第8話ㅤ行ってきます

崩壊した地面は音を立てて崩れ、セツナを抱いた映里も真っ逆さまに落ちていった。


「わぁああっ!!」


ㅤ先程まであったはずの平穏な世界が、どんどんと遠くなっていく。暗く底の見えない穴の中を落ちていくその感覚は、いつか童話で見たワンシーンと合致する。


ㅤ穴の中の全面を覆うのは数え知れない小さなスクリーンで、そのどれもが画面にヒビが入っていた。ノイズがかかり何も見えないものもあれば、眩しく点滅して途端に暗闇を映しだすものもある。まともな映画を映しだすものは、何一つ残っていない。


「え、映里さん!ここどこかわかる!?」

「わかりません……!!こんな演出、見た事ないです!」

ㅤ映里は離さないようにとセツナの身体をぎゅっと抱きしめるも、その表情には不安が滲んでいた。


ㅤ見渡す限り無数のスクリーンしかなく、着地地点のひとつすら見当たらない大きな空洞。もしいつか底が見えたとしても、落下した衝撃で二人共死亡する可能性が高​く、助かる見込みはない。


ㅤどうしたら、この穴から脱出できる?

ㅤせめて、映里だけでも助けたい。

ㅤあの魔法のマントがあれば​──。


ㅤ穴の奥に落ちていけばいく程、スクリーンの数も増していく。深度が高まると、壁を伝うスクリーンの中から子供観客達の悲鳴が聞こえだした。


「誰かあ……!!痛い、痛いよおお」


ㅤどこかの『映画』を観ている子供が泣いている。

ㅤ嗚咽混じりのその声は、聞くに絶えない絶叫に変わっていった。


「殺してやる!!殺してやる!!」


ㅤどこかの『映画』を観ている子供が殺意に塗れている。

ㅤ許せないと喚き散らし、血飛沫が散る音と共にひとつのスクリーンが暗転した。


「アンタのせいで……」


ㅤどこかの『映画』を観ている子供が怒りに満ちている。

ㅤ幼い心には荷が重い静かな怒りは、やがて発狂と化していく。



やめて。助けて。笑わないで。殺さないで。羨ましい。腹が立つ。死にたくない。行きたくない。痛い。苦しい。辛い。誰か傍にいて。嫌だ。怖いよ。死なせて。死ね。殺す。呪ってやる。熱い。寒い。寂しい。



ㅤ数々の絶望が、視界の全てから流れ出していた。


「……子供が泣いてる声がする……」


「まるで悪夢ですね」

ㅤ耳を塞ぎたくなる程の悲鳴と憎悪が聴覚を覆って、此方まで呼吸がしづらくなった。夢と希望なんてどこにもない、どうにもならない負の感情が渦巻いた長い穴を、下へ下へと落ちていくことしかできなかった。


ㅤ映里は口調こそ賢い子供のようだけど、実年齢はセツナよりいくつか年下だ。それに、セツナとは違い、こんな状況下でも離さまいと固く抱き締めてくれる相手が彼女にはいない。


ㅤ精神が汚染されかねないこの世界で、映里はそろそろ限界だとでも言うようにその顔を顰める。その頭を撫でることも、耳に手を当ててやることも出来ない歯痒さに、セツナも目を伏せた。



