第1話 目を覚ますと全てを忘れていた
最初に耳に入ってきたのは雨音だった。
次に、自分が水溜まりの中にうつ伏せに倒れていることを知り、全身が無数の雨粒に打たれていることもわかってきた。
道の真ん中に寝転んでいる。左右に立ち並んでいる建物群はやたらと高く、威容を誇っている。往来には、雨にもかかわらず大勢の人々が行き交う。すぐそばを誰かが駆け抜けていき、バシャリと水飛沫が上がった。
見慣れない風景に少女は戸惑う。ついさっきまで自分はこんな場所にはいなかったはずだ。たしか自分は――
ズキン、と頭が痛む。
(……え?)
何も思い出せない。一切の記憶が欠落している。自分がどこで生まれたのか、どこに住んでいたのか、なぜこんな町中にいるのか、何もかも思い出すことができない。
辛うじて出てきたのは、自身の名前。
(俺の名前は、燕青)
少女でありながら、自身のことを「俺」と呼ぶのに、特に燕青本人は違和感を抱いていない。それがごく当然のことだと思っていた。
続いて、年齢も憶えていることがわかった。一六歳。だが、何とか引き出せたのはそこまでだった。後のことは何ひとつわからない。
周りからヒソヒソ声が聞こえる。通行人達が遠巻きにして、自分のことを見ている。
とりあえず身を起こしてみた。
少し思い出した。ここへ来る前は、どこかで目を覚ました。そこから意識朦朧としたままフラフラ歩いてきたが、急に頭痛とめまいに襲われ、道の真ん中で倒れてしまったのだ。
(それにしても……ここは、どこなんだろ?)
周りに立っている楼閣は優に十階以上の高さがある。こんなに高い建築物を、燕青は見た覚えがない。もっとも、記憶が無いから、本当に見たことがないのかどうか、定かではないが。
「君。そこのお嬢ちゃん。大丈夫か?」
年配の兵士が近寄ってきた。その後ろには、若い兵士がいる。
燕青はしゃがんだ体勢のまま、後退った。何となく危険を感じた。そんな燕青を訝しんだ年配の兵士は、微かに眉をひそめた。
「どうした? 何があったんだ?」
尋ねてくる年輩の兵士は、純粋に燕青のことを心配しているようだった。が、後ろの若い兵士が、「もしかしたら……」と耳打ちした途端、目つきが険しくなった。
「……持ち物を見せてもらおうか」
「何で?」
咄嗟に胸元を押さえる。さっきから、懐の中に何かが入っていることには気が付いていた。
「何か持っているな。出したまえ。隠すなら、少々手荒い真似をしなければならなくなる」
仕方なく、燕青は懐の中から、持っている物を出してみせた。
巻物だ。表には「魔星録」と書かれている。
「やはり――!」
途端に、年配の兵士は目を剥き、腰の鞘から剣を抜いた。若い兵士は笛を咥え、ピイイイとけたたましい音を鳴らす。
(なに⁉ なに⁉ なんなの、もう!)
燕青は巻物を懐にしまってから、即座に動き出した。
年配の兵士の懐に飛び込み、水月に拳を叩き込む。相手が「がっ!?」と呻いて前屈みになったところで、剣を奪い取り、背後へ回り込みながら足の腱を斬った。年配の兵士は悲鳴を上げ、前のめりにバシャンと水たまりの中に倒れ込む。
周囲の人々が驚きの声を上げるのが聞こえた。
「せ、先輩!?」
若い兵士が仰天して、剣を抜いた。
攻撃をする余裕など与えない。燕青は間合いを詰めるのと同時に、金的に、えぐり込むような蹴りを叩き込んだ。急所を潰された相手は呻き、泡を吹いて崩れ落ちる。
「どけ! そこをどけ!」
笛の音を聞いた兵士が二人、増援としてやって来た。人混みを掻き分け、時には突き飛ばす。その段階になって、ようやく事態を理解できたのか、人々は口々に喚きながら散り始めた。
二人の兵士は、持っている武器を構えた。弩、だ。弓とは違い、引き金を引くことで矢を発射できるタイプの武器。記憶のない燕青だが、その知識だけは残っている。
「動くな! 剣を捨てろ!」
「ちょっとでも妙な真似をしたら撃つぞ!」
警告に従い、燕青は剣を捨てた。
兵士の一人は、一瞬、濡れた地面に落ちる剣へと気を取られた。
その隙を逃さず、燕青は地面を蹴り、その兵士に向かって突っ込んでいく。相手はギョッとして引き金を引こうとしたが、反応が遅い。逆に燕青は弩を奪い取ると、向きを真逆に変えて、相手の肩口を狙って引き金を引いた。バシュッと空を裂く音がした後、矢が肩肉を貫き、兵士は絶叫を上げた。
「貴様ァ!」
もう一人の兵士が引き金を引いた。矢が唸りを上げて飛んでくる。だが燕青は射線を見切って、顔をわずかに傾けるだけで矢をかわした。すぐに、相手に向かって駆け出す。
「ひ!? く、来るなァ!」
再装填が間に合わず、兵士は弩を捨てると、剣を鞘から抜き出した。が、遅い。
燕青は兵士の腕を掴むと、体勢を崩しながら足を払った。相手を頭から地面に叩きつける。
「か……は……!」
兵士は白目を剥いて、昏倒した。
――訪れる静寂。
周りの人々は、自分を遠巻きにして怯えた目を向けている。聞こえるのは雨音だけ。
(これが俺の力……?)
