邂逅/再起
「結華、これはどういうつもりなの?」
母が静かに怒っている。原因は当然私だ。
私は全教科の答案用紙に何も書かず提出した。つまり、母が今手にしているのは名前すらも記入されていない答案の束だ。
「別に。前回と大して変わんないでしょ。」
「成績が落ちたくらいじゃ、お母さんは怒らない。……どうしてこんな事をしたの? 前は惜しい所まで行けたでしょ? あの調子で頑張ってれば、学年一位だって取れたかもしれないじゃない。」
『頑張りなさい』、『惜しかったね』、そんな言葉は要らない。惜しいとか惜しくないとかは関係無い、どうせトップにならなければ意味なんて無い。最初から勝てない勝負に挑むのは無駄だ。頑張る必要なんて無い。
「もう三年生なの、分かってる? 今はふざけてる時じゃないの。ねえ、結華。『真理ちゃんはもっと頑張ってる』はずだよ。そうでしょ?」
何度も耳にした言葉だった。もう聞き飽きたはずなのに、どうでも良いはずなのに、胸が痛くなった。それを誤魔化したくて、へらへらと笑う。
「そうだねー、真理は今も頑張ってるだろうねー。そうだ、アイツの親になれば良いんじゃない? こんな出来損ないと違って、ちゃーんと期待に応えてくれるからさぁ。」
痛い。痛い。痛みから逃げる様に明後日の方を向いて、軽薄な笑い声を出し続ける。
「こんな馬鹿娘、どうでも良いっしょ。もう放っといてくんない?」
「結華、アンタ……っ!」
「これから外出るからさ。じゃあね。」
「結華ッ! 待ちなさいッ!」
その場に居たくなくて、それでも私は意地を張って、何でもないフリをしながら家から逃げ出した。きっとそれもバレていると思う。ああ、情けない。
夕焼けに照らされたアスファルトを歩く。地平線に沈みゆく光を眩しく感じる。行く宛てなんて無くて、結局先程の公園に戻っていた。
備え付けのベンチに座って、ただただぼうっとしていた。最近、こうしている事が多い。常に何かをし続けてきたからこそ、無為な時間を過ごすのは新鮮なのかもしれない。
気が付けば陽は完全に落ちて、街灯がその存在を主張していた。光に誘われて羽虫達が飛び付いている。
隣に人の気配を感じた。横を見ると、知らない制服を着た知らない女生徒がこちらを見ている。夜の光に白く照らされた姿は闇に透き通る様で、どこか幻想的だ。まるで私が別の世界に迷い込んでしまって、そこの住人と
「あっ、気が付いたぁ? もう、話し掛けても全然反応してくれないんだもん、お人形さんかと思っちゃったよぉ。」
私よりも体格は大きいはずなのにどこか幼く感じるのは喋り方所為か、それとも甘ったるい声の所為か。あるいはあどけない表情の所為だろうか。
「なんか用っスか。てか誰?」
「私はお節介なお姉さんだよぉ。暗いのに小学生が一人でぼんやりしてたから、心配で傍に居たんだぁ。」
今の世間は厳しく冷たい、らしい。今時そんな人間が居るのなら、それは余程のお人好しか不審者のどちらかだろう。ふわりと柔らかく笑うこの人は、多分前者だと思う。そもそも不審者だったら既に何かされていそうだ。
ただ、間違いは指摘しておくべきだろう。そもそも私の服装を見れば判るはずなのだ。この人は少し抜けている。
「私中三なんスけど。」
「嘘ぉ!? ごめんねぇ!?」
「小学生じゃないのは制服見りゃ判るっしょ。」
驚いた顔と、あたふたと手を動かすのを見て可愛らしい人だと思った。昔は周りの子も大袈裟なリアクションをしていたのを思い出す。少し懐かしい気分になる。あの頃は真理も可愛かったな、なんて。そう思ってから、ここでも真理が出て来る自分に呆れてしまった。まだ執着は捨て切れないらしい。
「お姉さん、帰んなくて良いんスか。私、うち近いんでそんな心配しなくて大丈夫っスよ。」
