最終話ㅤ大人になりたい

ㅤ時間が無い。



「幼い方から先に行くんだ!列を正してる時間は無いから、急げ!!こらそこ、喧嘩するな!」


ㅤ出来る限りの映画を強制的に上映終了させた未希は、意識を取り戻した子供達を廊下からエレベーターへと移動させていた。何十人も同時には歩けない狭い廊下には人混みが生まれ、エレベーター前には何人もの子供が自分が先に乗ろうと集い、諍いを起こしている。


ㅤ誰かに足を踏まれたと喚く子供もいれば、まだ観終わってないのにと未だに苦言を呈する呑気な子供もいる。

ㅤ幼児の前に横入りして自分の安全を優先する高校生、エレベーターが早く来ないかと地団駄を踏む中学生、映画の感想を言い合って笑い合う小学生。

ㅤその誰もが、危機感が足りていない。子供だからだ。


ㅤ玄関フロアに繋がるエレベーターの目前は、とうの昔に罵詈雑言が飛び交う地獄絵図と化していた。




「……映里ちゃん、弱虫、行かないのか?早くしないと出られなくなるぞ」


ㅤようやくエレベーター前に並ぶ子供の人数が落ち着いてきた時、未希は列から外れて壁に凭れかかっている二人に声を掛けた。落ち着かないのか髪を弄りながらシアター4がある方向を目で追っているのが映里で、その隣で何かを考え込むようにぼうっと立っているのが明日真だ。


ㅤ映里は数秒おいてからやっと呼び掛けに気付いたのか、はっとして両手をわたわたと小さく暴れさせる。


「セツナさんが気がかりで……。彼の無事を確認できたら、すぐに出ます」


「そっか。あんたは?」

ㅤ未希は映里には気配りをしても、容姿が同年代に近い明日真には容赦が無い。遠慮のひとつすらせずに未希が明日真の頬をつつけば、明日真は静かに流し目で見てきた。



「……お前に、聞きたいことがある」


ㅤ出会ったばかりの頃のような怯えた口振りではない。兄である真人に似た目付きで見つめられ、未希は面倒臭そうに頬を掻いた。


ㅤ明日真が何を聞きたいのかは、大体想像が付く​──。

「座って話すか。なるべく簡単にまとめろ」

ㅤもう廊下に映里と明日真以外の子供が残っていないのを確認してから、念の為廊下の端へと腰を下ろす。『最後の機会だから聞きたいことは聞いておけ』と言わんばかりに未希が明日真を見上げれば、明日真も同じくして隣に腰を下ろした。それと同時に、一人だけ立つのも無粋かと考えた映里も、未希の隣に大人しく座る。


ㅤもう映画の中から脱出したのに『時間が無い』と未希が言ったことを気掛かりに思い、悪い予感でも働いたのか、明日真はいつになく単刀直入に話し始める。最早、映里が隣で話を聞いていることはほんの少しも気にしていなかった。


湊明日真は、いつだって兄妹のことを考えている。


「……僕は、自殺した兄​──湊真人の死を追って、今日ここに来た。それで、映画を観ている内に色々わかっていくこともあって……家に帰るケジメも付いた、けど」


ㅤ言葉の節々に間を置きながらも、明日真は未希に向けた視線を他へと逸らさなかった。


ㅤ復讐したくなる程心に闇が覆い被さったのに、見事その闇を振り払い映画館から脱出することを決めた明日真。最初こそ弱虫だなんだと罵ったけど、その勇敢さだけは真人と似たものがあると思う。


「けど?」

ㅤ副管理人は笑う。

ㅤ試すように微笑まれたからか、未希の笑い方に今までとは違う無機質さを覚えたからか、明日真は後込みした。トイにも蛇にも言えることだけど、この映画館にいる職員は皆人形のように笑うから、明日真としては心臓に悪い。


