第9話ㅤ君はイブ

ㅤ仮初の楽園には、彼岸花が生い茂っている。

ㅤ赤い彼岸花の花言葉は『悲しき思い出』や『諦め』。これが白など別の色になると話が変わってくるけど、目の前の視界を埋め尽くすのは穢れを知らない真紅だった。


ㅤ空は光を知らない曇天で、今にも雨が降りそうな程に黒く汚く濁っている。所々ヒビ割れて漆黒の宇宙が露出した空も、誰が水をやらずとも爛々と咲き乱れる花々も、どこか浮世離れしていた。


ㅤもう青いヒヤシンスなんて咲かない。

ㅤ果実の成る木は全て枯れ落ちた。

ㅤ空は晴れず、川は流れない。


ㅤ夢の一欠片もない花畑の中心に、少女​──番留涼夏は立っていた。



「結局、駄目だった……」


ㅤ此方には後ろ姿を向けたまま、涼夏はただぽつりと呟いた。スカートの裾を固く握り締めて、今にも泣きそうな声で何かを諦める彼女の表情は、此方からは目視出来ない。



「​──何が駄目だったんだ?」


ㅤ数刻前に自分を殺した少女を前に、警察官志望の少年・千望セツナは悠然として問う。その声色からは、迷いや怒りは消えていた。


「……どうして、生きてるの?」



「オレもよくわからない。映画の外では、まだ死んでないからじゃないかな?」

ㅤ怯えるように振り向いた涼夏に、セツナはからっとした微笑みを見せる。トイが元の身体に戻してくれたおかげで、セツナの胸元には、傷ひとつ付いていなかった。


ㅤ赤い花畑の中心で、白と黒の制服を着た男女二人が向かい合う。



「そう……で、何しにきたの。恨み言でも言いに来た?」


ㅤセツナの笑みに涼夏も歪に笑い返すと、そのまま二歩後ろに離れた。ただでさえ心の距離に溝が出来た二人の間に、子供数人分程度の距離が生まれる。


ㅤ彼女がセツナに会いたくなかったのか、セツナの顔を見たくなかったのかはわからない。

ㅤでも、千望セツナはもう動じなかった。



「違う。謝りに来た」


「​──?」

ㅤ恨み辛みを言い聞かされると思っていたのか、涼夏の表情に疑問が浮かぶのがわかる。


ㅤ当然だ。普通、死の淵を体験された人間は、それを自分に体験させた人間の元にわざわざ舞い戻ったりしない。幼馴染に裏切られた幼少期のセツナが、和解を願ってもう一度駆け寄ったりはしなかったように。


ㅤ涼夏からしたら、今のセツナはただの自殺志願者だ。

ㅤもうすぐ崩壊するこの世界で、ただ伝えたいことを語り届けるために、自分の元へ駆けてきた少年。或いは、飛んで火に入る夏の虫​。


​──なんて思われても構わない。

ㅤセツナには、それでもこの場所に来たい理由があった。


「君と揉めた後、一回映画の中で死んだらしくて……何故か、ぬいぐるみの姿にされた。最初は何が何だかわからなくて、君のことも思い出せなかったんだけど、いろんな人と話す内に段々思い出してきてさ」


ㅤ目を閉じれば耳に残るのは、過去の自分が言い放った醜い暴言だ。



『君には将来の夢があるんだよな?なら、俺に構ってないで、それを叶えにいけよ。俺は別に、友達も、恋人も、要らないから!』



「……あの時、俺は表面ではこの映画館の真実を疑っておきながら、情報を提供してくれた君に無責任で最低なことを言った。本当にごめん」


ㅤ目を伏せたまま頭を深々と下げてから、数秒後に真剣な表情で顔を上げるセツナ。対する涼夏は、小馬鹿にするように薄く冷笑していた。


「……それが何。そんなことのために、わざわざここまで来たの?」


「嫌だったか?」


「別に。馬鹿だなと思うだけ」

ㅤ罵られたっていい。どう思うかは、彼女の自由だ。

ㅤぬいぐるみの姿にされてから、喉に魚の小骨が挟まるかの如くとっかかりになっていた事を話せて、セツナはむしろ澄んだ心持ちでいれた。謝って清々した気持ちになりたかった訳じゃないけど、どうしても伝えておきたかった。