ㅤその時だ。




「ぅああぁぁぁあああああ!!!」



「​──!!」

ㅤ視界を埋めるどこかのスクリーンから、鼓膜を突き破りそうな程大きな絶叫が聞こえてきた。


ㅤそして、その声量に驚いた映里が、セツナの意識が溶け込んだぬいぐるみから腕を離してしまう。



「セツナさんっ!!」



ㅤ二人の距離が離れ、映里が手を伸ばすも届かない。

ㅤやがて、それを合図にするかのように映里の身体が無数のスクリーンの中へと吸い込まれていき、セツナも声を張り上げた。


「映里さん​──!!」


声は届かない。どんなに伸ばそうとしたって、手が動かない。


ㅤ映里が吸い込まれたスクリーンが上へ上へと距離が離れ、例え人間の姿であっても絶対に届かないであろう地点まで到達していく。


セツナは何も出来なかった。


ㅤ未希も映里もいなくなり、悲鳴と怒声が飛び交う穴の中をただ墜ちていくぬいぐるみには、何も為す術がない。


「くそ……っ!!」


ㅤ無力感に包まれながら、セツナは最下層へと落ちていった。



​※ㅤ※ㅤ※


ㅤ同時刻。湊明日真は、未希と共に再び『映画』の中に訪れていた。


「っ、ここは……?」


ㅤズキリと痛む頭を抱えながら、横に倒れていた身体を起き上がらせて、周囲を確認する。少しずつ意識を覚醒させてみれば、ここは明日真の自宅のようだった。


ㅤ確か、未希と白蛇の男が対峙した後に地面が崩れて、スクリーンが貼り詰められた穴の中に落下したんだっけ。


ㅤそれで、スクリーンから聞こえる声が怖くて、中にはトラウマを連想させるものもあって、意識を失って。目が覚めたら、自分の『映画』の中にいた​──。


「…………、誰か、いる?」


ㅤ照明の点かない居間に向かって歩くも、先程観た去年のクリスマスイブのような明るい雰囲気は漂っていない。賑やかな話し声も、兄の声も、妹の声も聞こえてこない。


ㅤ鼻を付くのは、いつか嗅いだような線香の香りだけ​──。


ㅤ何か胸騒ぎがして、大急ぎで居間に繋がる扉を開ける。

ㅤすると、明日真と真人が映った数枚の家族写真が広げてある卓袱台を囲って、両親が啜り泣いていた。


「ぁあぁぁあ……ぁぁ……明日真……明日真ぁ……」


ㅤ母は枯れることのない涙を流しながら手で顔を隠して座り込み、父は暗く影のある瞳で一枚の遺書を見下ろしている。よく見れば、書いた覚えのない『遺書ㅤ湊明日真』と書かれた封筒が卓袱台の上に落ちていた。


「おかあさん、なかないで……」

ㅤ明日香は瞳に涙を浮かべながら母の背中をさするも、母は声ひとつかけずに泣きじゃくっている。


ㅤ真人の小学校入学式の時の家族写真。初めての運動会のリレーで幼い真人が全力疾走している写真。明日真が苦手なピーマンを完食できるようになって喜んでいる写真。明日香が生まれた時の家族写真。妹の可愛さに悶える真人と明日真の写真。母と父を囲んで、兄妹が笑っている写真。


その全てに、母の涙が滴り落ちた。


「あす、明日香……?母さん?」


ㅤ声をかけるも、反応はない。

ㅤまるで幽霊にでもされたみたいに、誰一人として扉前に立つ明日真に見向きもしなかった。



「​──ここは悪夢の根源だ」


ㅤ突然観せられた絶望に明日真が絶句していると、背後の扉から未希が出てくる。勢いよく開いた扉の角が明日真の頭にぶつかって、思わず「いてえ!」と声が漏れた。


「兄貴に似てるヤツ……!」

「名前で呼べよ!?」

ㅤ白いマントを被った未希は、気を取り直して家の中を見回す。そうして時が止まった壁掛け時計を睨むと、頭に出来たげんこつを抑えている明日真の隣に肩を並べた。


「​──チルドレンシアターのチケットが破損されたまま提出されると、観客は『夢を叶える映画』ではなく『夢を奪われる映画』を見せられる。永遠に」


「永遠に……!?」


「ああ、席に座っている肉体が衰弱して死ぬまでな……夢を叶える方の映画でも、観客が永遠に同じ映画を観続けると​いずれ死ぬぜ。肉体が持たないから。だから、チルドレンシアターでは長時間に及ぶ視聴は推奨してないんだ」