「そうなんだぁ。私も時間は大丈夫だよぉ。ねぇ、それよりあなたとお話したいなぁ。」
「なんで?」
「折角出会ったんだから、仲良くなりたいの。ねぇ、駄目かなぁ?」
「……まあ、良いっスけど。」
困った様な笑みを前に、私はその頼みを断れなかった。誰かと話したい気分では無かったけれど、別に拒絶する程ではない。知り合いが相手でない分、ほんの少しだけ気は楽だった。
目の前に棒付きのキャンディを突き出された。彼女は悪戯っぽい表情を浮かべている。それを訝しく思いながらも、私はキャンディを受け取った。
「あげる。」
「あざっス。……まっず。」
「あはははっ! これ皆不味いって言うんだぁ!」
口に含むと、様々な花が所狭しとひしめき合う様な匂いと強い胡椒の香り、それから砂糖を入れ過ぎたプリンに醤油をかけたみたいな味がした。包装紙を見ると、マーブルフラワーステーキ味と書かれていた。脳が理解を拒む単語だ。包装紙を握り潰す。
彼女はもう一つキャンディを取り出すと、それを舐め始める。多分美味しいのだろう、幸せそうにしている。
「お姉さんのは何の味なんスか?」
「ビターチョコ味だよぉ。」
「交換してください。」
「えー、それ美味しくないもん。あっ、ちょっとぉ!」
彼女から無理矢理奪い取って、私が元々持っていた方をその口に突っ込んでやった。渋い顔をしている。
ビターチョコ味は普通に美味しかった。甘さ控えめのチョコレート、本当に普通だ。カカオの香りが鼻を抜ける。人にあんな物を渡しておいて自分はこれを食べるなんて、この人は案外良い性格をしている様だ。
「不味いんなら人に渡さないでくださいよ。」
「うぅ。……ねぇ、ヨモツヘグイって知ってる?」
「何スかそれ。」
「生きてる人が死後の世界の物を食べるとねぇ、そこから帰れなくなるの。」
「……この飴がヨモツヘグイって事っスか?」
「ううん、逆かなぁ。この世界の物を食べてたら大丈夫かなぁって。あなた、消えちゃいそうだったから。」
聞きなれない言葉について訊ねると、オカルトっぽい事を言い始めた。それは例えだけれど、私を生きている世界に留めたかった様だ。不味い物を渡した理由にはならないが。
何を馬鹿な事を、と笑ってしまうのは簡単だった。けれど、彼女が本当に心配しているのは分かってしまう。つい先程初めて会った赤の他人によくもそこまで優しくなれるのだなと、その憂い気な瞳を見て思った。
「そうかもしれないっスね。私、夢みたいな物があったんスけど、それ諦めて。なんか全部どうでも良くなっちゃって。」
「うんうん。ねぇ、夢って何だったの?」
「……一番になる事。何でも良いから、一番になりたかった。でも、昔から何をやっても勝てない友達が居て。いい加減、努力も挑戦も無駄だなって気付きました。」
生まれ持った才能には勝てない。それが私が出した答えだった。
才能とはあらかじめ用意されたきちんと道筋が描かれている地図の様な物で、努力と言うのは目的地に着くまでの実際の道程だ。地図の無い私は道無き道を我武者羅に彷徨い歩いて、ようやく目的地に着いたと思えば、そこにはいつでも真理が私を待っているのだ。
同じ分の努力をしても、身に付く力と言うのは才能で決まる。才能と努力は掛け算の関係だ。一日の長があったとしても、それはすぐに追い抜いてくる。いくら悔しがっても、背中を追いかけても、決して届かない。
「少し前までは負けても悔しい気持ちがあって、次は絶対に勝ってやる、なんて思えたんスけど。今は何も感じない。」
「多分、すごく頑張ったんだよねぇ。でも、燃え尽きちゃったんだぁ。」
「そんな感じっス。何してても空っぽになった様な気分で。今日みたいにぼうっとする事が多くなりました。」