ㅤバカ真面目なセツナに真面目に接していたことを阿呆らしく思ったのか、涼夏は呆れるように溜息を吐く。はあ、という息は空に新たなヒビ割れを作り、まるでこの世界に彼女の精神が反響しているようだった。



ㅤ涼夏はくるりとその場で軽くターンをすると、鬱々とした表情とは一転し、出会った頃と同じ可憐な少女の笑顔を見せる。



​──今なら、それが作り笑いだとわかった。



「ねえ、ダーリン」



ㅤいつか否定した呼び名で呼ばれて、セツナの口角は引き攣りそうになる。何とか耐え忍ぶも、涼夏は見通すように満面の笑みを見せて、その場で幼女のように無邪気に両腕を広げた。


「わたしは女優。ここはトイが女優わたしの夢のために作った舞台。観客はお呼びじゃないの!」


ㅤ観客に、舞台に上がる権利はない。

ㅤ誰もが知る事実を指し示したつもりなのか、彼女の立ち振る舞いは冷然としており、微かな焦りも見せはしなかった。本物の女優をなら、彼女は死に際に笑う少女にだってなりきってみせる。



「もしわたしのエンドロールに名前を飾ってくれるなら、わたしに許されたいなら、この手を取って。もうすぐこの映画館は崩れ落ちる。眠るように死にましょう、ダーリン」



ㅤそれがわたしの唯一の希望だから。

ㅤ瞳が、唇が、指が、手足が、そう語っているようだった。



ㅤこのままここで立ち尽くしていれば、涼夏にもセツナにも生きる可能性は芽生えない。その未来を見越して、彼女は手を差し伸べた。


ㅤ黒いセーラー服が赤い花畑に映えるとは思っていたけど、彼女の白く艶のある肌が、その美しさを更なる神秘性へと昇華している。



ㅤここで惑わされてはいけない。




「​──夢を偽るのはやめろよ。君がなりたいのは女優じゃない。探偵だ」



ㅤ決して手は取らず、セツナは真実だけを望む瞳に涼夏の姿を映しだした。


「……はあ?」


ㅤセツナの瞳に映し出された涼夏は、一体何を言うのかと言いたげに呆気に取られている。まあ、わたしは女優だと自称しているのに、急にその夢を否定されたんだから、当たり前の反応だ。


「ここに来る前、色々あって未希と映里に会った。映里はよく暇な時に君と話していたらしいし、未希は言わずもがな、誰だかわかるだろ」


ㅤ涼夏が未希のことを知っている。

ㅤその事実の裏付けは、上映前に関わりがあったからではない。番留涼夏は、椎名未希の存在をからだ。


「未希は俺より何倍もこの場所について詳しかった。最初から、何かを知っているような素振りが見えたこともあったけど……あれはもしかしたら、俺へのヒントだったのかもな」


