第37話 逃れられない運命なのか

「失敗……?」

「そもそも王倫さんがこちらへやって来られたのは、高俅が術を発動させた場所に、この世界へ移動するためのゲート――入り口となる時空の穴が開いていたからなんです。彼女が言うには、時空の穴は最初は不完全な状態で、とても飛び込めるような感じではなかったそうです」

「もうちょっと……わかりやすく説明して」

「例えば、隣の部屋に、あの本棚を移動させたいとします」


 と、壁際に立っている本棚を、柴進は指差した。


「あの本棚が通るほどの扉が完成していれば、容易に移すことは出来るでしょう。ところが、もしも小さな穴しか開いていないとしたら? 本棚を一度バラバラに分解して、その穴を通して、後で隣の部屋で組み立てるしかないですよね。それがつまり、不完全な状態――おそらく高俅は、時空の穴が無事に通れるような状態ではない時に、中に飛び込んでしまったのです」

「それで、何で記憶が無いんだ?」

「さっきの喩えでいうなら、バラバラになった本棚の、一部のパーツを前の部屋に置き忘れてしまったようなものです。世界を移動する際に、体や魂をバラバラに分解して、新しい世界に到着した時にまた元に戻す――その働きが不完全なままで終わってしまったために、記憶を失ってしまったのだと思います」

「ということは、俺の記憶が無いのも……!?」

「あなたが何をしていたのかはわかりませんが、もしも高俅と同じタイミングでゲートへ飛び込んだのだとしたら、きっと同じ理由で記憶を失ったのでしょう」


 もしかしたら、と燕青は考える。


 世界を移動する際に記憶までバラバラになったのだとしたら、それらはどこにあるのか。前の世界に置いてきてしまったのか。……いや、おそらく、砕け散った記憶もこの世界へやって来た。そしてどういうわけか仙姑達に宿ってしまった。だから触れることで対応する人間の記憶だけは戻ってくるのだろう。


 ということは、全ての記憶を取り戻すには、全部の仙姑を探し出して、一人一人に触れないといけないということなのか。


 それはあまりにも無茶だ。彼女らの中には禁軍の人間もいる。それに、百八人全員に触れたところで、戻るのは前の世界で対応している人物の記憶だけかもしれない。完全に何もかも思い出せるとは限らない。


 燕青は頭を抱え込んだ。低く、唸り声を上げる。


 場は静まり返った。柴進も、安道全も、いまは黙っている。しばらくは静かにして、燕青に頭の中を整理させよう、という考えなのだろう。


 頃合いを見計らったかのように、柴進が口を開いた。


「肝心なのは――これからです」

「これから……」

「すでにこの世界は、あなたにとって未知の世界ではなくなりつつあります。私を始め、多くの人々と関係が出来てきている。その中で、どういった道を選び、進んでいくかは、全てあなた次第です。あなたの生きる道は、あなたが決めないといけません」

「俺が……何をすべきか……?」

「もし望むようでしたら、この屋敷にいていただいても構いません。我が柴家は、前王朝の末裔ですが、先祖が宋国の初代皇帝に国を譲ったことで、特別に国の保護を受けているのです。たとえ討仙隊といえども、この家を襲えば処罰されます。だから、ここにいれば安全です」


 そう言われても答えが出てこない。色々なことでかなり精神的に堪えてしまっている。頭の中は堂々巡りをしており、良案が思い浮かばない。


 魔星録に載っていた仲間達。百名を超える彼らを、全員失いながら、なお高俅を倒すことが出来ず、こんなところまで逃げられてしまった。しかも敵は権力の中枢に潜り込んでいる。相手を倒すのも、逆に追撃を逃れるのも、至難の業だ。


 それに、小倩が死んだ。何よりもそのショックが大きい。


「柴進、そろそろ……」


 安道全がストップをかけてきた。回復したばかりの人間に一度に負担をかけ過ぎだ、と言わんばかりに、険しい顔で首を横に振る。


「もしもあなたが自分の道を選ぶことが出来たなら、その時は私に話してください、燕青さん。出来る限りのことで、あなたの手助けになるようにしますので」


 ヨロ……と燕青は立ち上がった。返事する気力も無い。いまはただ、ひたすらに眠りたかった。


 現実を忘れて、夢の世界へと逃げたい。


(もう、どうでもいい)