燃え尽きた。その表現はしっくりと来た。行動を起こす為の原動力が無い。その為の燃料が無くなってしまったから。全て燃やし尽くしてしまったから。
今は惰性で日常を送っているだけで、何かに集中する気も起きなくなった。今の自分は自分じゃないみたいで、でも前の自分に戻ろうとも思えない。ただ、馬鹿みたいに突っ走っていた自分よりも、何も出来ない今の自分の方がきっと馬鹿なのだろう。
思い返せば、今の私の事を誰かに話したのは初めての事だ。それも当然の事で、話せる様な相手が居ないからに他ならない。
中学三年と言うこの時期に、友達に相談しても困らせるだけだし、両親言った所で怒られるだけで、先生に話しても呆れられるだけだろう。
先程初めて会ったばかりの彼女と話しているのは楽で、不思議と居心地が良かった。
「きっとねぇ、今のあなたは休んでるんだよぉ。」
「休んでる?」
「うん。ずっと頑張って、頑張り過ぎたから。誰だって休憩しないと疲れちゃうでしょ? 気付いてないだけで、あなたの心はお休みを欲しがってるの。」
何を馬鹿な、と思ったけれど。私は自覚していないだけで疲れているのかもしれないのだと、そんな風に考えた事は無かった。
真理には絶対に勝てないと思い至ってから、私はそれまで背負っていた物が全部転げ落ちてしまった様な気分で、落とした物を拾う事も出来ずにただ呆然としていた。何度も負け続けてきたけれど、悔しさをバネに突き進めていた時とは違う、本当の挫折だった。
それから一気に力が抜けて、何もかもどうでも良くなった。多分この時に、私の心は『疲れ』を感じたのだろう。何年も頑張ってきた分だけ、その『疲れ』は大きかったのかもしれない。
「今はたくさん休んで、また目標が持てたらきっと頑張れるはずだよぉ。」
「……そうかな。」
「そうだよぉ。だって、そんなになるまでずっと頑張ってきたんだもん。絶対にまた、出来る様になる。だから私はねぇ、あなたが頑張ってきた事は無駄なんかじゃないって思うなぁ。」
「……うん。」
私の今までは無駄なんかじゃない。それは私の神経を逆撫でするはずの一言であったけれど、何故だか少し救われた気がした。多分だけど、安易な慰めで言っているわけじゃないと感じたからだと思う。
「私、ちょっと考えてみます。次の目標の事。」
「うん。良かったぁ、ちょっと元気出たみたいだねぇ?」
「そうっスか? じゃあ、お姉さんのお蔭っスね。ありがとうございます。」
「えへへ。良いんだよぉ。」
ふわりと、私を包み込む様に笑う。月と街灯に照らされたそれはどこまでも幻想的で、今にも掻き消えてしまうのではないかと思って。私は手を伸ばし掛けて、引っ込めた。
彼女は不思議そうに目を瞬かせて、ベンチから立ち上がる。大きく体を伸ばしてから、鞄を肩を掛けた。
「帰るんスか?」
「うん。また会えたら、目標教えてねぇ。」
「……目標、決まってなかったら?」
「私も一緒に考えるよぉ。」
「絶対っスよ。」
「うん、約束。」
いつ消えてしまうのか分からなくて、不安になって。それでも私には彼女みたいに引き留める力は無くて。果たせるかも分からない約束を交わすだけで精一杯だった。
彼女の背を見送ってから、私は咥えていたキャンディの棒を公園の入り口にあるゴミ箱へ投げ入れた。まずは、帰って母に謝ろう。それから、何がしたいのかを探してみよう。
無人の公園を背に、ゆっくりと歩き出す。暗闇に満ちた夜道だけれど、街灯は進むべき場所を照らしてくれている。その光が、少し優しく見えた。
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