ㅤセツナは右手を胸元に出し、沈んだ瞳で手のひらを見つめる。未希には世話になったから、本当は口に出したくないことだけど​──今更そうも言っていられない。



ㅤ一度失った夢を思い出させ、真実を追う覚悟を見出させてくれた未希。与えられた恩義を返すため、セツナは静かに深呼吸をする。


ㅤ息が整えば、目の前の少女に向き直る準備は万端だ。




「俺が思うに、椎名未希​──彼は、この映画館の職員なんじゃないか?それも、着ぐるみ達よりは遥かに高い権利を持っている」



「ミステリー映画でも演じるつもり?彼はどこからどう見ても人間じゃない。トイと違って、ちゃんと生きてる」



「​生きてはないよ。彼には、体温が無いから」


ㅤ今思えば、未希がセツナに〝最初の疑問〟を与えたことこそが、全ての始まりだった。


『オレ、椎名未希!高校二年。あんたは?』


ㅤ初対面の男子高校生と握手したがるだなんて、ユーモアのある子だと思った。けど、その行為がそれだけで終わるには何か不自然で、


『せ、千望セツナ。同い年だよ』


『セツナね!よろしく!』


ㅤセツナはつい言い淀んだ。


ㅤ繋いだ彼の手に、温かさも冷たさも無かったからだ。


ㅤそしてそれを機に、最初は興味本位で来ただけのセツナの幼い感心が、航路を変えるようにチルドレンシアターへの疑惑へと繋がった。だからこそ奇想天外な映画を純粋に楽しむことが出来ず、食べ物の味がしなかった。



「最初にこの映画館に来た時、俺は本来の夢を諦めかけていた。だから、それがどれだけ不可解でも突き止める勇気は無かった」


ㅤぎゅっと拳を握って、過去の自分の愚かさを悔いた。

ㅤダメ元でも幼馴染に向き合って、何故あんな真似をしたのか聞いておくべきだった。でも、そうしていたら今ここに自分はいないから、ある意味結果オーライと言えるけど。


ㅤ過去があるから今がある。

ㅤその全てに感謝して、セツナは幼子のように頬を緩めて笑った。


「……そんな俺に真実を見つける力を与えてくれたのは、君だよ。ありがとう」


「……体温が無かったらなんだっていうの。どうして、それがわたしの夢に繋がるの?」


ㅤ涼夏が納得いかなさそうに眉を顰めても、セツナが笑みを絶やすことはない。セツナは微笑み、それでいて真剣に、線と線が繋がった推理を紐解いた。


「あのマントを羽織っているならまだしも​──羽織っていない時でさえ、未希には体温が無かった。それに、彼は『探偵になりたい』と真っ当な夢を書いたのに、映画のひとつすら観ていない。チルドレンシアターでは、アンケートボードに記載した映画がそのまま反映されるはずなのに」


ㅤ誰も見ていなくても、セツナだけは未希のアンケートボードを見ていた。記憶が何よりも真実を物語っているし、『職員ならアンケートボードを提出しなくても観客の映画が観られる』と考えれば、全てに合点がいく。


ㅤきっと未希はセツナと同じで、アンケートを提出していない​。それに、もし未希が『職員』であるなら、意識喪失後にトイの元に流れ着いたのがセツナだけだったのも理解出来る。未希が仮にただの観客だったなら、あの場所には未希もいたはずだ。


「……それに、さっきトイが言ってたんだ。管理人と入場チケットは、チルドレンシアターを運営する上での三つの舞台装置の内のふたつ。残るひとつは、涼夏本人……君がいなければ、トイはここを作る気なんて無かったらしい」


ㅤセツナの言葉に、涼夏が僅かに唇を噛んだ。

ㅤトイからは涼夏に面と向かって伝えることがなかったんだろうか。トイは初めから、涼夏のことを誰よりも特別視していたのに​──。



「未希の矛盾と、トイの発言。それを踏まえるに、未希はトイが作った君の映画の『登場人物』だ。そして、未希が抱いていた『探偵になりたい』という夢は、君の夢でもあるんじゃないか?」



ㅤ涼夏の表情に陰が出来た。


​──それ以上話を続けないで。知らないふりをして。子供は残酷な真実に気付いたりしないの。


ㅤ表情が物語る彼女の深淵に、気付かなかった訳じゃない。


「全部俺のこじつけで、間違ってるなら否定してほしい」


ㅤでも。


「……でも、君が死を選ぶ程に全てを諦めることとなった原因があるなら。突き止めたかった何かがあるなら。……それを探り当てるのを、俺に手伝わせてくれないか」


ㅤみっともない申し出だった。

ㅤ格好良さなんてほんの少しも残っていなくて、顔は苦悶に塗れていた。上映中一番彼女の傍にいたのは自分だったはずなのに、彼女が抱える闇に何一つ触れることが出来なかった不甲斐無さが、今になって重く伸し掛かった。


