第6話ㅤ君が笑わない世界
場面が変わる。
無邪気な子供が、無邪気じゃなくなる。
「──なんであんなことしたんだよ!!」
ㅤ真昼間の小学校の男子トイレという狭く不潔な空間の隅で、幼い頃のセツナが幼馴染の胸倉を掴んでいる。声色こそ激怒しているように聴こえるけど、その顔が映すのは悲哀だ。
「君のせいで、皆に笑われた!お父さんにも恥知らずって言われて……ぼく、今日家に帰れないよ。帰りたくないよ!」
「知らないよ。帰りたくないなら帰らなきゃいいじゃん」
ㅤ膝から崩れ落ちてぐずぐずと泣き喚くセツナを、今まで胸倉を掴まれていた少年が手を差し伸べることなく冷酷に見下ろしている。セツナは廊下に響くような泣き声で呻いているのに、教員や他のクラスメイト達が様子を見に来ることはない。
ㅤ先程まで教室で作文制作に切磋琢磨していた二人が犬猿の仲になったことに、トイレの入口付近でセツナを抱えながら眺めていた未希は目を丸くした。
「おいおい、凄い形相だなぁ……さっきまで仲良しだったのに、なんで喧嘩してるんだ?」
──幼い頃の俺が通ってた小学校は、結構生徒数が多くてさ。学校全体でやる作文コンクールもその分規模が大きくて、一クラスから二人ずつ推薦される方式だったんだ。
ㅤいつか観たミステリー映画に出てくる正義感の強い警察官が憧れで、『将来の夢』をテーマに書くと決まった時は張り切ったものだ。クラスの学級委員長だから──ってなんの変哲もない理由で推薦されたけど、大役を任されているようで嬉しかった。
ㅤそれに、幼馴染も同じく学級委員だったし、クラスで一番賢い人気者だったから、誰の異論も無しに推薦された。幼馴染がどう思っていたかはわからないけど、それぞれの発表の番が来るまで隣同士で肩を並べられていたのも嬉しかったな。
──隣の席のあの子は俺より出席番号が早いから、コンクールでは俺より先に発表する予定でさ。
「それで?」
──それぞれの発表者の親まで観てる中、舞台上であの子が発表したのは、俺が書いたものと全く同じものだった。
「盗作したってことか?」
──ああ。どのタイミングで書き写されたのかはわからないけど。流石に前の順番の子が発表した文章と同じものは発表できないし、しどろもどろしてたら先生に見つかって……皆の前で、大目玉を喰らったよ。
ㅤ観客として来ていた両親の冷ややかな視線。クラスメイトの蔑む声。上級生の笑い声。翌日からの、学校内での孤立。どれも、幼い頃の自分には耐えきれないものだった。
ㅤでも、誰も幼馴染側の盗作は疑ってはくれなかった。
──それだけだとただの『小学生の頃の恥ずかしい体験』で済むけど、俺の父親はプライドが高い脚本家だから、簡単に許してはくれなかったんだ。今も俺が警察官になりたいって言う度に、昔の話を持ち出される。
「ふーん。作文コンクールとか、聞いてるだけで眠くなりそうな響きだな〜」
ㅤ未希はどうでもよさそうに鼻をほじりながら、未だ視界の奥で口論をしている二人を見つめている。鼻ほじった手でオレに触るな。
ㅤそういえば、後から弟に聞いた話だと、幼馴染の父親も脚本家で、うちの父親とはライバル関係にあったらしい。だからうちの父親は兄さんが警察官になるより脚本家になった方が嬉しいんじゃない──なんて言っていた。
ㅤ正直、美的センスは弟の方が優れているんだから、弟の方が脚本家に向いているとは思う。弟にも夢があるから、勧めはしないけど。
ㅤ未希はふわぁ、と眠たげに欠伸をしながら、今度は手元のぬいぐるみに視線を下ろす。特に芸術云々父がどうこうの話は聞きたくないのか、その仕草は会話の終幕を物語っていた。
「セツナは、今もその過去を引き摺ってんの?」
──んー。どっちとも言えないかな。裏切られた気持ちにはなったけどさ。
「けど?」
──俺はチルドレンシアターの仕様を利用して過去をやり直そうとも、あの子に一泡吹かせてやりたいとも、警察官になるための道を知ろうとも思わない。夢を叶える道は、自分で歩きたい。
──それに、今はそんなことより『あの子』に話したいことがあるんだ。こんなところで躓いていられないよ。
ㅤセツナが心の中で言い切ると、未希は何が面白いのか「あっはっは!」と吹き出して笑った。唐突な大笑いに拍子抜けしたままでいると、頭をぽんぽんと撫でられる。
「……あんたは強いなあ……あいつも、あんたみたいだったら良かったのにな」
ㅤその呟きは、今にも消え入りそうなくらい小さなものだった。
──あいつって?
