第40話 風に、大地に、川の流れに、あらゆる所に思い出はある
厨房には十名を超える料理人が待機していた。まさに昼飯を作ろうとしていたところなのだろう。音に聞こえた満福楼の料理長、ということで、どんな料理を振る舞ってくれるのだろうかと、期待に満ちた眼差しを送ってきている。
曹正は広い厨房の中を一周した後、中央にあるテーブルの前に立った。
「一部の人間は、私のこと、『操刀鬼』と呼ぶヨ。なぜだかわかるネ?」
なぜそんなおどろおどろしいあだ名がついているのか、理解出来ず、燕青は首を傾げた。
「どんな天才料理人でも不可能なことはあるネ。熱がないのに焼くことは出来ない。包丁がないのに切ることは出来ない。五分間焼かないといけない物を五秒で焼き切るのも出来ないし、古くなった食材で新鮮な味を出すことも出来ない――」
包丁を手に取り、曹正は目を細めた。
「――でも、私なら出来るネ」
突如、青い光が彼女の体から溢れ出てきた。かつて魯智深や林冲が見せたのと、同じものだ。殺気にも似た圧迫感を受け、つい燕青は三歩ほど後退した。
「仙姑の力を開放した私は、調理における不可能を、可能にするネ!」
クイッ、と人差し指を自分の方に向けて曲げた。その途端、貯蔵庫の扉がバンッと開き、豚肉の塊が飛び出してきた。屋敷の料理人達が悲鳴を上げる。
一閃。曹正の振るった包丁が、空中を飛んできた豚肉に触れた。――と思った次の時には、肉は細切れになり、厨房の各テーブルの上へと四散した。
タンッと足踏みすれば、背後にある竈に火がつき、一瞬にして鍋の中のお湯が沸騰し始める。パンッと手を鳴らせば野菜が踊る。タタンと二丁の包丁でまな板を叩けば、米が宙を舞う。
まるで魔法を見ているような光景だった。
曹正がダンスのような動きをする度に、次々と食材が調理されていく。そのうち調子がついてきたのか、動きはどんどん速くなってきた。休む間もなく全身を軽やかに動かし続け、時には音を鳴らし、いまや厨房全体を自由自在にコントロールしている。
何よりも――その楽しそうな表情に、燕青は惚れ惚れと目を奪われていた。
(心の底から、料理が好きなんだ……)
そうでなければ、たった一人で百名超の料理を同時に作れるはずがない。いくらあんな能力があっても、使いこなすのは至難の業だ。
「厨房では、私が支配者ヨ」
ダンッ! ――とまな板を包丁で強く叩いた。蒸籠に入っていた小籠包、鍋に入っていた鶏肉等、調理の終わった物が、一気にテーブルの皿の上に飛んでいく。
開始からわずか五分で、全ての料理が完成してしまった。
屋敷の料理人達はしばし言葉を失っていたが、やがてワッと一斉に拍手し始めた。
厨房中に食欲をそそる香りが充満している。満福楼にあるような高級食材を使った料理ではなく、豚の角煮や青菜の炒め物、饅頭など、一般的な家庭料理ではあるが、それでも色艶から盛りつけまで、明らかに普通とは違う。
「ありがとうございます!」
「よし、配ってもらうぞ!」
料理人の一人が廊下に声をかけると、召使いの者達がゾロゾロと中に入ってきた。それぞれ盆に料理を載せ、屋敷中へ配りに行く。
燕青も自分の分を取ろうと、皿に手を伸ばしかけたが、「あ、待って」と曹正に止められた。
「あなたの分は別に作るネ。部屋で待ってるヨロシ」
「俺だけ、何で?」
「みんなに作ったのは、いままでの私の料理ネ。これから作るのは、その上――試してみたい至高の一品ネ」
「じゃあ、厨房に来る必要なかったじゃんか」
「でも気分転換にはなったはずヨ」
「それは……まあ」
確かに暗く沈んでいた状態から、少しだけ気は紛れた。
そうやって話している間に、料理の皿は全部持っていかれてしまったので、燕青はひとまず安道全の部屋へと戻ることにした。
※ ※ ※
部屋に戻ると、安道全はいなくなっていた。
机の上に書き置きが残されている。「柴進の食事を出してくる」と書かれていた。どうやら浄室にいる柴進の分は、医者である安道全が作っているらしい。
だいぶ経ってから、曹正が部屋に入ってきた。
湯気の立つお椀を盆に載せて、運んでくる。机に置かれたので中身を見ると、お粥だった。
(この香り……!?)
曹正に勧められるのも待たず、燕青は蓮華を持ち、粥をすくって口の中に入れた。
「どうアルか……?」
こちらの顔を覗き込み、曹正は首を傾げた。
カラン、と蓮華が机の上に転がる。
「この……味……!」
体中に栄養が染み込んでいくようだ。生姜も利いており、内奥から温かさも広がってくる。何よりも、作り手の愛情を感じさせる。
その全てが――小倩から食べさせてもらったお粥と、一分の狂いもなく同じだ。ドアの向こうに小倩が隠れていて、「実は私が作ったの!」と飛び込んでくるのではないかと思うほどに。
「ど、どうして! どうして、この味を!?」
「ただ小倩に言われた通りのことをしただけネ」
「あいつが、言った通り……?」
「あの子はこう言ったね。『愛情は最高のスパイス』って。だから私は、このお粥を、ただ燕青のために作ったヨ。あなたに早く元気になってもらいたい――そう思って作ってみたネ」
「それで……この味に……!?」
再び蓮華を持ち、燕青はお粥をどんどん食べていく。あっという間に食べ終わった。空になったお椀を机に置き、ため息をつく。
それは偶然か、奇跡だったのかもしれない。曹正はただシンプルな気持ちで調理に挑んだだけなのだろう。全く意図せずして、この味になった。そう考えるのが自然だ。
でも――
「こんな形で……小倩に会えるなんて……」
もうこの世に小倩はいない。どれだけ求めても、彼女そのものに会うことは出来ない。その悲しみは一生消えることはないだろう。
だけど生き続けていれば、思い出を求めることは出来る。面影を感じることは出来る。燕青が望めば、いつどんな時、どんな場所でも。
風に、大地に、川の流れに、あらゆる所に思い出はある。自分が生きている限り、自分の中では小倩は死なない。ただ一杯の粥にも、彼女の温もりを感じることだって出来る。
だから――諦めるのは、まだ早い。
「ごちそうさま……そんで、謝謝(ありがとう)」
燕青の目に、強い光が宿った。
それは先ほどまでの、生きる意思を失っていた者の瞳ではない。失ったものをほんのひとときでも取り戻したがゆえの、希望と闘志に充ち満ちたものだった。
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