ㅤ苦しそうに、辛そうに、手を差し伸べるセツナ。

ㅤその一点のみを濁りきった双眸で見つめていた涼夏は、同じく表情を強ばらせて憂悶を顕にした。



「​──なんで、そんなこと言うの?」




​──あは。あはは。


ㅤあははは!と、軽快な笑い声が漏れる。

ㅤぷつんと糸が切れたように笑いだした彼女は、一見楽しそうに見えて、光の無い眼をしていた。虚像を観すぎた深淵に自分の姿が映っていて、セツナも思わず身動ぎする。


「そうだよ。未希は、わたしがトイに頼んで作ってもらったお兄ちゃんだよ。本当は椎名未希なんて人存在しないもの。椎名って『中身がない』って意味なんだよ、知ってた?作りもののお兄ちゃんにぴったりでしょう?」


ㅤ涼夏は自慢するみたいに大きく笑って、足元の花々を蹴散らしながらくるくると回る。ターンが終わる頃には、オルゴールの薇が回り切った時のような、虚しく寂しい顔色を見せていた。


よく言えば傍若無人の女優。


悪く言えば無知な少女。


​──『番留涼夏』がそう在った理由を、まだ何者にもなれない少女は、少しずつ話し始めた。



「わたしには、本当は兄じゃなくて妹と弟がいたの。お母さんとお父さんもいた。でも、皆『あの日』にいなくなっちゃった」



ㅤあの日とは何か。

ㅤわざわざ口に出さないで、と寂しげに微笑む彼女は、作り笑いをすることで精一杯のようだった。


「映里ちゃんに優しくしたのは、死んだ妹に似てたから。映画内で好きなものを作る方法を教えたら懐いてきてくれて……かわいかった。でも悲しくなった」


「映里ちゃんはよく遊びに来てくれるし、お兄ちゃんも映画が終わったら傍にいてくれる。でも、たったひとつだけ、わたしが我儘を言っても手に入らないものがあった。……それがあなた、『ダーリン』だよ」



「昔、家族で見た映画で……好きなシーンがあったの。お互いのことをダーリン、ハニーって呼び合う男女が、どれだけ打ちのめされても、最後には海辺で寄り添いあって笑ってた。それを観ながら、『どんな状況下でも愛があれば乗り越えられるんだ』って、お父さんは教えてくれた。それだけは、ちゃんと覚えてる」



「……みんないなくなったのは、その映画を観た翌日だった……」


ㅤ楽しそうに思い出話をしていた少女は、その言葉を皮切りに一切笑わなくなった。


「わたしは家族を殺した犯人に何発も殴られて、まんまと気を失ったよ。でも変に運が良くて、なんとか生き延びた」


「​──でも、目が覚めた時には、わたしにはどんな家族がいたのか思い出せなくなってた。思い出せるのは、最後に観た映画のワンシーンと、ざっくりとした家族構成だけ」


「……病室のテレビのニュースに映った犯人は、わたしが見た犯人とは全くの別人だった。警察官の人達、みんなして推理を間違えたんだろうね。許せなかった……」


ㅤ足元で蹂躙された彼岸花を見下ろしながら、「トイが大人を嫌うのは、わたしが警察官を嫌っているせいなんだよ」と呟く涼夏。その言葉に対して、セツナの脳裏には慰めの言葉ひとつすら浮かばなかった。