ㅤでも、今を逃したら〝当事者〟に何かを聞ける機会は二度とやって来ない。この世界はまだ映画の中みたいにヒビ割れてはいないけど、心のどこかでそんな気がした。


「……お前、副管理人で、あの女の兄貴なんだろ?なら、僕の兄貴がここに来た時に、あの女とどんな会話をしていたのか知らないか。もし知ってるなら、教えてほしい……」


ㅤ湊明日真の懇願はなんだか惨めで、見てるこっちが情けなくなるくらい脆弱だ。

ㅤけど、前髪の隙間から覗く瞳は、紛れもなく真人と同じもので​──、


「​兄貴の死を引き摺らずに生きることは出来ない。だから、せめて、兄貴がどんな夢を観ていたのかは知りたいんだ」


「…………」

ㅤチルドレンシアターに来たことを機に死んだ兄が、死ぬ前に鑑賞した映画についてを知りたい。そういった要望を出されるとは思っていなかったのか、未希の笑顔が微かに固まった。


ㅤ『教師』になりたいはずなのに、何故か『研究者』になる映画を観た兄の死の真相。それだけを追い求めてきた明日真の気迫に負けたのか、未希は仕方無さそうに息を吐く。


「あんたの兄は良い奴だったよ。他人に頼るのがチョ〜下手だし、変なとこ不器用だけどさ」


「!やっぱり、兄貴について何か​──」

ㅤ椎名未希は、湊真人について何かを知っている。

ㅤそう思わせた未希の口振りに明日真が身を乗り出す反面、未希は至極落ち着いた様子で明日真を見た。明日真の身に何かを重ねているかのような、ぼんやりとした目付きだった。


ㅤ未希は目を閉じて、湊真人​──妹にとっての『一人目のダーリン』について追想する。瞼の裏に浮かぶのは、セツナよりもやや整った顔立ちで、優しくて、弱かった少年だ。


「オレも涼夏も、あいつのことは嫌いじゃないし、あいつの『チルドレンシアターから出る』って選択を間違ってるとは思わない。ま、涼夏の場合、出ていかないでほしいって気持ちもあったんだろうけどさ」


ㅤ未希はトイによって作られた番留涼夏の兄だ。

ㅤ涼夏の心情は誰よりもわかっている。チルドレンシアターが出来た初日、涼夏は真人と何をして、何を想い、何故置いていかれたのか​──。


「​──全部話すと長くなるから、ざっくりとだけ教えてやろう。なんてったって、あんたの兄貴の話だもんな」


ㅤ未希は明日真に微笑を返して頭を撫でると、『あの日』の出来事を話し始めた。



ㅤ湊真人は、何より家族を大事にする子供だった。


ㅤアンケートボードには自分がなりたい職業じゃなくて収入の多い職業を書いて、自分が夢を叶えることで少しでも家族に貢献しようとしていた。まあ、折角夢が叶うならそっちの方がいいんだろうけど​──チルドレンシアターの性質を念頭に入れるのを忘れてたんだろうな。


ㅤチルドレンシアターでは、夢を叶えた場合の映画を観せてくれる訳じゃない。どうしたら夢が叶うのか、映画の中で同じ展開を何度も繰り返して、夢を叶える方法を見つけないといけないんだ。

ㅤそうしないと、この映画館からは出られない。


ㅤ夢が夢だからそれを叶える難易度も高くて、何百何千と繰り返す内に真人は精神に異常をきたし始めた。それを救って、自分の映画に真人を呼んだのが涼夏だ。


ㅤトイが言うには、涼夏の持つ夢と希望は膨大で、そこらの常人とは格が違うらしい。だから、涼夏はそれを利用して、真人が研究者になる映画を観せてやった。


ㅤ恩を着せたかったんだろうな。でも、逆効果だった。

ㅤ研究者になる映画をやっとの思いで観れた真人は、涼夏の言う『デート』に同行した後、夢を叶えるためにすぐに帰ろうとした。そんで、それを拒否した涼夏と激しい言い争いになって。