ㅤ未希は言い終えると「管理人も説明不足だよなあ」と笑っていた。でも、涼夏を殺して永遠に同じ映画を見続けようとしていた明日真にとって、それは笑い事では済まない。


ㅤ副管理人を騙ったあの蛇は、『同じ映画を何回も観ることが出来る』という甘言に乗せて、明日真を殺そうとしていた可能性が高い。


ㅤあと少し未希が映画から目覚めるのが遅かったら。

ㅤもしあのまま涼夏を刺し殺してしまっていたら。


ㅤその先の未来を考えるだけで、明日真は思わず身震いした。


「ここに来るまで、長い長い穴の上から落ちていく感覚があったろ。それと同時に、壁に張り付いた沢山のスクリーンを見たはずだ」


「……ああ、見た。全部画面にヒビが入ってた」


「あれは、全てのシアター内にいる観客の映画が悪に転じたものだ。あの蛇、全員分のチケットを破り捨てやがったからな……恐らく、無事なチケットは一枚も無い」


「​じゃあこのままだと、映画を観てる奴は全員死ぬのかよ……!?」

ㅤ叫び返す明日真の眼前に、未希は「落ち着け」と言って手を翳す。でも、落ち着いてはいられない。


ㅤ確かに、羨ましかった。

ㅤ兄が死んだ理由なんて突き止める必要もない無知な子供が、復讐のために他人を殺すことも無く映画を楽しめていたこと。

ㅤある日突然家族が奪われた経験なんて無い奴等が、自分よりも格段に幸せな映画を観れていたこと。

ㅤ妬ましくて、悔しくて、どうにかなりそうだった。

ㅤ未だにその悔恨は晴れていないし、晴れる気配もない。


​ㅤでも、ルール違反を冒した自分とは違い、正規の方法でチケットを得た子供が衰弱死させられるというのは、果たして許されることなのか​──。


ㅤ嫉妬と正義感の狭間で葛藤する明日真を横目で見た後、未希は不得意げに頭を搔く。


「さっきも言った通り、オレはチルドレンシアターの副管理人だ。仕事としては、観客の案内と誘導くらいなんだけど……」


​──明日真の視線を奪うように、未希はいつになく真剣な面持ちを見せる。


「副管理人権限として、オレは映画の〝強制上映終了〟の方法を知っている」


「強制上映終了​──?」


「……ただし、それを使うと二度と自分の望む映画には戻ってこられない。仮にまたチケットを入手したとしても、だ。オレは先に他の子供らも集めてくるから、自分なりにケジメ付けて出てこいよ。待ってるから」


「ケジメ……、」

ㅤ言うだけ言って、未希は踵を返してしまった。

ㅤ明日真は言い淀みながら卓袱台の方に視線を向けて、家族の動向を確認する。チケットの損失によって奪われた明日香の『希望家族』が絶望へと変わり果て、今も絶えず涙を流していた。


​──蛇は『チケットを破ると持ち主の夢も潰える』と言っていたけど、それは映画の中での話だったんだろうか。


ㅤじゃあ、現実にいる本物の家族は?


ㅤ息子を失っても尚、父は家庭の生活を守るために今日も汗水を垂らして仕事している。

ㅤ母は心を壊してしまったけど、今頃夜遅くになっても帰ってこない僕の身を心配しているかも。

ㅤ次男こそは自分を置いていかないと信じているから、妹は今朝も笑えていた。




「​──わかった。後で合流する」


ㅤ決意を秘めた瞳を玄関先の未希に返すと、未希は小さく微笑んでから出ていった。「やっぱお前らって兄弟だな」なんて去り際に呟かれた気がするけど、兄と未希に関係があったのかは明日真にはわからない。


「どうして明日真まで……どうして……」


ㅤ母が机に突っ伏して泣いている。

ㅤ蛇によって作られた家庭の破滅は、酷く悲惨なバッドエンドを物語っている。だが、明日真はもう目を逸らさなかった。


「おかあさん……おにいちゃん達、どこ行っちゃったの?」


「​死んだのよ」


「し……?」


「お兄ちゃんたちはもう戻ってこないの。帰ってこないのよ」


「……なんでえ……?」

ㅤ必死に堪えていたはずの妹まで、糸が切れたように忽ち泣きだしてしまった。そのまま床にへたりこんで大泣きする妹を抱き抱えて、兄らしく慰めることすら許されない。


​──情けない結末だ。


ㅤ恐らく、真人に続いて明日真まで自殺した場合の映画を描いているんだろう。或いは、チルドレンシアターによって魅せられた虚像の家族に酔いしれた明日真が、涼夏を殺害した後に映画館から帰らなかった場合の映画か​。どっちにしろ、趣味が悪い。