「いや、なんでもないよ。次に行こう」
ㅤ深入りを許さない未希の瞳に夢の終わりを宛てがわれて、忽ち視界が白に染まる。結局復縁のひとつすら出来なかった幼馴染が、無邪気さを失う代わりに疑心を知った当時の自分が、ゆらゆらと泡沫の如く消えていった。
ㅤ過去には戻れない。
ㅤでも、それでいい。
ㅤ過去があるおかげで、今の自分があるから。
──。
ㅤ白く浮かんだ意識から目を覚ますように見開けば、目の前には見知らぬ幼稚園があった。表札には『ちるどれん幼稚園』と書いてあって、門は解錠されている。庭には沢山遊具があって、一望する限りでも大きな幼稚園に見えるのに、子供の気配は無い。
──って、すごい!目を開け閉めできるようになったぞ!ぬいぐるみのままだけど!未希くん、見てくれ。
ㅤ未希は見ない。
ㅤ久しぶりに瞬きできるようになってついはしゃいでしまったけど、無反応を返されて少し悲しくなった。
ㅤにしても、ここはどこなんだろう?ちるどれん幼稚園って何だ?聞いたことがないけど、実在する場所なのか?
「セツナ。声を出してみろ」
「え……」
ㅤ視界に見えるものを手当り次第見定めていると、幼稚園の入口に向かって歩く未希から声がかかって、セツナもつい声を漏らす。そして、驚喜した。
「わっ!!声が出る!」
「声が戻ってるし、あとは肉体だな。最終テストと行こう」
ㅤにしし、と得意げに笑う未希が、今だけは魔法使いか何かに見えてくる。一体どんな仕組みで声を戻してくれたのか、セツナにはさっぱりわからない。
ㅤわいわいと喜びの声を上げるセツナに適当な談笑を返しながら、未希は幼稚園の扉を開けて中に入っていった。
「ここは……?」
ㅤ少なくとも、俺の『映画』の中ではない。
ㅤ昔通っていたのは幼稚園じゃなくて保育園だし、そもそもちるどれん幼稚園なんて名前ではないし、こんなに広くなかった。『ばら組』『ゆり組』『ひやしんす組』と何組もクラス分けされた扉が立ち並ぶ廊下を見渡して、セツナはぬいぐるみの目をぱちくりと瞬きさせる。
ㅤ未希はセツナの問いには答えず、一目見るだけで『ひやしんす組』に向かって歩を寄せた。その足取りはなんだか急いでいるようにも思える。
ㅤひやしんす組に行く目的は何なんだろう?
