから、どうにでもなれ。そう思いながら、私は彼女にメッセージを送信した。

 それからどれくらい経っただろう。十分か、一時間か。そんな感覚も分からないまま、ベッドの上で膝を抱えて、ただじっと過ごしていた。手に持ったスマートフォンは振動すらしてくれない。待つ事しか、私には出来なかった。

 インターホンの音が聞こえる。はっとして、意識が内側から戻ってくる。窓から差す光は、まだ沈み切っていなかった。


「結華、起きてる? 高梨さんって子が来てるけど。」

「……うん、友達。」

「入ってもらうよ?」

「うん。」

「じゃあ、よろしくね。」

「ありがとうございます。」


 ドアをノックされて母の声と、もう一つ。甘さの消えた、真っ直ぐな声が聞こえてきた。

 薄暗い部屋のドアが開かれる。陸ヶ峰の制服。緩いウェーブの掛かった髪。その髪を纏めているのは、リボンが付いたシュシュ。間違いなく、彼女は高梨陽葵だった。


「結華ちゃん、大丈夫?」

「……陽葵さん。ごめんなさい、こんな事で来てもらって。本当に大丈夫っスから。ほら、全然平気――」


 ふわりと、柔らかな温もりと甘い香りに包まれる。感情を抑えるたがが外れる音がした。寂しさとか、苦しさとか、胸の辺りで行き場も無くぐるぐるとめぐり続けて淀み切った物が瞼の奥から熱を持って溢れてくる。


「無理しないで。寂しくても私が傍に居るから。」


 しがみ付く様にして、彼女の背に手を回す。そこには空虚さなんて欠片も無くて、私を満たしてくれる人だけが居た。

 熱い息が喉からどうしようもなく這い出て来る。思考も舌も上手く回らなくて、下手くそな言葉を紡いだ。


「ひま、さ、ごめ、私、さみし、くてっ……! でも、こんな、迷惑、かけたく、なくて、嫌われっ、たくなくって、でも、我慢、できなく、ってぇ……!」

「大丈夫。嫌いになんてならないよ。助けてって、言ってくれたよね。私に助けさせて。」


 彼女の手が私の背中を優しく撫でる。それだけで心に残る毒が抜けていく。まるで魔法を掛けられたかの様に、それが当然かの様に、安心感に包まれていく。だけど、涙は止まる事を知らないみたいだった。


「寂しくなる気持ち、分かるよ。不安になっちゃうんだよね。それで、人恋しくなって……一人で居る時は、余計にそう思う。」


 彼女の言葉を聞いて、ようやく気付く。陽葵さんは、家に帰れば独りなのに。そんな人に助けを乞うなんて。申し訳なくて、情けなくて、悔しくて。

 それでも心は求めてしまう。泣き続ける私の背を、彼女は静かに撫で続けた。


「……陽葵さん。もう、大丈夫っス。」

「良かったぁ。落ち着いたみたいだねぇ。」


 泣き止む頃には、もう陽は沈んでいて。彼女の声は、いつも通り甘くて柔らかい物になっていた。抱き合うのをやめて、私達は互いの手を握りながら向かい合う。暗さに慣れた目が、彼女の輪郭を捉えた。


