第33話 別れ
せせらぎが聞こえる。
全身の痛みに燕青は苦悶の声を上げ、パリパリに凍りついたまぶたを無理やりに開いた。
川に落ちた後、下流まで流されたようだ。川幅は広くなっており、流れも緩やかだ。しかし岸辺には雪が積もっており、上流よりも空気が冷えている。
少し離れたところに、小倩がグッタリと倒れているのが見えた。起きる気配はない。
体が軋むのを我慢して、水辺を歩いていき、小倩の体を抱きかかえた。
キイイインと頭上で音がする。凌雲が追ってきたのだ。見つかる前にと、力を失った小倩の体を引きずって、雪に覆われた森の中へと姿を隠す。飛行音はすぐにどこかへ去っていった。
「小倩、もう大丈夫。敵は行った」
声をかける。
反応がない。
「……小倩?」
顔を覗き込んでみた。
唇が紫色に変色している。口の端から血も流れている。肌は熱波を喰らったせいか少し火傷を負っている。それだけといえば、それだけ。だから、すぐには燕青は信じられなかった。
「よせよ、おい」
何気なしに頭を触って――ギョッとした。
髪の毛に隠れていて気が付かなかったが、頭を触ってみると、凹んでいるのがわかる。橋から落ちた時、岩か何かに頭をぶつけたのだ。
「――!」
脈を取り、呼気を確認し、襟を開いて直に心臓のあたりに耳を当ててみる。
寒さで白くなった顔を、さらに真っ青にさせた燕青は、心臓マッサージと人工呼吸を試みた。先ほど自分の指で確かめたものが何を意味しているのかわかりながら、無駄とは知りつつも、やらずにはいられなかった。
「小倩……やだ……やめろよ……」
祈りのような言葉を呟きながら、蘇生活動を繰り返していた燕青だが、そのうちに声を荒らげ始めた。周りに敵がいれば見つかってしまうというのに、それでも構わず。
「ふざけんなよォ!」
一度怒鳴ったら、止まらなくなった。
唇を震わせ、涙をこぼし始める。
記憶の無い自分がここまで生き延びられたのは、彼女がいてくれたからだ。
それだけではない。自分に、温かくて、優しいものを教えてくれた。これまでの自分にはなかったであろうものを、彼女は与えてくれた。
たとえ何も憶えていなくても、常に前向きで、物怖じしない彼女と一緒にいれば、この先も平気で生きていけると思っていた。
共に過ごした時間は短くても、彼女は燕青にとってかけがえのない存在となっていた。
ずっと一緒にいたかった。
それなのに――小倩は、もう動かない。
二度と笑ってくれない。二度と話してくれない。
やがて助けることは無理だとわかり、燕青は天を仰ぎ、泣き叫んだ。
「わああああああ!」
慟哭が森の中に響き渡った。
雪に身を埋め、ゆるやかに燕青は死を待っていた。
自分は簡単には死なない体を持っている。橋から落ちても無事でいるのは、きっと一度死にはしたが、また再生したからだろう。
だけど自分の体そのものが雄弁に教えてくれる。いまなら命を断てる、と。夜の帳が訪れた極寒の森の中、凍えている燕青は、じわじわと死の影が近付いてきていることを感じていた。
(もう……いい)
死のう、と思った。
何も肝心なことは思い出せないまま命を落とすのは少し心残りだが、もしかしたら思い出さない方がいいのかもしれない。
蘇った記憶の断片では、仙姑と同じ名前の男達が、次々と命を落としていた。彼らとの関係は決して浅くないのだろう。小倩一人失っただけでここまで苦しいのだ、記憶を取り戻すことでその何十倍もの苦しみが襲ってくるのだとしたら、それはもう思い出さないほうがいい。
目を閉じた。眠くて仕方がない。
ザッ、と雪を踏む音がした。
誰かが来た、と思いつつ、燕青の意識は闇へと飲み込まれていった。
※ ※ ※
寒さで身を震わせ、林冲は目を覚ました。
石造りの牢屋の中にいる。申し訳程度に、床に茣蓙が敷いてあるだけで、他には何もない。
(ここは……?)