​ㅤ最終的には、涼夏とは喧嘩別れしたまま帰っていったよ。


ㅤあいつが教師じゃなくて研究者を選んだのは自分の意思だったから、てっきり帰宅した後はすぐに夢を叶えてるもんだと思ってた。まさか、自分で死を選んでいたなんてな。


ㅤ最後の最後まで、家族思いな奴だった​──。


「……そうか。涼夏って奴が誑かしたんじゃなかったんだ」

「オレの妹にめっちゃくちゃ失礼だな!?」

ㅤ未希が一連の顛末を話し終えると、明日真は俯いて黙考する。


​──全ては兄が選んだことで、涼夏は映画を観せたことくらいしか兄に影響を与えていなかった。恐らく未希の言葉には未希の主観も入っているんだろうけど、少なくともあの蛇の甘言よりは信用できる。


「あいつは我儘だし、オレが理想の兄貴じゃないからって他人役を演じるように言ってくるし、自分の映画に引き籠もってばっかだったけど……悪い子じゃないよ。出て行こうとする真人を、強引に引き止めたりはしなかったから」


「……そうか」

ㅤいつの間にか、家族以外の全てを悪者にしようとしていた。自分の死を追って錯乱した弟が殺人を犯すなんて、真人は一番嫌がることだとわかっていたはずなのに。


「聞けて良かった。ようやく、兄貴の死に向かい合える気がする」


ㅤ零れかけた涙を拭い、明日真は下手くそな微笑みを未希に見せる。要望を叶え終えた未希は満足気に立ち上がると、明日真には背中を見せたまま静かに呟いた。


「……オレがもし外に出られるなら……親友になりたいくらい、良い奴だった」


「……!」

ㅤ哀愁漂う背中がそれ以上の詮索を求めていないように思えて、明日真は言葉に詰まる。そのまま狼狽えてろくに声を掛けられずにいると、未希は未希らしい快活な笑みを携え、元気に振り返った。


「って、話しても仕方ねーわな。何やらシアター4が騒がしいから、迎えに行くぞ」

ㅤ握った拳の親指だけを天に上げて、シアター4が位置する方角を指差す未希。その仕草を見て、未希と映里は眼をぱちくりと見開いたままお互いの顔を見合わせる。


「迎えに……ですか?」

「誰を​──?」

ㅤ後に続く二人に振り返らないまま、未希は足早に廊下を歩き進める。その足取りは急いでいるようにも心を躍らせているようにも見えて、未希と映里は疑問符を脳裏に浮かべながら大人しく着いていった。


ㅤその一方で、前方を歩く未希には充足した笑みが零れている。涼夏の感覚を共有している未希には、今涼夏がどこにいて、どんな感情に包まれているのかが明白だった。


「セツナだよ。あいつ、全部成し遂げて帰ってきやがった」


ㅤ映里の表情がぱあっと明るくなる。

ㅤ期待以上の功績を残したセツナを出迎えるため、一同はシアター4に再び集結した。




​※ㅤ※ㅤ※



どんな映画で聞いた言葉より、胸が温かくなった。

キャンディみたいに甘くは無いけど、溶けたりしないで、ずっと耳に残っていた。


この感情に名前なんて要らない。

わたしはきっと、この瞬間のために生きていた。




​※ㅤ※ㅤ※




ㅤ全てが崩れ落ちて、視界が明るくなる。

ㅤ崩壊した世界から意識が逃れ、セツナはシアター内で目を覚ました。


ㅤシアター内には既にセツナと涼夏以外の観客は数人程度しか残っておらず、隣にいたはずの未希達の姿も見当たらない。スクリーンには彩度の高いノイズがかかっていて、未だ光の灯らない照明がその不気味さを増強させている。


ㅤやがて、セツナと涼夏が目を覚まして数秒後、シアター内に耳鳴りのような甲高い雑音が鳴り響いた。強引かつ強制的に映画の上映終了を促した音が鳴り止めば、スクリーンは忽ち暗闇を映しだし、シアター内には明かりが灯る。