ㅤ彼女が求めているのは、そんな生半可な気休めではない。


番留涼夏は続ける。


「記憶喪失で、身体中に出来た傷も重かったわたしは、傷が治るまで入院することになった。お見舞いには、遠い親戚のおばさんとおじさんが来てくれた。わたしの引き取り手になるつもりらしかったけど、なんだか他人行儀だったなあ」


「……お医者様も、最初は優しかったんだ。最初こそわたしの話を聞いてくれたけど、同じ話をいろんなお医者様に何回もしていたら、段々嫌そうな顔になっちゃった。待ってても、死んだ人は帰ってこないんだって」


ばり。


「そうこうしてる間に、知らないおばさんとおじさんに引き取られる日になった。多分あの人達は、わたしの両親が残した財産が欲しかっただけなんだよね。愛なんてない」


ばりばり。


「愛してくれた家族も、友達も、誰だかわからなくなって。顔も思い出せなくて。お医者様も新しい家族も、わたしを愛してはくれなくて。わたしに興味がある人なんか、次第に誰もいなくなって」


ばりばりばり。


「誰からも見てもらえないわたしは誰なの?本当に、番留の苗字を名乗っていいの?どんな声かもわからない人達の苗字を、記憶が失くなる前のわたしにくれた名前を、勝手に使っていいの?頭がおかしくなりそうだった!」


ㅤばりばりばりばり、といった不快な破裂音がして、セツナや涼夏を取り囲む地面が崩れる。


「……そう考えている内に、わたしは病院の屋上に立っていたの」



「​──待て!!危ない!!」



「来ないで、お願い」


ㅤ彼女が語り追えると同時に、広大な花畑は環状の小さな箱庭になる。彼女が歩き進めた一寸先には闇があり、もしそこから落ちてしまったら、トイもセツナも見つけ出せない程の果てしない虚無が広がっていた。



「あの日の真実を突き止めたって、わたしには何も残らないの。何も思い出せないわたしには、ダーリンに置いていかれたわたしには、​」



ㅤふらふらとした足取りで、彼女はヒビ割れた断崖絶壁へと駆け寄る。最期に振り返ったその瞳には、





「​──夢と希望なんかないの」




ㅤ今にも溢れ出しそうな程、大粒の涙が浮かんでいた。






「​──​涼夏!!」


ㅤ体温の籠った手と手が絡み合う。


「離して!!」

ㅤ涼夏が崖の下に落ちる寸前、セツナは間一髪で涼夏の腕にしがみつくことが出来た。全身全霊で追いかけて、やっとの思いでこれだ。未希のように何事もスマートに躱すことが出来る器用さが無い自分に、セツナは歯を食いしばりながら腹を立てた。


ㅤセツナは落ちかけた涼夏の右腕を死ぬ気で掴み、なんとか脚に体重を掛けて持ち堪えている。


ㅤだが、このままもし万が一セツナの両腕が彼女の右腕から離れてしまったら、崖下に落ちてしまったら、彼女の命は無い。セツナの脚が、腕が、身体の全てが、今この瞬間は一本の命綱となっている。


「わたしは女優になるの!わたしの舞台の邪魔をしないで、触れないで!」


ㅤ空いた手で両腕を引っ掻かれ、力が緩みそうになるのを全力で抑える。彼女がなんと叫ぼうと、離す気は無い。


​──ここで彼女の手を離したら、一生後悔する。


ㅤ理知的なセツナにしては珍しく湧き出た根拠の無い確証が、今この瞬間だけは唯一の原動力となっていた。


「わたしの映画の登場人物にすらなってくれないあなたに、わたしに触る権利なんてない……」


ㅤぽろぽろと泣きじゃくる少女の涙を、ぬいぐるみの姿から解放されても尚拭い切ることが出来ない。底知れない無力感と全身に滾る汗が邪魔で、狂ってしまいそうだ。


ㅤでも、今狂いたいのは涼夏の方だ。


ㅤどうしようもない人生に泣いて、喚いて、自殺願望が溢れている涼夏に、上手く言葉をかけれるかは自信が無い。それでも、今は涼夏の身体を引き上げたい一心だった。


ㅤあの『約束』を果たすためには、こんなところで躓いていられない。



「あなたはアダムでも、ダーリンでもない!!わたしの居場所を壊す悪魔!!全部あなたのせい、大嫌い!!あなたなんて来なければ、わたしは今日も女優でいれた!!探偵になりたい気持ちなんか、捨てたままでいられた!!」