信じられない思いで自分の手の平を見つめる。身に付いていた体術を駆使することで、兵士達をあっという間に叩きのめすことができた。一体、自分は何者なのか。
とりあえず、この場を離れる必要がある。
剣を拾い、駆け出す。無差別に襲われると思ったか、野次馬になっていた人々は悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
笛の音が聞こえる。方々から兵士達が集まろうとしていた。
人気の少ない裏路地を選んで逃げることで、追っ手を撒くことには成功した。
「何、これ……」
燕青は建物の壁にもたれかかり、ズキズキと痛む頭を押さえる。
二つの高層楼閣に挟まれて、光の入らない薄暗い路地。天からは雨だけが降り注いできている。髪の毛がグッショリと濡れており、頭をブンブン振って水を飛ばした。
懐から巻物を取り出してみた。表に「魔星録」と書かれている、謎の巻物。兵士達はこれを見た瞬間、有無を言わさず襲いかかってきた。相当重要な物らしい。
中を見てみたくなり、紐を解こうとした。
直後、横から、バシャッと水の跳ねる音が聞こえた。追っ手が来たのかと、巻物を懐にしまい直し、音のした方に素早く向き直って、身構えた。
(え――?)
そこにいたのは少女だった。
雨除けの笠を頭にかぶり、緑衣を身に纏い、右手には長槍を持っている。天女が現れたかと思うほど、少女の容貌は整っており、こんな湿った裏路地にはまるで似合わない。
「君に話がある」
よく通る凛とした声で、笠をかぶった少女は声をかけてきた。
「お前は誰?」
「まず君から名乗ってもらおうか」
「は? どうして俺から名前を言わないといけないのさ」
「私は――君のことを、まだ信用していない」
チャキッと穂先を鳴らし、少女は槍を構えた。
「いくつか質問に答えてもらおう。私のことは、それから説明する」
「それ、人に物を聞く態度じゃ――」
肩をすくめた、その時だった。
ズキン、と激しい頭痛に襲われた燕青は、「がっ……!?」と呻き、頭を両手で押さえた。頭蓋骨の内側から引き裂かれんばかりの痛みだ。とても耐えきれず、地面に横倒しに倒れた。
意識が、どんどん薄れてゆく。
「おい!? しっかりしろ!」
少女はバシャバシャと水を撥ねながら、こちらへ駆け寄ってきた。
そして、倒れている燕青を抱き上げた。
ビキッ、と骨にヒビの入る音が聞こえたような気がした。
直後、いつだかの記憶が蘇る。
※ ※ ※
槍を構えた林冲は、敵兵に弓矢で狙われながらも臆することなく仁王立ちし、こちらへ振り返って不敵にほほ笑んだ。いつものように眉間に皺を寄せながら、それでも楽しそうに。
「こんな所で命を散らせるな。生きることが、お前の戦いだ。さあ――行けッ!」
※ ※ ※
(これ……は……!?)
唐突に蘇ってきた記憶に戸惑いながら、何とか意識を保っていた燕青だが――ついに頭の痛みに耐えきれず、気を失ってしまった。
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