​──そして、魔法が解けたように『彼』はスクリーンの中から飛び出してきた。


「トイ!!」


ㅤ最前列からスクリーンまでの空いたスペースに、片腕と片脚を失ったトイがガシャンと音を立てて倒れ込む。涼夏とセツナが駆け寄るも、反応は無い。トイの身体の節々から零れ落ちた黒の液体が、カーペットを汚していた。


「​──​──っ」


ㅤセツナは急いでトイの身体を抱え上げると、最前列の中心の椅子に座らせる。人間のような息遣いも体温も無いからこそ、壊れて動かなくなった人形のように見えて恐ろしかった。


ㅤ涼夏がトイの頬に触れれば、トイは眠りから覚めるように薄目を開ける。


「……よかっ、た。一緒に来れたんだ」


「トイ……、わたし……」


「いいよ。僕は、君の未来を応援したい。何も言わなくていい、今晩は色々あって疲れたろ」

ㅤもう涼夏の頭を撫でる力も残っていないのか、トイは朧気に笑いかけるだけに行動を留めた。


ㅤ涼夏は懐からハンカチを取り出して、トイの頬や瞳を伝う液体を拭う。穢れを取り除かれたトイの瞳には再び光が宿り、セツナの姿だけを捉えている。



「​──君の読みは大抵当たっていたから、答え合わせする必要もないかもしれないな。チルドレンシアターは、よく言えば夢叶う映画館。悪く言えば、夢が叶うまで出られない監禁施設さ」


「監禁施設……」


「まあ、今回ばかりは特殊なケースになるけどね。皆、夢を叶える前に出ていっちゃったみたいだし」

ㅤトイは苦々しい笑みを見せてから咳込むと、口から流れ出た液体が襟元を汚した。カラフルなピエロの洋服に、大きな黒い染みが出来てしまっている。


ㅤ数刻が経ち、僅かな諦念を瞳に映し始めたトイは、セツナと目を合わせるのをやめた。ただ襟元の汚れだけを見つめて、俯くように顔を下げている。まるで、目前の圧倒的な光から目を逸らしているかのように。


「……夢と希望が詰まったチケットがなければ、僕は生きられない。あの広い宇宙で、また大きな夢と希望が現れるまで意識もなく彷徨うのさ」


ㅤトイの口角から液体が滴ると、足元にしゃがんだ涼夏が急いでそれを拭う。しかし、涼夏の持つハンカチの布地が黒に染まるのを恐れたのか、トイは微かに首を横に振った。親切心の拒絶をしてでも、涼夏には気を遣わせたくなかったのかもしれない。


ㅤ三人が黙れば、シアター内には静寂だけが反響する。

ㅤ空間が持て余され、『映画』を観て楽しんでもらうはずだった二人には悲しげに表情を曇らされ、自分の身体の状態は既に風前の灯火​──。トイにとっては屈辱的で、痛烈極まりない現状だ。最早トイには、笑うことしか許されなかった。



「でも……こうなるのも、ざまあないね。僕は他の叶え方を知らないんだ。君達の夢を、強引に叶えることしかできない」



ㅤ壊れた玩具は自暴自棄に笑う。

ㅤかと思えば、目の前の少年を羨むように唇を引き攣らせ、セツナに向かって乞うように顔を歪ませた。



「なあ……教えてくれよ。夢って、どう叶えるのが正解なんだ?僕は、どうしたら君みたいになれた?」


ㅤセツナは自己肯定感が高い訳じゃない。

ㅤ間違っていることを間違っていると素直に声に出せるだけだ。トイのように幼児の相手を小器用に熟すことも出来ないし、未希のように誰にでも気軽に話しかけたりも出来ない。羨ましがられるような長所はひとつも無い。


