ラプス

有希穂

ラプス

 また夢を見ている。銀河鉄道の夢だ。

 小高い丘の上に立ち、私はそれが来るのを待ち侘びている。

 夢の中では、音という音が聞こえない。聴覚が意味を為さなくなった世界で、私は星のない北の空をじっと睨む。すると、ひどく鈍まな流星のような一条の光が、時間をかけてゆっくりとこちらに近づいてくる。夜に溶ける煙を吐き、車輪を空転させながら、無機質な龍のように夜空を南下する銀河鉄道。私は知らず知らず止めていた息をそっと吐き出す。

私はそれに乗ってみたいと思う。けれど、丘を照らすものはなにもない。銀河鉄道は、速度を緩めることなく上空を通り過ぎていく。四角い窓から漏れ出る金色の明かりを虚無的な気持ちで見送りながら、私はその場にいつまでも立ちつくしている……。


 目が覚めると、全身に薄っすらと汗をかいていた。パジャマの胸元からパタパタと風を送り込むと、不快な湿気が僅かばかり和らいでいく。

 ――起きたんだね。

 隣で眠っていた彼が、まどろみを纏った優しい声でそう囁く。暗色に染まった寝室。白檀の匂いが広がる、私たちのねぐら。息をひそめるようにして睦みあった時間が、どこまでも遠い過去に感じる。

 掛布団を剥がして、肌寒い早春の空気が臍のあたりからじんわりと身体を冷やしていくのを愉しんでいると、彼が訊ねた。

 ――また、夢を見ていたの?

 言葉の中に憐憫の情が滲んでいて、それが気遣いの末に生じた温もりにも、無理解という名の深い海溝にも感じられて、私は返事をすることができない。

 やがて、こちらを見つめていた理知的な瞳が、瞼の向こうに隠れてしまうのがわかった。

 懐かしさと哀しさを纏う甘い匂いを吸い込んで、もう一度布団を被る。夢から醒めて、現実を実感するまでの、時の流れと似て非なるその不可逆さに、私は今夜も切り刻まれていく。


 銀河鉄道の夢を見始めたのは、彼と一緒に眠るようになってから。

 一度だけ、彼に夢の話をしたことがあった。彼は真剣な表情を浮かべて耳を傾けて、

 ――その夢が意味するところはなんだろう。

 と呟いた。私がなにも言えずにいると、彼はそっと私の頭を撫でた。肉付きが薄い指が髪を梳いて、耳たぶに触れ、輪郭をなぞり、やがて口許にたどり着く。瞼を閉じると、気配もなく唇を重ねられる。丁寧で流麗で、けれどどこか迷いや臆病さを感じさせる彼なりのスキンシップを、私は愛している。

 ――早く、銀河鉄道に乗れますように。

 その些細な祈りは、きっと今も彼の中で密やかに捧げられている。


 今、私は理想郷にいる。何度も傷つきながら、私はここにたどり着いた。そしていつしか私の営みは、この理想郷の中で成り立つようになった。

 ここには私と彼しかいない。私と彼。私だけのことはあっても、彼だけのことはない。私の存在はいついかなるときにも、この場所に含まれているから。

 彼を待つとき、私は彼を思いながら料理をし、掃除をし、洗濯をする。けれど、いざ彼が帰ってくると、私が立ち昇らせていた思いは途端になりを潜めてしまう。失われるわけではない。心の奥深くに隠れてしまうのだ。そうなると、それはもう私の裁量ではどうすることもできない。だから、彼が愛を与えてくれる夜も、歓びの中に交じる遣る瀬無さと申し訳無さの淀みを感じている。

 そして、彼の穏やかな寝息を聞きながら、伝えられることもなく息を引きとった無辜の思いが行きつく先を思う。私の心のどこかに存在する、清冽なリンボ。決して触れることのできないその神聖な場所は、私という醜い人間の中で唯一、綺麗な光を放っている。きっと。多分。

 そうでないと、あまりに救われない。


 この暮らしがずっと続けばいいと、強く願っている。けれど同時に、この愛おしい世界はいつまで私を許容してくれるのだろう、と不安も覚える。

 時々、ここに来る前のことを思い出す。水道の蛇口を止めたとき、とりこんだシャツの皴を伸ばしているとき、乾いた指が小説のページをめくり損ねたとき、少し冷めたコーヒーを飲んでいるとき、楕円形の鏡をじっと覗きこんでいるとき。私が日常に浸っていると、手放した過去は心のうちに不穏な風を吹かせる。

 私は、私の意思でこの場所を選んだ。誰にも侵されることのない静謐な空間。あたたかい毛布、ひんやりと冷たい皮のソファ、数えきれないほどの本、そして、優しく聡明な彼。

 不安になると、キャンドルを焚く。彼がどこからか手に入れてくる、白檀のキャンドルを。音もなく揺らめく小さな炎を眺めて、それから目を瞑り、ゆっくりと深く鼻から息を吸う。すると私の頭はしんと冴え渡り、もう少しで物事の本質を見極められそうな――私自身が心の底から希求する答えに行き当たりそうな――そんな予感がするのだった。

