第20話 思い出の味

「……!」


 曹正は、燕青達を険しい目で見てきた。額に汗が滲んでいる。なお葛藤しているようだ。


 その間にも、燕青は素早く厨房の中に目を配らせ、脱出するためのルートを確認した。正面から出ることは不可能だ。であれば上の方に逃げるしかない。幸い、厨房の中に独立して、各階へ上るための昇降機がある。あれを使えばとりあえず一階からは離れられる。


 しかし、上階へ移動したとして、そこからどうやって脱出するのか。


(提灯を吊していた鋼線……!)


 さっき触ってみたから、人が乗っても問題なさそうな強度であることは確認済みだ。最上階からなら、下から弓矢で狙撃されることもないだろう。


「なあ、教えてくれ。お前の店の船は、どこかに停泊させてあるのか?」

「各運河に一隻ずつ、高速船を用意してあるネ」

「この店の横にも運河が流れてるけど、当然、あるんだな?」

「民間の船舶は、決まった場所に集められてるネ。運河に沿って探せばすぐにわかるヨ」

「よし――じゃあ、決まりだ」


 燕青は頷き、曹正に向かって指を突きつけた。


「もし俺達の話に乗るって決めたのなら、今晩、お前んとこの船のところに来てくれ。俺と小倩はそこで待ってる。夜まであれば結論出せるだろ。協力するか、しないか――」

「燕青、そういう言い方、ダメだよ」


 小倩はコツンと燕青の頭を軽く叩き、かぶりを振る。


「じゃあ、どう言えってんだよ」

「ちゃんと誠心誠意、頼むの」


 そう言ってから、小倩はペコリと頭を下げた。


「お願いします……曹正さん。私達が頼りに出来るのは、もう、あなただけなんです」


 曹正は困り顔で口を閉ざしている。何か答えればまずいことになるとでも思っているのか、何ひとつ言おうとしない。


「ほら、行くぞ」


 どうせこの場では結論は出ないだろう。燕青はやや乱暴に小倩の腕を引っ張ると、厨房の奥へと早歩きで向かうと、昇降機に乗り込み、ボタンを押した。


「料理長、いまの二人は……?」


 燕青達が去った後、店員が尋ねてきたのに対し、曹正は首を小さく横に振った。


「私の友人ヨ。詮索は無用ネ」

「はい……かしこまりました」


 全てを察したのか、店員はそれ以上何かを聞くようなことはしなかった。


 格子戸がガシャンと閉まり、昇降機が上がっていく。すぐに燕青達の姿は見えなくなってしまった。


 曹正は、そろそろ饅頭が蒸し上がる時間だということを思い出し、蒸籠の蓋を取った。


 パクッとひと口食べてみる。


「……!」


 口の中に広がる味は、自分が普段作っている饅頭と比べたら、極めてシンプルで特筆すべき点のないものだった。


 だけど――母が作った、あの時の味――そのものだ。


 じわりと涙が滲んだ。が、母を亡くして以来、人前で弱みを見せまいと生きてきた曹正は、店員の前で泣くわけにもいかず、さり気なく手の甲で目元を拭った。


「それは新作ですか? 私もひとついただいても?」


 店員は、曹正が頷くのを確認してから、一個頬張ってみた。そして首を傾げた。


「料理長にしては……いたって……普通の味ですね」

「私以外の人間が食べたら、そう思うはずヨ」

「はあ……?」


 この小籠包は、曹正向けに作られている。それは決して、気持ちだけの問題ではなく、味付けからしてそうなっていた。大衆に受けるため、ハッキリした味と匂いの料理を作り続けていた曹正の舌は、自身が試食をしているうちに、すっかりその味に慣れてしまっている。


 だからこそ――シンプルで、スッキリした味わいの小倩の饅頭は――優しく口の中に染み込んできた。


 まるで亡き母が「仕事ばかりしないで、たまには休みなさい」と語りかけてくるかのように。


「愛情がスパイス……ネ」


 フッと微笑み、蒸籠の中の饅頭を見つめる。


「……討仙隊の皆さんには、こう伝えるヨロシ。『お尋ね者には逃げられた』と」

「かしこまりました」


 店員はうやうやしく頭を下げて、厨房から出て行った。


 ※ ※ ※


 満福楼を包囲した陸謙は、使いの者達の報告を受けていた。


 が、どれも芳しくないものばかりだった。


 何としても燕青を始末しなければならないというのに、全部で八隊の部隊長達は、ほとんどが別の任務に就いている。


「第七隊の鄧元覚隊長、および第八隊の党世雄隊長、ともに仙姑討伐の任に当たっており、すぐには都へ戻れないとのことです!」

「第五隊の黄文炳隊長は、江州にて情報収集の任に就いております」

「第三隊の欒廷玉隊長は虎人族の村で潜入捜査中、第六隊の史文恭隊長は遼国の調査に当たっています!」

「第一隊は……その……隊長の陳希真殿を始め……副隊長も含め、全員行方が知れません」


 陸謙はハアとため息をついた。


 この重要な局面で、討仙隊最強の第一隊が参戦できないのは痛手だ。しかも第二隊の凌雲は、切断された腕と両脚を修復しているため、まだ前線には出てこられない。


 自分自身は総隊長の副官ではあるが、位置付けとしては参謀的なものであり、基本的に戦闘要員ではない。直接戦えば、負ける可能性の方が高い。だから、この状況がもどかしい。


「第四隊は、隊長の瓊英殿、副官の葉清殿を始め、各位配置についたとのことです!」


 立ち並ぶ楼閣の、上の方を見た。地上からではわからないが、第四隊の者達はいずれかの建物に隠れて、息を潜めて待っているはずだ。満福楼に狙いを定めて。


 せめて狙撃部隊だけでも出てこられたのだから、よしとすべきか。


「伝令! 満福楼の中に燕青はいたようですが、すでに逃げた模様!」


 兵士の報告を聞き、陸謙はフンと鼻を鳴らした。逃げたとはいっても、満福楼を出てはいないはずだ。その報告は上がってきていない。奴らはいまだあの中にいる。


「構わない。作戦開始だ」

「はっ!」


 命令を仲間達に伝えるため、兵士は満福楼の中へと戻ろうとした。


「待て」


 大事なことを指示し忘れていたので、陸謙は呼び止めた。


「念のため、高太尉からの指令をもう一度伝えておく。『燕青は二度殺せ』。絶対に忘れるな。現に、凌雲はそのことを忘れたせいで、奴を殺し損ねた。一度で油断するな――二度、殺せ」

「かしこまりました! 必ずや!」


 兵士は敬礼し、速歩で建物の中に入っていった。


 陸謙は道に立ったまま、ちょっとの異変も見逃すまいと、満福楼から目を離さずにいた。

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