「……明日香、泣かせてばかりでごめん。母さんも」


ㅤ明日真は明日香と同じく床に座り、明日香の頬を伝う涙を拭うように掬いとる。明日香には明日真の姿も体温も伝わってないようだったけど、何も出来ないからといって泣いている妹を放っておきたくなかった。


「でも、僕、ちゃんと家に帰るよ。……もう映画に縋ったりしない」


ㅤ映画が終われば、自分には帰るべき『家』がある。

ㅤ自分の帰りを待ってくれる家族がいる。自分が死んだ時、これだけ泣いてくれる味方がいる。

ㅤこんなに心の支えになってくれる人達を、これ以上泣かせたくない。人殺しなんてして、その期待を裏切りたくない。



ㅤ明日真は夢叶う映画館から脱出し、現実に帰る覚悟を抱く。例えそこに兄がいなくても、自分の心の中に兄はいつだって生きている。


「おにい、ちゃ……?」


ㅤ最後に家族から離れて去ろうとした時、背後から自分を呼ぶ声がした。振り返れば、両親が泣いている中、明日香だけは此方を見つめていた。


「……行ってきます。絶対に帰るよ」


ㅤ湊明日香の兄として微笑み、明日真は悪夢の中から脱出した。もう涙を浮かべることはない。




​※ㅤ※ㅤ※




嘘をついた。

嘘をついたから、報いが来たんだ。

〝その光景〟を眺めながら、七瀬映里は静かに理解した。


ㅤ一人で使うには広すぎるリビングで、一人の少女が母の帰りを待っている。少女は部屋の中心に置かれた大きなテーブルを囲う椅子のひとつに座り、ご機嫌に足をパタパタと動かしていた。時刻は十九時過ぎ、とうの昔に日が沈んでいる。


「お母さん、おかえりなさい!」


ㅤ帰宅した母は、それまでに着ていたスーツを床に投げ捨てて、下着姿のままテキパキと化粧直しをした。少女は床に落ちたスーツを脱衣所へと運ぶと、母に替えの洋服を手渡す。綺麗にアイロン掛けされた、洒落たワンピースだった。


「ただいま。転校先はどうだったの」


「えっとね、まだ友達は出来てないんだけど、優しくしてくれた子がいて……!」


「そう。じゃあ、これ」

ㅤ雑談に花を咲かせることもなく、母は少女に千円札を渡すと、ワンピースの上に上着を羽織った。千円札はくしゃくしゃで、折り曲がっている。


「お母さん、出かけてくるから。夕飯は適当に食べてね」


「……うん、わかった!行ってらっしゃい、お母さん」

ㅤ引き攣ることもない自然な笑顔で、少女は手を振って母を見送った。その日の夕食はカップラーメンだった。


​──


場面が切り替わり、父が帰ってきた。

少女が先程とは違う洋服を着ているのを見るに、映画内の日付が変わったことを理解する。


「ただいま、映里」


「お父さんおかえり!夕ご飯作っておいたよ、簡単なものだけど……!あとお風呂の用意も、お皿洗いも……」


「そうか。ごめんな、疲れてるんだ」


「……うん、お疲れ様!」

ㅤ父は娘の作った夕飯に手を付けることなく、部屋に籠るように階段を駆け上がっていった。少女が絵本を読みながら黙々と夕飯を食べても、誰一人として『行儀が悪い』と注意することはない。