 私は自分に言い聞かせる。限られた未来を見据えよう、と。視野を絞り、多くを望まず、手の届く範囲に存在するものをいつくしむ。そうすることで、私は自分の魂がやがてこの場所に帰属すると信じている。


 ある日の夜、銀河鉄道の夢を見た。それはいつものように上空を通り過ぎる。音のない夜を照らす金色の光が遠ざかり、私はその場に立ち尽くす。

 夢から覚めると、隣に彼はいなかった。そのことを理解した瞬間、纏わりついていた眠気が消え去り、心臓が悲痛な音を立て始める。次から次へと浮かぶ不吉なイメージに息苦しくなりながら、ベッドから出て、暗い部屋を覚束ない足取りで進む。ふと、温い風が吹きこんでいることに気づく。ベランダに続く窓を見ると、半分ほど開けっ放しになっていた。

 ――眠れなかったんだ。

 ベランダに置かれたチェアに腰かけながら、彼はコーヒーを飲んでいた。早くこっちに彼が戻って来てほしいと思う。けれど、それを伝えることができない。境界線を跨げずに、私はその場にうずくまってしまう。

 ――夢を見たの?

 と彼は訊ねた。組んだ足を優雅に組み替えながら、どこか義務的に。私はそっと頷いた。夜風が止んで、私たちの距離がほんの少しだけ近づく。けれど、床を見つめたままの視線を上げられずにいる。こちらを見つめる彼の瞳から、内に秘めた感情を読み取ってしまうことが怖かった。

 ――辛かったね。

 そう言って、いつの間にか部屋に入ってきた彼は私の頭を穏やかな手つきで撫でてくれた。

 辛くなんかない。そう伝えようとした。けれど、なにも口にできなかった。いつもそうだ。喉に存在する忌々しいブラックホールが、私から言葉を奪っていく。

 彼に手を引かれるまま立ち上がり、私はよろよろとベッドに倒れ込む。そして、彼の腕の中で、抗いようもなく瞼を閉ざしてしまう。


 雨の降る肌寒い夜だった。神様が世界中に優しくカーテンを引き続けているかのような雨音を聞きながら、私は彼を待っている。待つことは嫌いではなかった。誰かを、なにかを待っている間は、自分の存在が保障されている気がするから。

 けれどその日、いつまで待っても彼は帰ってこなかった。テーブルに載った夕食は哀しいほど冷めきってしまった。私はゆっくりシャワーを浴び、ゆっくり着替え、ゆっくり髪を乾かし、ゆっくり歯を磨いた。部屋に満ちていた夕食の匂いは、いつの間にか消えてしまっていた。

 彼の不在に、私は不安を覚えなかった。ごく自然に眠気がやってきたので、照明を落とした。一人で眠りにつくのは、随分久しぶりのことだった。未だにこの世界に引かれ続けている神様のカーテンを思いながら、私は意識を手放していった。


 銀河鉄道の夢が始まる。音のない世界の小高い丘。そこに私は独りで立っている。こちらに近付いてくる光から、いじらしく目を逸らせずにいる。変わり映えのしない夢だ、と思っていた。けれど、違った。

 ある時点から、銀河鉄道は少しずつ高度を下げながらこちらに迫っていた。そして、世界に音が与えられた。風にそよぐ草原の音。車輪の回転する重厚な音。宇宙に向かって吠えるような、世界を震わす汽笛の音。鼓膜を突き破りそうな音の洪水に溺れながら、それでも私は近付いてくる眩い光から目をそらすことができなかった。

 やがて銀河鉄道は地上に降り立ち、私の前に停車する。風が止み、ガスの漏れるような大きな音が響いて扉が開かれ、中から鉄道員が姿を見せた。鉄道員は男性だった。帽子を目深に被り、その表情は伺い知れない。

 ――乗車券はお持ちですか。

 鉄道員はそう訊ねた。私は頭を振った。すると、鉄道員は身体を翻し、煌々と明かりの照る車内に姿を消してしまった。あっと思った次の瞬間には、銀河鉄道はゆっくりと車輪を回し、煙を噴き始めた。そして、再び世界は音を失ってしまった。待って、と私は声を上げようとした。けれどそれは無意味な行為だった。銀河鉄道は南を目指して進み始めた。私は再び、そこに取り残されてしまった。

 去りゆく銀河鉄道をどうしようもなく見送りながら、私は身体ごと引き裂かれるような鋭いショックに襲われた。そしてその瞬間、自分が銀河鉄道に乗ることを心から望んでいたことに気付いた。


 目が覚めたとき、隣に彼がいた。暗い部屋には甘く懐かしい香りがした。それがずっと昔から私の日常に根付いていた香りであることを、私はようやく思い出す。

 ――また、夢を見ていたの?

 と彼が訊ねる。私はそっと体を起こして、彼に伝えたい言葉を吐き出す。

「帰りたい」

 つかえることなく放たれた言葉は、しっかりと聞き届けられた。そのことが、私にははっきりとわかった。

 彼はなにも言わなかった。言葉の代わりに、抱擁をくれた。強く、強く私は抱きしめられる。雨の音はもう聞こえない。神様は眠り、私たちは最後の夜に心を通わせていた。

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