第3話 無くし物は巻物

「起きたらすぐに教えてくれ、と言ったはずだぞ、小倩」


 入口の方から声が飛んできた。


「あ、姉様」


 部屋の中に、キビキビとした動きで、武人風の緑衣を纏った少女が入ってきた。小倩に「姉様」と呼ばれているということは、つまり彼女が林冲。そして顔を見て、燕青はすぐに気がついた。町で出会った少女だ。


 彼女がなぜ自分を助けてくれたのか、その意図がわからない燕青は、警戒心を剥き出しにして睨みつける。第一、初対面だったというのに槍まで向けられたのだ。


「こら」


 コツン、と頭にげんこつを当てられる。燕青の態度を見て、小倩が注意を入れてきたのだ。


「そんな顔しないの。まず最初に言うことは?」


 自分と歳の変わらない小倩に叱られて、ムッとしつつも、燕青はその言葉に従う。


「……ありがとう」


 渋々、林冲に礼を言った。


「礼には及ばない。看病したのは小倩だからな。私は特に何もしていないさ」


 林冲は首を横に振った。それから、改めて挨拶をしてきた。


「私は林冲。この家の主を務めている。よろしく」

「……ん」


 燕青は無愛想に頷いた。


「ところで、記憶はまだ戻らないのか?」

「戻らない。全然」

「名前は?」

「燕青」

「他に手掛かりになるようなことは憶えていないか?」

「何も。自分の年齢が一六歳、ってことくらい」

「そうか」


 そこで林冲は、黙った。なぜか表情は険しい。


「念のため聞くが……まさか、『討仙隊』の者ではないだろうな?」


 そう聞かれても、答えようがない。仮に自分がその討仙隊とやらに所属している者だとしても、何も思い出せないこの状況では、何とも言えない。とりあえずかぶりを振った。


「これは? 小倩が、君を寝間着に着替えさせている時に、君の懐から落ちてきたそうだ」


 机の上にコトリと女物の簪が置かれる。海棠花の形をした彫刻があしらわれている。手に取って、しばし眺めてみたが、思い出せることはなかった。


 いや、おかしい。ひとつ足りない


「……巻物は?」

「巻物?」


 もともと懐に入っていた物だ。燕青があの巻物を取り出した瞬間、兵士達は襲いかかってきた。記憶は無くても、周りの態度で、あれが重要な物であることくらいはわかる。


「服を替える時には、その簪以外、何も出てこなかったけど……」


 困ったように言う小倩の言葉を聞き、急に、背筋に冷たいものが走った。


 あの巻物は誰の手に渡してもならない物だった気がする。それなのに、いま、自分のそばにはない。そう思うと冷や汗が流れ出てきた。


「行かなきゃ……!」


 急いで身を起こしかけた燕青だが、慌てて体を動かしたせいで全身に激痛が走り、「あうっ!」と叫んで再び寝台の上に倒れてしまう。


「無茶するな。君はまだ動けるような体ではない。せめてあと半日はこのまま寝ているんだ」


 林冲の言葉が終わるのと同時に、外から鐘の音が聞こえてきた。時刻を報せる鐘だ。


「そろそろ朝の調練の時間だ。また改めて話をしよう。小倩、燕青を頼むぞ」

「任せて、姉様」

「とはいえ、雑多なことは使用人に任せるんだ。小倩はこれ以上無理をするな」

「はーい、わかりました。それより姉様」


 と小倩は自分の額をトントンと指で叩いて、クスッと笑った。


「気を付けて。眉間に皺寄ってる」

「ん? ああ……すまんな、どうもクセになってる」

「またあの変なあだ名で呼ばれちゃうよ」

「その話は勘弁してくれ……」


 結局、しかめ面を崩さないまま、林冲は部屋から出ていった。


「いま話してた、『変なあだ名』って、林冲のこと?」

「そ。姉様ってばいつも眉間に皺寄せてるから、ついたあだ名が『豹子頭』(ひょうしとう)」

「豹の額は狭いから……?」

「そういうこと。おかしいでしょ。でも意外と似合ってると思うんだ。姉様、とっても強いから。禁軍でも一目置かれてるの」

「禁軍……?」

「え、禁軍のこともわからないんだ!? どこから説明すればいいかな……この国が『宋』という国だっていうのは、わかってる?」


 黙って燕青はかぶりを振る。


「オッケー、今聞いたから、憶えたよね。で、禁軍っていうのはね、この宋国の正規軍のことなの。姉様は、そこの教頭。兵士達に槍術とか棒術とか教えるのが仕事なんだよ」

「ふうん。あいつ、偉い奴なんだ」

「それほどの地位じゃないよー。禁軍の武術師範は、姉様の他にも大勢いるから」


 小倩は笑いながら手を振った。


 ふと、燕青は疑問を感じた。


「町中の兵士達って、警備の連中かなんか? あれも禁軍なの?」

「うん。基本的に、みんな禁軍に所属してるよ」

「で、林冲も禁軍の人間だと」

「そうだけど……どうかしたの?」


 小倩は首を傾げて燕青を見つめてきた。


 道理に合わない。兵士達は燕青に向かって襲いかかってきた。それなのに、林冲はなぜか自分を助けてくれた。同じ軍に所属している人間なのに、なぜ対応が違うのか。


 さらに話を聞こうと思っていたが、


「痛っ」


 また頭痛が走り、顔をしかめた。あまり長話出来る体調ではない。


「ごめんね、病み上がりに。今日はもうゆっくり寝てて」


 そう言って、小倩はすぐに部屋から出ていった。


「ふう……」


 燕青は寝台に身を横たえ、息をつく。

 今のところは、何もできない。とにかく寝て、回復するしかない。そう思うと、気持ちが落ち着いたことで再び眠気が盛り返してきて、いつしか燕青は寝息を立て始めていた。

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