「……嫌いでもいいよ。嫌いでもいいから、俺の話を聞いてくれ」



「聞きたくない!離してっ!!」


ㅤ散々腕を引っ掻かれ、手の甲には血が滲む。

ㅤ全身の汗が噴き出して、普段使わない筋肉までもを全て彼女のために使って、体力には限界が近かった。息が荒れて、見窄らしい吐息が漏れて、映画のヒロインを救うヒーローみたいに気品のある振る舞いは出来なかった。



『……彼女に現実を見るように説得できるのは、君しかいない』


​──まだ限界じゃない。やれる。


ㅤ心に木霊した使命を反芻して、セツナは狡賢く歯を見せてにっと笑う。



「なあ。なんであの時、デートスポットに夏祭りと水族館とショッピングモールを選んだんだ?俺を脅迫するための刃物を用意したかったなら、他にも色々あっただろ」



「……わたしは、あなたに『ダーリン』でいてほしかった!楽園の海でわたしと寄り添ってくれるアダムがほしかった。だから、あなたが来るまで、あなたのためのデートプランを考えた。でも、あなたは、ダーリンにはなってくれなかったじゃない……!!」


「そっか。俺以外の奴にも全く同じデートプランを寄越してた訳じゃないんだな、安心した」


「​……?」


ㅤセツナの意を汲み取れない涼夏は、頬を伝う涙を拭うこともせずにきょとんとしてセツナの表情を見上げた。頭上で涼夏の手を引き上げようとしているセツナが笑っていることを、不思議に思ったのかもしれない。


ㅤ今なら隙がある。


ㅤ畳み掛けるなら、今しかない。



「俺は多分君の理想とは掛け離れてるし、動揺すると根も葉もないことを怒鳴っちゃうし、そのせいで弟ともすぐに喧嘩になる捻くれ者だ。自分の夢を貫く勇気も無くて、今日まで両親が望むように生きようとしてた卑怯な奴だ」


ㅤ突然セツナが汗の滲む笑顔のまま自分自身を罵倒し始めて、涼夏は更に訳が分からなそうに目に涙を浮かべた。困惑を思わせる隙だらけの表情に、セツナは絶好のチャンスを思い知る。



「そんな最低なやつでも、本当〜にいいんだな?君がいいならいいぞ?ダーリンになってやっても。ただ、俺は泳げないから水が嫌いだし、海辺で寄り添うことにロマンは感じない。そもそも海より山派だしな!」


「そんなの、ダーリンじゃない」


「だろ。じゃあ、やっぱり、俺はダーリンにはなれないよ」


ㅤ苦しいはずなのに、辛いはずなのに、今すぐ楽になりたいはずなのに、身を呈して少女の命綱となった少年は笑う。


ㅤトイに託された希望を信じているからだ。今までの自分が築き上げた推理を無に返す訳にはいかないと、少年の夢が叫んでいる。


ㅤ涼夏にはない夢と希望が、オレにはある。

ㅤなら、それを半分に分けよう。

ㅤ一緒に生きよう。


ㅤそう口に出せる勇気が、千望セツナには充分に備わっていた。


「さっきからアダムがどうこうって言うけど、アダムとイブは最後にどうしたか知ってるか。善悪の知識の実を食べて、楽園から追い出されたんだ」


「……楽園、から……」


「ここは楽園だ。そしてこの楽園の外には、辛いことも楽しいこともある現実が待ってる」


「何を言いたいの……一緒に楽園から追放されようとでも言うつもり?あなたと違って、わたしには愛してくれる人がいないの。それに、ここには全国の子供が迷い込んでるから……ここから出たとして、あなたがわたしを見つけられるかもわからない。どこの病院にいるかもわかりっこないんだから」