ㅤでも、今のトイはセツナの謙遜や自己否定を望んでいる訳じゃない。トイが求めているのは〝答え〟だけなんだと、セツナは苦悶の中で理解する。


ㅤ答え合わせの時間だ。



「​──叶え方は、ひとつじゃないと思う。夢の数だけ叶え方があるんだから」



ㅤトイが座り、自分が立っているのはなんだか上下関係が出来ているようで嫌だったから、セツナも涼夏の隣に膝を付いて目線を合わせた。セツナの答えを聞いて丸くなったトイの瞳が、ここからならよく見えた。

ㅤ今なら落ち着いて話すことが出来る。



「もしかしたら、違うのかもしれない。……俺はまだ子供だから、偉そうなことは言えないし」


ㅤ制服の裾を使い、トイの頬を伝う液体を拭う。

ㅤ今はぬいぐるみの姿では無いから、例えトイがそれを拒絶しても、自分がしたいように出来るのが嬉しかった。


ㅤセツナの瞳には迷いなき勇気が宿る。

ㅤもう、自分の夢を偽ったりしない。



「……でも、何になりたくても、何を成し遂げたくても、俺は俺の夢を叶えてやれるのは自分でありたいと思う。誰かに馬鹿にされても、俺のことがわかるのは俺しかいないから」



ㅤその言葉は、未来への決意表明となった。



「​──俺は、自分の夢を信じられる大人になりたい」


「​──​──」

ㅤセツナの言葉に、トイは声を失った。

ㅤ突如映画館に足を踏み入れた巨大な魁星の眩しさを宛てがわれているようで、声が出ない。


ㅤトイの目の前にセツナが顕にした夢と希望が、トイの全てを否定した。あってはいけない夢の叶え方を、尽く玉砕した。



「……それもまた、ひとつの夢か」


ㅤ間違いを思い知らされて、道化が笑う。

ㅤただ一人の少女を救いたかっただけなのに、どうして僕と君ではこうも末路が違うのか​──。身を焦がすような羨望を、その表情が語っていた。



「早く行きなよ、もうすぐチルドレンシアターが崩れてしまう。僕は人間と一緒に閉じ込められる趣味はないよ」


「いてっっ」

ㅤトイの片足で強引に蹴られ、セツナの体はごろりと後転する。答え合わせに真剣になりすぎて気付かなかったけど、今開けた視界で見てみれば、シアターの入口付近に未希達一同が立っていた。


「おい、いつまで話してんだ!」

「セツナさん、涼夏姉さん、早く!」


「今行く!」

ㅤキノコボーイと映里に急かされ、セツナは急いで入口に走る。ただでさえ先程体力を消耗したのに、無意味な全力疾走をしたせいでゼェゼェと息が切れた。出会い頭のみっともない有様を見て、未希がけらけらと笑う。


「セツナ。これを羽織っていけ。お守り代わりだ」


ㅤ未希は自分が借りていたマントを脱ぐと、セツナに羽織らせて景気づけに肩を叩いた。白い服地には血液が染み込んでおり、セツナはギョッと目を見開く。


「お守りにしては物騒だな……!?ありがとう」


「よし、行くぞ!ついてこい兄弟!」


「どわっちょっと待って!!と、トイ!色々あったけど、ありがとう​──!涼夏も早く!」


ㅤ最前列に声を張り上げながらも、セツナは未希に手を引かれて嵐のように去っていった。大幅に身体を動かしたりは出来ないから、トイにはその声を聴くことしか出来なかったものの、悲哀のひとつすら残らない別れ方に小さく笑う。