 小倩の笑顔を思い出す。


 短い時間ではあったが、彼女がそばにいてくれることが、何もわからない自分にとって大きな救いになっていた。そんなかけがえのない少女は、もうこの世のどこにも存在しない。


 生き抜いていこうという気持ちが、燕青の中から失われつつあった。


 ※ ※ ※


 ひと眠りした燕青は、外から聞こえる雪かきの音で目を覚ました。早朝であるにもかかわらず、村の人々が総出で、道や屋根に積もった雪を取り除いている。


 寝台に横たわりながら、窓の外をずっと見ているが、白い空から降り続ける雪は一向にやむ気配がない。その間も、ずっと雪かきの音が聞こえている。


 村人達には生活がある。守るべき家族があり、土地がある。それが、うらやましい。


(俺には何にもない……)


 本来ならこの世界にはいなかった人間。生まれ故郷もなければ、知っている人間もいない。


 鏡合わせの世界というのなら、こちらの世界にも燕青に該当する人間がいるはずだし、生まれ故郷だって存在するはずだ。さらに言えば、仙姑達は、前の世界では自分の属していた反乱軍の幹部達と対応している。死んでいった仲間達が姿形は違えど蘇ったようなものだ。


 けど、それで何があるというのだろうか。似ているだけで、自分とはまるで関わりの無い人間達だ。意味がない。どこまで行っても自分は一人。しかも記憶は全然戻ってこない。


 ……などと鬱屈とした思いで、寝台の上でぼんやりとしていると、外から居丈高な声が聞こえてきた。


「滄州城より告げる! もしもこの地に潜んでいるのであれば、聞け、燕青よ!」


 身を起こし、見つからないように、こっそりと窓の外を見てみる。


 十人ばかりの兵士の一団が、道の真ん中に立っている。その中でも隊長らしき男が、大声を張り上げた。


「明朝卯の刻に、仙姑林冲の処刑を行う! だが、それまでに高太尉より強奪した巻物を、我々に渡しに来るのであれば、処刑の取りやめを考えるつもりだ! 林冲の命がどうなるかは、燕青、お前次第だ! この一日のうちによく検討するがいい!」


 隊長が言うだけ言ってから、兵士達は移動し、また少し離れた場所で同じ内容を繰り返す。村の一番奥にある柴進邸の前でまず宣言してから、村の入り口に戻りながら順繰りに告げていこうというのだろう。


「魔星録、渡すのか」


 いつ入ってきたのか、部屋の入り口の方から、魯智深の声が聞こえてきた。


「わからない……どうしたらいいのか」


 窓から離れた燕青は、また寝台に仰向けに横たわった。


 てっきり林冲も死んだものと思っていた。だが、生きていてくれた。それは嬉しいのだが、彼女は囚われの身になっていて、しかも処刑されようとしている。


「あんなの無視しろ。聞いたろ、『取りやめを考えるつもり』って。ハナから騙す気満々じゃねーか。てか、魔星録を渡すっていうなら、さすがにオレも容赦しねーぞ。全力で叩き潰す」

「だったら、どうしろって言うんだよ」

「オレに聞くなよ。お前と林冲とかいう奴の関係がどんなものか、知らねーからな。自分の気持ちに素直に従え。あくまでもオレはオレの都合で言ってるだけで、てめーがしたいことがあるなら好きにしろよ」

「俺と、林冲の、関係……」


 都のど真ん中で何もわからず困っていた自分を、彼女は助けてくれた。その後色々と手を焼いてくれたのは小倩だったが、林冲もまた命の恩人であることには変わりない。


 小倩は守れなかった。だったら、せめて、林冲だけでも守りたい。


 それが燕青の素直な気持ちであるが、しかし自分が彼女を救えるとは思えない。仮にこの場を助けたとしても、本当に歴史の流れが同じだというのなら、いつか林冲は国との戦いの中で命を落としてしまうのではないか。


 戦う気力が湧いてこない。


「んだよ……ガッカリだ。すっかり牙が折れてるじゃねーか」


 魯智深はため息をつき、もう話す気もなくなったか、さっさと部屋から出ていった。


 また独りになった燕青は、胸の中をざわつかせながらも、生気のない目で天井を見つめ続けていた。

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