​──


場面が切り替わる。

テーブルには、『お母さん誕生日おめでとう』とチョコプレートに書かれた手作りのケーキと、少女が作れる限りの精一杯のご馳走が置かれている。


「お母さんおかえりなさい!」


「ただいま」


「お母さん、あのね──」

ㅤ母はテーブルを見ることなく、階段を駆け上がっていった。


ㅤ後々帰宅した父も、会社の飲み会で散々飲まされたのか酩酊しており、笑いながらテーブルをひっくり返した。ケーキは地面に落ちた。


​──


「おかえりなさい!」

ㅤ知らぬ間に夫婦喧嘩でもしたのか、両親が一斉に帰ってきた時、二人は一目散に自分達の部屋へと帰っていった。誰も『ただいま』とは言わなかった。


​──


「おかえ……」


「映里、貴方ちゃんと勉強してるの?絵本ばかり読んでたら馬鹿になるわよ」


ㅤ母は少女が持っていた絵本を奪ってゴミ箱に捨てると、洋装に着替えてから知らない男性と出かけていった。母の媚びた楽しげな声が、外から聞こえてきた。


​──


「おかえりなさい……お風呂の準備できてるよ」


ㅤ父は映里の言葉に何も返さなくなった。

ㅤ映里の容姿が母に似てきたからかもしれない。


​──


ㅤ少女が泣いている。


ㅤ娘の誕生日の夜になっても誰も帰ってこないリビングの隅で、膝を抱えて泣いている。その全てを無表情で眺めていた映里になんて気付いてもいないみたいに、自分は一人ぼっちだと痛感している。


​──違う。


​──今の私は、一人じゃない。


ㅤ火曜の夜にはチルドレンシアターに入り浸るようになった映里でも、セツナに出会った今では、その原因となった思考を否定できるようになっていた。


『ここにいても、君の正体不明の夢は叶わない』


ㅤ寂しさに飢えた映里が作った仮初の理想郷を、彼は一網打尽に否定した。


『いつか夢を見つけるために、一緒にチルドレンシアターを出よう』


ㅤこの映画館には頼りになる未希や話相手になる涼夏がいたけど、セツナだけは、映里を現実へと引き戻そうとしてくれた。

ㅤ一緒に出ようと言ってくれたのは、彼だけだった。


『今は体が動かないけど……動くようになったら、夢探しくらいいつでも手伝うから。サツキにも手伝わせるよ、友達なんだろ?』


ㅤ友達なんて言うに値しない関係かもしれないのに、彼は真っ先に言い切ってみせた。そういう真っ直ぐなところはあの子に似ていて、嫌いじゃない。



ㅤ映里は瞼を閉じて、追憶に浸る。


ㅤ瞼の裏に浮かぶ光景では、同い年の少年が、教室で一人絵を描いている映里に話しかけてくれていた。笑顔が人懐っこい犬みたい、というのが第一印象だった。


『わっ、それ何描いてんの?』


『えと……、うさぎ……』

ㅤ映里の机の上に置かれたスケッチブックには、時計を首からぶら下げた二足歩行の兎が描かれていた。リアリティと親しみやすさを兼ね備えているその絵を見て、少年​──サツキは目を輝かせる。


『もしかして、不思議の国のアリスに出てくる時計ウサギ?』


『そ、そうです。将来、絵本作家になりたいから……』


『へえ、すごいね!もっといっぱい描いて描いて!』


ㅤ教室は広いし、他にも話しかけられる友達はいくらでもいたはずなのに、わざわざ私に話しかけてくれたのが嬉しかった。多分ただの気まぐれか、興味本位だったんだろうけど。


ㅤたったの数分でも、誰かが自分を見てくれた。

ㅤそれだけで、少しだけ安心できた。


ㅤ七瀬映里は千望セツナに嘘をついた。


ㅤ夢がわからないと言っておいて、本当は自分の夢を忘れていないこと。本来の夢を叶えるための映画を放棄して、自分の寂しさを埋められる空間を作っていたこと。綴り字の間違えた絵本をわざと作って、誰かが指摘してくれるのを待っていたこと。


ㅤ嘘をついたから、報いとしてこんな悪夢を観る羽目になったんだ。同じ願いを星に願って何度も入場したから、悪い映画を観せられたんだ。


「……寂しい……」


ㅤ膝を抱えたいつかの自分が泣いている。

ㅤ弱い自分が、何も出来ずに悲しみに暮れている。

ㅤけど、頭を撫でたりはしない。傍に座ったりもしない。


​──私は大丈夫。外に出ても、もう寂しくない。


「……行ってきます」

ㅤ胸に言い聞かせたまま、外に出た。

ㅤもう理想郷に戻る気は無い。



​※ㅤ※ㅤ※


ㅤ悪夢のような映画から出た時、明日真の目の前には草原が広がっていた。花々が生い茂り、果実が成った木が何本も生えている。


「​──?」


ㅤしかし、その光景は長くは続かない。

ㅤノイズがかかるように彼岸花の花畑が映し出されたり、廃墟のような病室が映し出されたり。まるで何度もリモコンでチャンネル変更を繰り出されているかの如く、眼前の風景は二転三転と切り替わっていった。