​──最後の最後まで騒がしくて、変で、優しい子だ。


ㅤ彼等の足音がドタバタと遠ざかるのを確認して、トイは目を閉じる。数十秒が経過し、再び無音が漂うと、ゆっくりと目を開いた。


「……二人きりだし、最後に秘密の話をしようか。君以外の誰にも話していない話だ」


「秘密の話……?」

ㅤ深刻な物言いに、涼夏は不安げに胸に手を当てて眉を顰める。トイは『そんなに不安がらないで』と言いたげに優しく微笑んでから、辺りを見回した。


ㅤ映画の中から子供は椅子に座り、死んだように動かない。劇場内スタッフの着ぐるみ達も電池を失ったように床に倒れ、各々の役目を失っている。


「元はと言えば、ここが崩壊するに当たったのは、蛇が皆のチケットを破り裂いたからだ。そのせいで映画館の運営における動力が薄れ、もう映画の中に入る余力すらここには残っていない」


ㅤもう映画は観られない。

ㅤもう甘いキャンディは作られない。

ㅤもう観客は悪夢の中から戻ってこない。


ㅤ仕方のないことだとはいえ、最後の一点だけを知れば、あの子セツナはまた異論を申してくるだろう。だからこそ、今際の時でも対処法を示さなければ、彼に二度と顔向けが出来ない。


「でも……このままじゃ、君は罪人になってしまうからさ。未だ目が覚めていない子供達がこのままだと衰弱死するなんて事実、セツナは知らないけど……君は知っているし、その重さもわかるはずだ」

ㅤ未希が精力を尽くしてくれたおかげで、劇場内に残った子供の数は半数以下となった。しかし、まだ足りない。


​──全員救うには、最終手段を使うしかない。




「……実は、一枚だけ残ってるんだ。破れていない、綺麗なチケットが」


「​──!」

ㅤトイは空いた手で自身の外套のポケットを探ると、一枚のチケットを取り出した。切れ目なんてひとつも入っていない、傷を知らないラストリゾートだ。



「これは君の夢と希望。これを破れば、チルドレンシアターは今度こそ本当の意味で崩壊し……

ㅤこの手段を使うしか、他に方法は残されていない。

ㅤ映画の最終局面を悟ったトイはチケットを手渡すと、涼夏に握り締めさせた。


「そうしたら、時計の針は。君は病院で目を覚まし、認識阻害のマントを被っているセツナと君以外には、何の記憶も残らない」


「……それって、トイはどうなるの?」


「さっきも言ったでしょ。僕はこの映画館と一心同体……この映画館が潰えたら、無限の宇宙でまた新たな夢と希望を見つけるまで揺蕩うだけだ」

ㅤあの暗黒の宇宙を、誰もいない孤独を、涼夏だけは体験している。涼夏だけは、その言葉の重みがわかる。


ㅤ涼夏からしたら、自分に居場所をくれた恩人を殺せと言っているようなものだ。すぐに答えを出せないのも無理はない。


​──でも、きっと涼夏はチケットを破ることが出来る。


ㅤトイは心のどこかで確信していた。

ㅤチケットを破れば全ての犠牲が解放され、誰も苦しまずに済む。逆に破らずに出ていけば残った観客は一人残らず衰弱死するのだし、チケットを破ることが最善策であるのは涼夏にもわかるはずだ。


「セツナに言わないのは、僕の我儘ね。僕から君を奪ったんだから、ちょっとくらい困ったらいい」


ㅤ力を振り絞って身体を起こし、涼夏の頭をぽんぽんと撫でる。


​──大丈夫。チケットを破るということは『最善策を選んだ』というだけで、恩人を殺すことにはならないよ。


ㅤその思考が通じたのか、涼夏は寂しげに両手でチケットを握った。駄々を捏ねず、我儘は言わず、素直に聞き入れてくれて良かったと思う。


ㅤ涼夏は沈んだ表情で立ち上がると、トイに椅子の背もたれに寄りかからせて、襟元に付着した液体を拭いた。何かを考え込むような視線で見つめられて、トイが軽く首を傾げると、