手枷も足枷も付けられていない。仙姑である自分を拘束せず、自由にしていることに疑問を感じたが、首に金属の輪が嵌められていることに気が付いた。
意識を集中させて、仙姑の力を解放しようとするが、力が出てこない。
とりあえず立ち上がって、中を歩き回ってみたが、自分のいる場所について手がかりとなるようなものは何も見つからなかった。
カツン、カツンと石畳の上を歩く足音が聞こえる。
格子の向こうに、陸謙が姿を現した。
「火尖槍で撃たれて生きているとは、さすが仙姑だな」
「陸謙……ここはどこだ」
「滄州城だよ。お前は捕まったんだ」
林冲は無意識のうちに首輪に手をかけた。それを見て、陸謙は口元を歪めた。
「無駄だ、外れない。それは緊箍児という宝貝だ。仙人の力を奪い、拘束するために使っていたらしい。実際に使用するのはお前が初めてだがな」
「……小倩と、燕青は、どうした」
「気になるか?」
あの時、光線で胸を貫かれた林冲は、倒れたまま動けなくなっていた。幸いにも狙いは逸れて、肺の辺りを射貫かれたから、即死は免れた。何とか仙姑の力を解放して傷を治し、やっとのことで起き上がった時には――熱波を喰らった小倩が、橋から吹き飛ばされるところだった。
林冲は叫び、駆け出そうとした。だが、後ろから機械兵達に飛びかかられて、地面に組み伏せられてしまった。抵抗しようと四肢に力を込めた瞬間、首に金属の輪を嵌められた感触があり――全身から一気に力が抜け、気を失ってしまった。
だから、最終的に小倩達がどうなったのか知らない。
「正直なところ、我々も行方は知らない。あの後、燕青は自ら吊り橋を切って、下に落ちていった。谷川沿いに捜索したがまるで見つからなかった」
「ということは……二人とも生きているということか!?」
「おそらくな。どこに隠れているのかは知らないが」
「よかった……」
目の端に涙を滲ませ、林冲は心の底からの安堵の表情を浮かべる。
その顔を見て、陸謙は冷たく微笑んだ。
「しかしお前は囚われの身だ」
「私はどうなってもいい。最悪、小倩だけでも無事でいてくれれば」
「ふん、舌でも噛んで、自ら命を絶つつもりか? どちらにせよ、奴らはこの滄州城へ来るだろう。お前を助けに、な」
「だったら、なおのこと、このまま生き続けるつもりはない」
「愚かな。お前がここで死んだところで、奴らにはそれを知る術はない。それに、もしもお前の妹が、お前の死を知ったら――平気でいられると思うか?」
「それは……」
林冲は唇を噛んで、うつむいた。万が一燕青が死んでいたら、小倩は独りだ。その上自分まで死んでしまえば、どうなるか。
「いずれにせよお前は処刑を免れられない。が、その命は軽はずみに断てるものでないこと、よく肝に銘じておくのだな」
陸謙はそう言い残して、牢屋の前を離れていった。
残された林冲は拳を握り締めた。決して、相手が親切心でそんな話をしてきたのではないとわかっていた。むしろ縛りを入れてきたのだ。捕虜として取引材料になる自分に死なれたら困るから、小倩のことをネタにして。
そうだと知りつつも、林冲にはどうすることも出来ない。ただ拳を握り締めるのみだった。
(バカな女だ)
牢獄の外に出た陸謙は、外套の前側をしっかりと結び合わせ、風雪の中を歩いていく。見張りの兵士達が会釈をしてきた。
一歩進む度に、笑みがこぼれてくる。
陸謙は見ていた。谷底に落ちていった小倩が、川の中の岩に頭を打ちつけるところを。あれで生きているはずがない。間違いなく死んでいる。それでも死体は見つからなかったということは、おそらく燕青だけは生き延びて、彼女の死体を運んでいったのだろう。
そのことに林冲は気が付いていない。
情報の開示はタイミングが全てだ。機を見て行えば、絶大な効果を伴う。林冲の場合、小倩の死を教えるのは、いまではない。
最も有効な場面で、彼女の耳元に囁く。そうして深い絶望を与える。その結果、何が起きるのかわからないが、もしも狙い通りに事が進むのであれば――きっと面白い展開になる。
「クク……ククク……」
城内を吹き荒れる雪の中、陸謙は楽しげに忍び笑いを漏らした。
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