第2話 寝覚めの粥と介抱する少女

 長い夢を見ていた。

 温かくて、懐かしくて、だけど決して手の届かないところにある世界。ホッとするのと同時に、自分は二度とそこへ戻れないことに、たまらなく切なさを感じる――


 ――目を開けた燕青は、頬を伝うものを感じて、手で拭った。


 涙だった。


 なぜ泣いていたのか、よくわからないが、夢のせいであるのは確かだった。


(ここ、は……?)


 どこかの屋敷の室内だ。寝台に仰向けに寝かされている。ずぶ濡れだった衣服も、新しい衣へと着替えさせてもらっている。


 部屋の窓から外を見ると、うっすらと空は青くなってきている。明け方のようだ。冷気を伴った風が室内に時折入ってくるが、部屋の暖炉に薪がくべてあるため、それほど寒くはない。


 燕青は掛布団をはぎ、起き上がろうとしたが、途端に全身に痛みが走った。これでは起き上がれたとしても、歩くことすら困難だ。仕方なく、また横たわる。


「あ、やっと起きた!」


 女の子の声が聞こえた。


 桃色の服を着た少女が、部屋の入り口に立っている。両手で盆を支えており、盆の上には湯気の立っているお椀と、肉まん。全身が痛む燕青だが、漂ってくる食べ物の香りを嗅いで、急にお腹がグルグルと鳴り始めた。その音を聞いて、少女はコロコロと笑った。


「よかった! ちょうど朝ご飯ができてたの!」


 少女は近くまで寄り、枕元の机の上に盆を乗せた。湯気の立つお椀の中身は、温かい粥だ。食欲をそそられ、思わず手を伸ばしかけたが、ふと、(このお粥、食べても大丈夫か?)と疑念が湧いてきた。


「食べないの?」


 少女は首を傾げた。


 それに対して是とも否とも言わず、燕青はまず頭の中に浮かんでいる疑問をぶつけた。


「ここ、どこなの? あなたは、誰?」

「それを聞くより先に言うべきことがあるんじゃないの?」


 急に少女はキッと真顔になる。


「お・れ・い」

「は?」

「パッと見て状況ぐらいわかるでしょ。こういう時は、まず最初にお礼。わかった?」

「えっと」


 なぜ自分は初対面の女の子に説教されているのだろうか。


「わかった?」

「わ、わかった。その……ありがとう」

「よし」


 少女は再び顔を綻ばせ、椅子を引いてくると、寝台の横に座った。何をしようとしているのかと燕青は見守っていたが、やがて、少女が蓮華でお粥を掬い出したのを見て、慌て出した。


「い、いいって! 自分で食べられるよ!」

「本当に?」


 ジト目で少女は見てくる。嘘をついたら承知しない、という表情だ。


「本当だって!」


 机の上のお粥に向かって手を伸ばそうとするが、ビキッと筋肉が断裂しそうな痛みが腕全体に走り、「あぅ!」と呻いて、腕を引っ込めた。


 少女は苦笑した。


「ほら、ダメ。まだ元気な体じゃないんだから、わがまま言わないで」


 そしてお粥の乗った蓮華を鼻先まで運んできた。燕青はプイッと顔を背ける。


「いらない」

「どうして」

「毒が入ってるかもしれないだろ」


 言い訳を考えるのが面倒だったから、正直に言う。


 しばらく、少女はポカンと目を丸くしていた。怒り出すかな、と観察していると、意外にも声を立てて笑い出した。


「君、面白いこと言うね! あはは。でも、その冗談はひどいなぁ」

「冗談なんかじゃ――」


 ムキになって言い返そうと口を開いたところへ、


「隙あり!」


 と少女は蓮華を突っ込んできた。びっくりした燕青は、思わずパクッと口を閉じてしまった。最初は嚥下しないようにと抵抗していたが、やがて鼻孔をくすぐる香りに耐えかね、喉の奥にとろみのあるスープと米を流し込んだ。


「……おいしい」


 体中に栄養が染み込んでいくようだ。生姜も利いており、内奥から温かさも広がってくる。


「よかった! 全然目を覚ます気配がなかったから、心配してたの。はい」


 また蓮華にお粥を乗せて、口元まで運んできてくれる。今度は、燕青は素直に食べさせてもらった。一度慣れてしまうと、逆にひと口ずつ、ゆっくりしか食べられないのがもどかしい。


「名前、教えてもらってもいい?」


 燕青が五口目を飲み込んだところで、少女は質問してきた。「燕青」と名乗ると、少女はニッコリと微笑み、自身も名乗ってきた。


「私は林小倩(りんしょうせん)」

「ここは……?」

「林家の屋敷。禁軍槍棒師範林冲(りんちゅう)の名を聞いたことはない?」

「いや、初めて――」


 と言いかけたところで、ズキン、と頭に痛みが走った。「んっ……!」と小さく悲鳴を上げ、身を丸めながら掛け布団をギュッと掴んだ。


「だ、大丈夫!?」

「平気……」


 冷や汗を流しながら、燕青はゆっくりと布団から手を離した。


 林冲――その名を聞くのは、初めてではない。倒れる前に蘇ってきた記憶。中年男性の槍使いが、こちらに向かって笑いかけている光景。その男の名前が、たしか林冲だったはずだ。


「聞いたことがあるかもしれない。その林冲は、男?」

「ううん、私の姉様よ」

「え……?」


 では、記憶の中の林冲という人物は、ただの同姓同名の男なのだろうか。

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