「トイは、あの人のことが嫌い?」


ㅤ涼夏は想定外の言葉を口にする。

ㅤ思わず噴き出しそうになるのを堪えて咳き込むのが精一杯で、何故そんなことを聞くのかとは問えなかった。


「​……あの子は強い子だ。到底敵わないよ……現に、あの子は君の手を温めてみせたんだからさ」


ㅤどんな映画も上映出来るトイでも、手を温めるという行為は出来ない。未希もトイも成し遂げられないことを、セツナだけは軽々と成し遂げられるのだから、その時点で勝敗が決まっているとも同然だった。


​──僕には出来ない分も、これからはあの子が涼夏の手を温めてくれたらいいな。


「ここから出たら……嬉しかったこと、悲しかったこと、気になったことはすべて、あの子に共有してみてごらん。あの子は真面目だから全て受け止めてくれるだろうし、君もあの子のことを受け止めてあげてほしい」


「…………わかった。一緒に、がんばる」


ㅤ小さな覚悟を背負った涼夏の前髪を整えてから、トイは精一杯の笑顔を作る。観客で、契約者で、想い人だった少女の門出を祝わない訳にはいかない。



「さあ、行っておいで。エレベーターに入る瞬間にチケットを破り、最終話を終えるんだ」


ㅤ片手を使って宇宙柄のマントを脱ぎ、外套代わりに涼夏に被らせる。セツナのものと同じ効果があるトイのマントを涼夏が羽織れば、時間が巻き戻った後も、チルドレンシアターでの記憶は残り続ける。その記憶を頼りにまた二人が世界のどこかで巡り合ってくれたなら、それが本望だ。


ㅤどんなに名作の映画も、どれだけ印象に残った映画も、時が経てば記憶からは薄れてしまう。何十年も何百年も全ての人々の記憶に刻まれる映画なんて、この世界には存在しない。


​──きっと、涼夏もいつかは今日の出来事を忘れてしまう。



ㅤそれでもいい。

ㅤ彼女が幸せになれるなら。


「​……トイは、来ないの?」


ㅤマントのボタンを留めた涼夏が、名残惜しげに聞いてきた。今まではどんな我儘も聞いて甘やかしてきたけど、今のトイには、その答えを偽ることは出来ない。


「行けないよ。僕は人間じゃないからね。それに、」


ㅤたった一人の少女のために作られた、たった一人の道化師が微笑む。



「​──​君が観るべきは、管理人じゃない。人生だよ」



「…………」

ㅤその言葉を皮切りに、涼夏は現実を直視する一歩をやっと踏み出せたのか、手にした切り札をぎゅっと握った。


ㅤ最終手段を成せるのは、この映画館をトイに作らせた張本人である涼夏しかいない。その事実を刮目し、涼夏はトイから数歩下がって頭を下げる。


「……トイ。映画、どれも面白かった」


ㅤそれは、トイが一番聞きたかった言葉だった。


「わたし、自分の夢とか、本当はどうしたかったのかとか、まだよくわからないから……見つけてくる。もしいつかまた会えたら、わたしがどんな大人になったのか聞いてね。二時間じゃ足りないくらい、長話になると思う」


ㅤ顔を上げた涼夏が笑いかけてくれて、トイも釣られて笑顔になった。どちらも作り笑いではなく、心からの笑顔だ。



「​──ありがとう。行ってきます」


ㅤ涼夏は受け取ったマントをふわりと翻し、自分の使命を果たすために歩き始めた。


「​──さようなら。行ってらっしゃい」


ㅤ彼女が使命を果たすところを、特等席で見届けられる。

ㅤそれだけで、トイはこの先自分がどうなろうと憂いはしなかった。


ㅤ涼夏の足音が遠ざかり、トイに話しかける者は誰一人いなくなる。数分が経てば、周囲を取り巻く劇場は、ゆっくりと白の泡沫に溶けていく。


ㅤ映画が終わる。

ㅤ夢が醒める。

ㅤ子供達の理想郷は。

ㅤ現実から逃れた楽園は。


​ㅤチルドレンシアターは、跡形もなく消え失せていった。

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