「いろんな映画が混ざってしまっていますね……」


ㅤ背後から声がかかり、明日真は思わず其方を見る。すると、今明日真に話しかけた少女の他に、何人か自分の映画から脱出してきた子供達が集まっていた。


「お前は、上映前のチビ……!」


「チビって言わないで下さい。私は七瀬映里です、そんな名前ではありません」


「ご、ごめんなさい」

ㅤ映里と名乗る少女の気迫に負けて、明日真はしおしおと肩を落とす。そして、そんな明日真を気にしない素振りのまま周囲を見渡した映里は、視界の奥に立つ未希の元へ駆け寄った。


「未希兄さん。セツナさんと、涼夏姉さんは……?」


「見てない。多分、どこかの映画の中にいるんだろうけど……」


ㅤ未希が言い切る前に、視界がガタガタと揺れた。


「​──!!」


ㅤ空にはヒビが入り、穴が開き、ブラックホールのように何も無い空間が剥き出しになっている。青空の形をした大きな破片が落ちてきて、明日真は思わず映里と未希の身体を押した。


ㅤ幸い、誰の頭上にも映画の破片は落ちてこなかった。

ㅤでももしこのまま『映画』を映すスクリーンが割れ続ければ、その先に待っているのは​──。


「仕方ない。オレ達だけでも一旦シアターに戻ろう。待ってる時間は無い!」


「じゃあっ、セツナさんと涼夏姉さんは……!」


「大丈夫、なんとかなるさ」

ㅤ未希は根拠も無い自信を見せて映里に微笑むと、映里の頭を撫でてから、先程落ちてきた映画の破片へと飛び乗った。


ㅤ高所から見下ろすように全員の視線を集める未希の姿は、正に副管理人そのもの。この場に居座る子供の全員が、未希に注目した。



「​──みんな、聞いてくれ。オレはチルドレンシアター副管理人の未希!うまいメシと可愛い女の子の次くらいに子供が好きだー!!」



ㅤ心配そうに眉を曲げる映里。真面目に耳を傾ける明日真。恐ろしい映画でも観てきたのか泣いている子供。現状が理解出来ずに呆けている子供。映画の中の登場人物を実在するんだと信じてやまずに、映画の中へ帰りたがる子供。それら全てにぶんぶんと元気良く手を振って、崩壊する映画の中、未希は大声で呼び掛ける。


「これからオレ達は、映画から出てシアター内に脱出する!そうしたら、オレの案内通りについてきてほしい!!言うことを聞かないガキは死ぬ可能性がある!!」


「どういうこと……!?」


「夢が叶うんじゃなかったの〜!?」


「おかあさんどこぉー?」


「言いたいことは色々あるだろうけど、質問タイムを設ける時間は無い!頼むから言うことを聞いてくれ!!」

ㅤ文句や怒声を浴びせる子供達に向けて未希が吐き捨てると、子供達は渋々口を閉じて未希に従った。


ㅤ破片の頂上から降りて、この場を管理人に代わって取り仕切る副管理人。


「オレはあんたらの夢なんか叶えない!!自分で叶えろ、クソガキ共!行くぞ!!」


ㅤ彼がマントを翻して指を鳴らせば、そこにいる誰もが消え失せて、シアター内に座る肉体へとその意識を運んで行った。


​──一部の映画を強制終了出来たはいいが、全部じゃない。取りこぼした子供が、未だに悪夢に取り憑かれている観客が、何十人も残っている。


ㅤただ、時間が無い。


ㅤ未希一人の力では、この状況を打破出来ない。

ㅤなんとか自分の映画から脱出できた数名を救いだすことで精一杯だ。夢と希望を失った映画館がその原型を失うまでに、そこに迷い込んだ全ての子供を救うなんてこと、副管理人如きではできはしない。



