第53話 記憶が戻る条件
「――これが、この世界へ来るまでの、俺が思い出したことの全てだよ」
部屋の中は静まり返っている。あまりにも壮絶な燕青の過去を聞き、この場に集まった三人の仙姑達はすっかり言葉を失っていた。
「私達にとっては、始まったばかりの戦い……だと思っていたが」
林冲は鼻を鳴らした。
「君は、もうすでに最後の戦いまで行き……そして……高俅に一矢報いたんだな。私達がこうしていまだ無事でいられるのも、全て、君が戦ってくれたから……」
目の端に涙が滲んでいる。
「だから討仙隊――というよりも高俅は、燕青さんを殺そうとしているのですね。国と百八星の戦いを、一度始まりから終わりまで経験した人を、放っておくわけにはいきませんから」
柴進の言ったことは確かにそうなのだろうが、しかし本当はまだ、相手にとって燕青は大した脅威ではない。記憶を失っているからだ。大枠は思い出せたのだが、色々と細かなことについては何もわかっていないのが現状だ。
「俺が記憶を完全に取り戻せれば、有利に立ち回れるんだろうけど……」
「そのことで教えてほしいわ。どうして急に、こんなに多くの記憶が戻ってきたの」
安道全に尋ねられるも、燕青もしばらく首を捻ったが、理由は思い浮かばなかった。
「わからない。一回、凌雲との戦いの後で気を失って、目を覚ましたら、いきなり」
「林冲は何があったか知ってる?」
「うーん……憶えているのは、燕青を蘇生させるため、なぜか凌雲が一所懸命応急処置を施していたことくらいだが……」
「もしかして、人口呼吸とかしてたかしら?」
「ああ、してたな」
「なるほど」
ポン、と安道全は手を叩いた。何かに気が付いたようだ。
「燕青。あなたの記憶が戻ってくる仕組み、またひとつわかったわ」
「え、ほんとに!?」
「バラバラになったあなたの記憶は、おそらく仙姑に宿っている。前の世界での、同じ名前の人物に関する記憶が。だから仙姑に触れることで、前の世界で対応している人物に関する記憶が、少しだけ蘇る。これらは、すでにわかっていることよね」
「うん」
「この世界では、あなたはいないけど、対応する人物はいる。それがきっと凌雲。だから彼女の場合は、あなたにとって核となる記憶が宿っていた。ここまではいい?」
「大丈夫。だけど、納得いかないのは、あいつに以前触った時は、スーミンツゥの村でみんなが倒れている光景くらいしか記憶が戻ってこなかった。なのに、なんで今回は急に――」
「触るだけでは完全には記憶が戻らない、って考えたらどうかしら。その人物に関する全ての記憶を取り戻したいのなら、ある行為を行わないといけない」
「その行為って……?」
「口づけよ」
バフッ、とガラスの向こうから何かを噴き出す音が聞こえた。見れば、お茶を飲んでいた柴進が、あまりの衝撃で口に含んだ茶を思わず噴いてしまったようだった。
「な、な、な……⁉」
なぜそんなで記憶が戻るのかと困惑する燕青に、安道全は淡々と話を続ける。
「私だって理屈はわからないわよ。でも、考えられるのはそれくらいでしょ。軽い記憶ならタッチ、完全な記憶ならキスで、って――」
「断る!」
まだ燕青は何も言ってないのに、顔を真っ赤にした林冲は、自分の胸元を両腕で隠すようにしながらズザザと後退した。
「おい、話くらい聞けよ! 俺だって、何も無理強いはしたくないけど、いまは生きるか死ぬかの大事な――」
「それでも断固いやだ! お、女同士で、そ、そのようなこと!」
「そこまでいやがらなくてもいいだろ! それじゃあもしかして、俺が死にかけてても救命処置とかしてくれないってことか!?」
「それはする! だが普通には口づけなどしたくない!」
「何がどう違うんだよ!」
「私だっていやよ。悪いけど」
安道全も苦笑しながら拒絶してくる。
「口づけっていうのは特別なことなの。自分の唇は、たとえ世界の存亡がかかっていたとしても、そう簡単には譲れないものなの」
「待て待て待て、大袈裟すぎるだろ」
「あら。それくらいの覚悟はあって然るべきよ」
「なんだよ……こっちは必死なのに……」
ハァ、と呆れたため息をつき、燕青は頭を押さえた。
「私も安先生と同意見です。まあ、どちらにせよ浄室から出られませんので、燕青さんの望みにはお応え出来ませんが……ごめんなさい」
申し訳なさそうに柴進も苦笑いを浮かべ、頭を下げた。
「どうしても記憶を取り戻したいのであれば、頑張るしかありませんね」
「頑張るって、何を」
「もちろん、仙姑達が唇を許すくらいに、深い信頼関係を築くということですよ」
「はああ⁉ 残り百七人全員と、ってこと⁉」
「茨の道ですね」
「ですね、じゃないよ!」
怒鳴る燕青に対して、柴進はクスクスと口に手を当てて笑った。
「そこで、燕青さんにお尋ねしたいのですが、あなたは今後どうされるおつもりですか」
「どうするか、って?」
「あなたはすでに前の世界で、ひとつの戦いを終えています。だから選択肢は二つあります。ここから先は私達仙姑に任せてどこか他の国にでも去ってしまうか、それとも――」
「……高俅は、俺が倒すべき相手だ。他の奴らに押しつけるわけにはいかない」
「関係ありません。そんなことで責任を感じないでください。悪いのは高俅であり、あなたではありません。だから、あなた自身の気持ちに、正直に従ってください」
そんなことはわかっている。
あえて責任論を持ち出したのは、そのことを強く悔いているというよりも、これから自分が選ぼうとしている道の正当性を、自らに言い聞かせようとしている気持ちの方が強かった。
なぜなら――小倩は、きっと、戦わない道を選んだに違いないからだ。
(でも、これは、俺が決めること)
かすかな迷いを心の奥底に押しやり、瞳に決意を込めて、燕青は答えを出した。
「戦うよ。最後まで、仙姑とともに」
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