第51話 柴進の館にて

 手を上げて、指を動かしてみる。体全体に疲労感はあるものの、別状はなさそうだ。パタンと腕を掛け布団の上に倒して、ふう、と息をつく。


 窓の外は暗くなっており、深々と雪が降り続けている。静かだ。暖炉の薪の爆ぜる音だけが聞こえる。気を失う前まで、爆発する工場や吹雪の中にいたから、この静けさが嘘のようだ。


 だんだん不安になってきた。他の面々は無事なのだろうか。


「林冲?」


 とりあえず名前を呼んでみる。だが相変わらず静かだ。


「林冲! どこ⁉」


 布団をはねのけ、上体を起こして、大きな声で呼んでみる。誰一人身寄りがいないこの世界で、特に頼りなるのが彼女だ。彼女だけは失うわけにはいかない。


 何の反応もなく、若干パニックになりかけたところで、


「おはよう。どうした?」


 襖を開け、林冲が中に入ってきた。


 その顔を見た途端、燕青の目は潤み、唇は震え出した。だけど、そんな弱っている顔は見られたくないので、そっぽを向き、


「べ……別に。呼んでないよ」


 唇を尖らし、ぶっきら棒に答える。


「そうか」


 林冲はクスクスと笑った。結局、バレている。


「具合はどうだ?」

「平気。……や、ちょっと熱っぽいかも」


 自分の頭に手を当て、確かめてみる。


「ふむ」


 寝台の横に立った林冲は、片手で自身の額に手を当てながら、もう一方の手で燕青の額を触ってくる。それはいいのだが、彼女の格好は簡素な寝間着なので、襟の合わせが緩く、角度的に見えてしまう。胸の谷間が。


 そこへ、安道全が入ってきた。


「肩の傷、ちょっと見せてもらうわ」


 と言いながら、ごく自然な手つきで林冲の衣の両襟を掴むと、バッと左右へ開いた。乳房が豪快にこぼれ出た。


「もうすっかり痕は無くなってるわね」

「にゃあああああ⁉」


 あまりのことに錯乱した林冲は、素っ頓狂な悲鳴を上げる。


 燕青は咄嗟に目をそらしていたが――ちょっと見えた。


「仙姑でよかったわね。回復は早いから。たとえ肩でも、肌に傷跡が残るのは、いやでしょ」

「ふざ、ふざ、ふざけるなあああ!」


 林冲は胸を隠して、ズザザザと壁際まで飛び退る。涙目になってプルプルと震えている武人らしからぬ様を見て、安道全はひとしきり大笑いした。


「そういえば……魯智深や、凌雲は?」


 彼女らは一体どうなったのだろうか。


 その疑問については、まず安道全が、魯智深のことを教えてくれた。


「魯智深は、曹正を連れて、二竜山へ戻っていったわ」

「曹正を⁉ それって、あいつ、魯智深の仲間になったってことか⁉」

「私は見てなかったけど、上手いことスカウトしたみたいね。曹正も乗り気になってたわ。ついでに言っておくと、魯智深からあなたに伝言もあるの」

「何て?」

「『協力してやったんだ、魔星録は勘弁してやるが、謝礼代わりに曹正をもらうぜ』って」

「よく……わかんない奴だな……」


 敵では無いのだが、純然たる味方でもない。彼女は単純なようでいて、実は複雑な性格の持ち主だ。魯智深を本当に理解し、心からわかり合うには、かなりの時間が必要になるだろう。


「凌雲なら――君を助けた後、どこかへ去っていった」


 続けて、壁際の林冲が答えてきた。


「じゃあ死んでないんだ」


 ホッとした。彼女もまた国によって運命を狂わされた人間だ。助かってくれて何よりだった。ただ、あんな風に腕を無くした状態でどこへ行ったのか、そのことを考えると心配ではある。


「……殺せなかった」


 ポツリと林冲は呟いた。


「凌雲は、小倩を殺した奴らの一人だ。絶対に許すべきではない……なのに、殺せなかった」


 その理由を、自身が掴みかねているようで、ぼんやりと自分の手の平を見つめている。


「私は……凌雲をどうしたらいいのだろう」

「次会う時までに、ゆっくり考えればいいんじゃないの」

「迷っていたら、小倩に怒られないだろうか」

「あいつは関係ない。お前がどうしたいか、だろ」

「そうか……そうだな。ここから先は、私の戦い……決めるのは、私だ」


 手をギュッと握り締め、林冲は哀しげに苦笑した。その目尻から、涙がこぼれ落ちた。


「あ……れ?」


 なぜ泣いているのか、自分でもわからないのか、林冲は戸惑っている。


 無理もない。激戦を終え、武人としての務めを果たした彼女は、この時ようやく年相応の一七歳の少女へと戻ったのだ。人心地ついたことで、ようやく、大切な家族を失った悲しみが湧き上がってきたのだろう。しばらくして、両手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。


 燕青も安道全も、かける言葉は何もなく、ただ黙って見守り続けていた。


 ※ ※ ※


「皆さん、すっかり有名人ですよ」


 昼になり、自室に燕青達を招いた柴進は、開口一番そう言ってきた。


「かなり大暴れしたじゃないですか。城壁を破壊したり、工場を爆発させたり、挙げ句の果てには討仙隊総隊長の副官である陸謙を倒したんですよ。もう、滄州一帯、大騒ぎですよ」

「都に伝わるのも時間の問題か……これでもう完全に宋国の敵だな……」


 林冲は苦笑した。どちらにせよこの国にはいられない身だったとはいえ、元軍人である彼女としては、かつての仲間達と敵対することになるのだ、辛いものはあるのだろう。


「さて――燕青さん」


 ガラスの向こう側から、柴進はジッと見据えてきた。本題に入ろうというのだ。


「記憶を取り戻したそうですね」


 全員が注目してくる。


 すでにみんな話は聞いている。だが、肝心の内容についてはまだ教えてもらっていないから、すっかり気になっていたのだろう。ひたすらに燕青の顔を見つめて、待ち続けている。


「ああ。と言っても、記憶の核となる部分だけど……」


 それから燕青は思い出したことを全て話し始めた。


 長い戦いの物語の始まりから――決着まで。

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