『​──こんなところで躓いていられないよ』


ㅤふいに、未希の脳裏に浮かんだのは彼の言葉。

ㅤ一回死んだ。過去のトラウマを見せつけられた。手足の動かない体にされた。心が折れる要素はいくらでも与えられたはずなのに、そう言い切ってみせた彼は、どこか真人に重なるところがある。


​──真人には荷が重すぎたことでも、セツナなら成し遂げられるんじゃないか。


「……どうにか間に合わせてくれよ、セツナ……!」


ㅤ成し得るかどうかもわからない期待に賭けて、崩れゆく空を見上げながら、未希は悪戯っぽく笑った。



​※ㅤ※ㅤ※


「っぎょぇぁあああ!!」


ㅤどれだけ長い時間宙を浮いていたのかわからないくらい落ちて、墜ちて、ついに地面に身体が打ち付けられた。死ぬ覚悟で目を閉じて、ぬいぐるみから発しているとは思えない野太い悲鳴を上げる。


​──痛みは無かった。


「……し、死んだかと思った……」

ㅤ既に地面に叩きつけられていた何かがクッションになっていたようで、セツナの死は免れた。恐る恐る目を開けて、何が下敷きになったのかを確認する。




「​─​──​─」


ㅤトイだ。

ㅤ最下層の床に倒れているトイの身体には、ヒビ割れたように数々の傷が付けられている。頬や額の傷からは液晶漏れのような黒い液体が流れ出し、右脚の膝から下は損壊して失くなっており、腹の傷からは大量の液体が溢れていた。壊れた玩具みたいに一センチ足りとも動かず、体温や呼吸の無いその様を見て、セツナは目を疑う。


「トイ!大丈夫か……!?」



「……大丈夫に見えてる……?」


ㅤ良かった、生きてくれていた。

ㅤ薄目を開けてくれたトイに安心してほっと胸を撫で下ろしそうになるも、セツナには撫で下ろせる手が無かった。付近に転がり落ちた彼の脚を接合してみせることも、流れる液体を止めてやることも出来ない自分に、最早不甲斐なさしか感じない。


「​──運が良かったね。僕のマントは君に渡したマントと同じで、痛みを通さないんだ……ていっても、今の僕に言われても説得力が無いか」


「いや、あ、ありがとう……」

ㅤトイがセツナの頭を撫でようとした時、トイの左手はばりばりと音を出して消失した。思わず「トイ!!」と叫んでも、トイは物怖じひとつせずに虚ろに笑う。



「僕が生きてるのは、あのチケットがあるからだよ。あれが失くなったり、破れると、僕もこの映画館も崩壊する」


「​今までのチケットは?ここは先月から上映してるんだろ……!?」


「現状維持のためには、膨大な数のチケットが必要なんだ。予備なんか無いよ」

ㅤ諦めたみたいに笑われて、セツナはどうしようもない後悔に駆られた。自分がもう少し早くチルドレンシアターの謎を突き止めていられたら、彼がここまで損壊する未来は無かったかもしれないのに​──。


ㅤトイは液体が噴き出す左手ではなく、今度はヒビ割れた右手でセツナの頭を撫でた。ぬいぐるみの姿だから表情こそ掴めなくても、セツナの後悔を汲み取ったのかもしれない。




「​……君、チルドレンシアターの秘密が気になるんだろ?全ての答え合わせをしよう、ここが跡形もなくなる前に」



ㅤ不慣れで覚束無い手つきでぬいぐるみの頭を撫でながら、トイはセツナに笑いかけた。右の瞳にはヒビが入り、涙みたいに黒の液体が流れる。


「答え合わせ……」


「君が気になっていたこと、疑っていたこと、全てを教えるよ。君、一度疑問を抱いたことは突き詰めないとスッキリしないタイプでしょ。警察官志望だもんね」


「なんでそれを君が知ってるんだ……?」


「未希から聞いたよ。でも、もう夢に迷ってないみたいでよかった。映画こそ観れなくなっちゃったから、僕が叶えさせることはできないけど」


「…………」

ㅤ今更そんなの知ったって、君には何のメリットも無いじゃないか。


ㅤそう言いたくなったのを堪えて、セツナは目を伏せた。それが肯定の合図だと受け取ったのか、トイは撫でるのをやめて手を地面に置く。ばりばりと音を立てるトイの腕が今にも無くなりそうで、怖かった。