「結華ちゃん、かなり辛いみたいだけどぉ、いつもこうなるの?」

「その、私。実は今日が初めてで。」

「えぇ!? 本当ぉ!?」

「今まで止まってたみたいで。前は酷い生活してましたから。」


 暗い中でも、ころころと変わる彼女の表情が分かってしまう。上手く見えないのに不思議だ。我ながら単純な物で、そんな他愛の無い事でも癒されていくのを感じる。


「そっかぁ。やっぱり、疲れとかストレスが溜まってたんだねぇ。でも、もうきっと大丈夫だよぉ。こうやって吐き出せる様になったんだもん。」

「……そうかな。親にはここまで言えませんでした。他の友達も、頭に無くって。陽葵さんに真っ先に会いたくなって。……駄目っスね、私。」

「あのねぇ。助けてって言ってくれて、嬉しかったんだぁ。私の事、頼りにしてくれてるんだなぁって。あっ、心配してたのは本当だよぉ?」


 多分だけど、彼女は柔らかな笑顔を浮かべているのだと思う。良く見えないけれど、きっとこちらを安心させる様に。

 今思えば、どうして嫌われるだなんて考えてしまったのだろう。私の知る彼女はそのくらいで人を嫌ったりしないのに。助けを求めた事を、嬉しいとまで言ってくれるのに。

 見た事の無い量の血や感じた事の無い痛みの所為で、思考や精神が不安定になっていたのかもしれない。不安に駆られて、ネガティブな事ばかりが浮かんでしまったのだと思う。


「あまりお邪魔しても迷惑になっちゃうよねぇ。そろそろ帰らないとかなぁ。」

「こんな時間まで、スイマセン。」

「このくらい大丈夫だよぉ。またいつでも呼んでねぇ?」


 時間を見るために取り出したスマートフォンの光が彼女を照らす。彼女の手によって光はすぐに消えた。私の手からも繋がりが消えて、暗い部屋の中で彼女が離れていくのが分かる。


「あっ……。嫌っ!」


 離れていく温もりを手放したくなくて。私はもう一度、強く抱き着いた。もう彼女を帰さなければいけないのだと分かっていても、彼女を困らせる事が分かっていても、衝動は抑えられない。理性は働いてくれない。


「……行っちゃ嫌だ。」

「今日の結華ちゃんは甘えん坊さんだねぇ。うーん、どうしようかなぁ。」


 この後、部屋に一人で居るのは心細くて。欠片でも良い、陽葵さんを感じられる物が欲しい。鼻腔に感じる、この香りだけでもあれば。


「……陽葵さんの香水、少し分けてもらえませんか? そしたら、多分安心出来る、かも。」

「ん? んー……? 香水とか持ってないよぉ? デオドラントくらいは使ってるけどぉ。」

「え? いつも甘くて良い匂いしますよ?」

「えぇー? そんな匂いしないよぉ?」


 今だって確かにしているはずなのに、この香りは香水の物ではないらしい。制汗剤だって、こんなに強い物は無いと思う。では、この甘い香りは一体どこから来ているのだろう。


「うーん、匂いかぁ……。あんまり嗅がれたくないんだけどなぁ……。これはどう?」

「何スか、これ。濡れてる……?」

「今は秘密っ! ご両親には見せないでねぇ?」


 彼女は自身の鞄から何かを取り出して、こちらに寄越した。感触からして布で出来ているのが分かる。湿って冷たくなっているそれを、恐る恐る鼻を近付けた。瞬間、脳に電流の様な何かが走る。甘美とも思える痺れを感じる。


「あ、はぁぁ……。すごい、陽葵さんの匂い……。」

「うぅー……。もう、何なのこれぇ……。」

「これ、これ欲しいっス。」


 とんでもない濃度の、甘い香り。爽やかな酸っぱさが本人より強い気がする。癒しどころではない、劇薬だ。禁忌とも思える多幸感が脳内を埋め尽くす。こんな物がずっと近くにあったら、中毒にでもなってしまいそうだ。


「……貸してあげるよぉ。洗わなくて良いからぁ、明日返してねぇ?」

「返さなきゃ駄目っスか……?」

「駄目ですぅ! 貸すのだって、すっごい恥ずかしいんだからねぇ!?」


 少しだけ残念に思いながら、貸してくれた事にお礼を言った。それから、助けに来てくれた事にも。今度は私が彼女を助けになれたらと、そう思った。

 彼女に見送ってから部屋に戻って明かりを点けると、渡された物の正体が判明した。これが欲しいと、彼女にせがんでいたのか。自分に変態的な趣味があったのだと気付いて愕然とする。けれど、その香りは痛みも寂しさも忘れさせてくれるから。結局それを顔に押し当てて、一晩中呼吸を繰り返した。

 翌日も来てくれた陽葵さんにそれを、汗と体臭の染み込んだ体育着を返す事となった。名残惜しいけれど、やはり本人からの方が一番良い、なんて。自らの変態さを自覚した今、陽葵さんの嗜好を悪くは言えないと、改めて思った。

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