ㅤ不安に滲む彼女の涙を、今なら拭える。頭を撫でられる。抱き締められる。


ㅤぬいぐるみの姿だった時に抱いた無念が全て晴れるなら、それは彼女の身体を引き上げる最大の力となった。



「​──見つけるよ」




「!!」

ㅤ一気に引き上げられて、二人の身体がどさっと地に落ちる。力を振り絞ったことで、全身の骨や筋肉が悲鳴を上げた。手がびりびりと痺れて、日常的に運動しておくべきだったな、と少し思う。


ㅤ再び花畑の地を踏むことが出来た少女の向かいに座り直し、セツナは涼夏の涙を指で掬いとる。例え今にも消え入りそうな声で彼女が啜り泣いても、消えさせる気は無い。



「俺は、君の笑顔が好きだ。君の本心からの笑みが見たいから、どんなに離れた場所に君がいても、必ず君を迎えに行く」



「簡単に……言わないでよ……」



「簡単だよ。女の子の顔をすぐ忘れたりしたら、未希に怒られそうだしな……」

ㅤ泣き散らしたせいで涙が枯れた涼夏を見て微笑んでから、膝に付いた土を払う。そのまま立ち上がれば、無様で見るに堪えないヒーローの出来上がりだ。


ㅤ白かった制服には茶色の土埃と赤い花弁が散って、手の甲は傷だらけ。顔面も未希程整っている訳ではないし、人混みに溶け入りそうなくらい凡庸な容姿。


ㅤ世界で一番情けないヒーローが、ヒロインに手を差し伸べる。


ㅤ言わばそれは、ラブロマンス映画のラストシーンだ。


「……どうして、わたしにそんな言葉をかけるの?わたしは一回あなたを殺したんだよ?あなたは、わたしを愛さなくたっていいの。このまま突き落として、わたしを殺しても許されるの」


「そんな許しは要らないよ。俺が欲しいのは、ダーリンとかいう不特定多数に向けられるものじゃなくて、君が俺だけに向けてくれる笑顔だ」


ㅤここまで来るのに、いろんな思いをしてきた。


ㅤ最初はチルドレンシアターに対して半信半疑だったし、弟には気を遣わせて申し訳なかった。態度の悪いキノコには腹を立てたし、味のしないポップコーンを美味しそうに頬張る未希を不気味に思った。トイの挙動のひとつひとつが不思議で仕方無かったし、怖かった。


ㅤでも、セツナが抱いたそれら全ての負の感情を一瞬にして葬ったのは、涼夏がデートの最後に見せてくれた笑顔だった。


ㅤあの笑顔をもう一度見るために、生と死の狭間でなんとか彼女を引き戻すことが出来た。

ㅤ彼女や周りがなんと言おうと、千望セツナという少年は、とうの昔に番留涼夏に惚れている。




「君はイブだ。俺は君を笑わせたい。君が突き止めたい真実を、一緒に探したい。……俺を、君のアダムにしてくれないか?」



「​──​──っ」


ㅤ掠れそうな声が漏れた。

ㅤ世界の全てにヒビが割れて、涼夏とセツナの間に妨害が刻まれる。あと数秒彼女が選択を濁せば、瞬く間に世界は砕け散るだろう。


ㅤどんな状況下でも、愛があれば乗り越えられるなら。

ㅤ世界の亀裂が穴となり、無窮の宇宙を生む寸前ですら、セツナは愛を込めて笑えた。




「涼夏──俺と、外の世界へデートに行こう」




ㅤイブはアダムの手を取った。

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