「​──僕は罪を犯した。沢山の夢と希望を与えるつもりが、奪ってしまった。それを君が暴いてくれるなら本望だ」


ㅤ俺はどうして、トイからそんなにも英雄視されているんだろう。トイからしたら何一つ褒め讃えられるようなことはしていないし、むしろ突然胸元に落ちてきて、邪魔だったろうに。


ㅤだけど、トイは子供を否定することはない。

ㅤ例えどんなに思考が大人びた子供でも、相手が子供観客であるなら、相手が抱く夢を肯定する義務がある。そう言うように、トイは液体が流れ続ける目を再び閉じた。


「でも、答え合わせをするにはまだ足りないピースがある。パズルのピースが揃わないと、僕は君の話を聞けない」


「足りないピース……?」


「主犯の僕と、夢と希望の塊であるチケット。チルドレンシアターを運営する上のみっつの舞台装置の内、ふたつが今揃っている。……あとひとつはなんだと思う?」


ㅤ問われて、言葉に迷う。

ㅤこのまま答えたところで、彼がそのまま〝答え合わせ〟をしてしまったら?全ての謎を解き明かしたところで、そこに何か意味が残るのか?


「…………」

ㅤ答えを待つトイの左目に、新たなヒビが入る。

ㅤそれを見たら、会話を続けずにはいられなかった。


「​……もしかして、『あの子』か?」


「……よくわかってるじゃない。大正解。あの子がいなかったら、僕はチルドレンシアターなんて作っちゃいないからね」


ㅤ贔屓してるって思われたくないから、秘密だよ。そんな風に巫山戯ながらケラケラと笑うトイに笑い返すのは至難の業で、セツナの声色は段々と沈んでいった。


「彼女の名前は番留涼夏バンドメ スズカ……涼しい夏って書いて、スズカだよ。彼女は女優ごっこが好きだから、ここではリョウカと名乗っていただけ」


ㅤリョウカで、スズカ。

ㅤどちらかといえばリョウカの方が馴染みがあるのは、一度死ぬ前の自分が彼女に出会った時、彼女をそう呼んでいたからだろうか。


ㅤトイが答えも待たずに右手で指を鳴らすと、セツナの視界の奥にヒビの入った真っ白いスクリーンが現れた。他のスクリーンとは違いノイズは無く、悲鳴も聞こえてこない。


「あのスクリーンに入れば、その先にはかつての楽園がある。そこに、彼女はいる」


ㅤスクリーンの先に見えるのは、彼岸花の花畑だ。

ㅤ空模様は暗い曇天で、人の気配なんてひとつもなくて、夢も希望も見当たらない。でも、そこに涼夏がいるというだけで、画面の先に待つ光景に対する恐怖は無くなった。


「彼女に現実を見るように説得できるのは、君しかいない……後で必ず、合流する」


ㅤ最後の力を振り絞ったトイに突き飛ばされ、ぬいぐるみの身体がぼよんと跳ねる。スクリーンの前に追いやられたセツナには、選択肢が一つしか残されていなかった。


「でも、君をここに置いていくなんて​……」





「​──早く行けっ!帰れなくなるぞ!!」




「​!!」

ㅤ雑音混じりの声で怒鳴りつけられ、セツナの声が奮い立つ。それと同時に、魔法が解けた。


​──もうぬいぐるみの姿じゃない。


ㅤ手足が動き、自分の意思で歩行が出来る。表情筋が動くから、怒ることも、悲しむことも、笑うことだって出来る。


この姿なら、彼女の元に行ける。



「​──行ってきます!」


ㅤ未希の期待とトイの意思を背負い、千望セツナは映画のラストシーンへと足を踏み入れた。

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