ㅤ廊下の最奥に位置するひやしんす組の教室に入ると、幼稚園児用の椅子や机、遊び道具などが雑多に散らかっていた。壁紙や床の色はパステルカラーで可愛らしく、おままごと用のぬいぐるみ等も玩具箱に詰められていて、まさに子供部屋といった光景だ。
ㅤそして、その子供部屋の奥に座り込んでいるのは、小学校高学年くらいの低身長な女の子。此方には目もくれないまま、静かに『不思議の国のアリス』の絵本を読んでいる──。
「……君は、誰だ?」
「…………」
ㅤ返事は無い。さっきから立て続けに無視されていて悲しい。
ㅤ見るからに幼稚園児ではない。けど、睫毛の長い大きな瞳や丸みを帯びた輪郭、白い小花が散りばめられた黒のワンピースがどこか幼い印象を持っていて、子供部屋にいても全く違和感が無い。
「この子は
ㅤなんで名前を知ってるんだ。
ㅤといういざ聞いても何も返してくれなそうな疑問より、身長の割に年齢が高かったことに驚いた。中学二年生にしては顔が幼いし身長も低く、小学校中学年ですと言われる方がまだ納得できる。
──恐らく、ここは映里という少女が観ている映画の中だ。
ㅤでも、どうして彼女は上映前と同じ姿なんだろう。
ㅤ夢が定まりきっていなかったセツナでさえ、自分の映画の中には幼少期の頃の自分がいたのに──。
ㅤ未希は座ったまま何も話さない映里の元へ近寄ると、映里の目の前にぬいぐるみを置いた。突然地面のひんやりとした感覚に当てられて、セツナは思わず「うおぉ」と間抜けな声を上げる。
「映里ちゃん、こいつは千望セツナ!今はぬいぐるみの姿にされてるけど、チルドレンシアターの仕様が気に食わなくて大暴れしたらこうなっただけで、元は人間だよ。全ての子供を救う救世主サマになりたいんだと」
ㅤ救世主になりたいなんて言ってない。
「ちょっ、語弊が……!!」
ㅤ映里の視線が向いたことに危機感を覚えて、根強く吐かれた虚言に物申そうと口を挟むも適わない。未希はぬいぐるみの口を手のひらで塞いでから抱き上げると、耳元で冷静に囁いた。
「──映里がチルドレンシアターに来るのは三回目だ」
「えっ」
「それに、アンケートボードに書いてある将来の夢も毎回違う。理由を突き止めてこの子の本当の『将来の夢』を判明させてくれたら、あんたの意識を肉体に戻すことを約束するよ」
「そ、そんな……」
ㅤセツナの返答を待つより先に、未希はにっと微笑んだ。どうやら拒否権はないらしく、今はその笑顔に威圧感すら覚える。
「そんじゃ、オレはちょっくら探索に行ってくるから!映里ちゃん、中身人間のぬいぐるみでもよければ可愛がってくれよな。気に入らなかったら捨てていいぜ」
「ま、待てよ!!」
「じゃー頑張って、兄弟♡」
「おぎゃー!」
ㅤぬいぐるみの姿で未希を引き止められるはずもなく、セツナの身体は瞬く間に映里の元へ投げ捨てられた。絵本の上に転がるように落ちれば、映里の瞳と目が合う。
ㅤ弟と同年代くらいの女の子って、何を話せばいいんだ。
ㅤ薄情な未希はスタコラサッサと幼稚園内の探索に行ってしまったし、ぬいぐるみの姿だから手足は動かない。できるのは、瞬きと会話だけ。『最終テスト』の制限時間は、未希がひやしんす組に戻ってくるまで。
「……言っておきますが、私、ぬいぐるみに話しかける趣味はありませんからね」
ㅤ慈悲なく言い捨てられて、中学生相手に弱音をこぼしそうになる。
これからどうしたらいいんだ──?
※ㅤ※ㅤ※
ㅤ時計の針は動かない。
ㅤ夜中の静寂に包まれた楽園の一室で、ふかふかのベッドに少女と二人で寝転びながら、追想に耽ける。
──涼夏が言うには、本に出てくる『神様』が一日目に作ったものは、光と闇なのだとか。
「どうして、あなたはわたしの元へ来てくれたの?」
ㅤ病院の屋上から飛び降りて数時間が経った『一日目』、彼女は膝を抱えるように座りながら聞いてきた。
ㅤまだ『チルドレンシアター』が出来ていないそこは、ただのだだっ広い大宇宙。光も闇も存在しない虚無。世界中の子供の夢の塊。人間には意識の確立すら定かでないだろうに、ここにきて恐がらなかったのは彼女が初めてだ。
「君が願ったからさ」
「なにを?」
「君自身の、夢と希望を」
「夢と希望?」
ㅤ彼女が飛び降りるまでのワンシーンを見ていればわかったけど、彼女はどこか人生に対して傍観気味で、何事にも臆さない不埒さと狂気がある。そんな子供が僕を呼び覚ましたのが意外で、なんだか放っておけなかった。
「僕は、子供達の夢と希望から生まれた存在。夢と希望がなくなれば、僕は生きていけない」
ㅤ彼女からしたら果てのない世界のどこかから声がしているのと同義なのに、彼女は呑気に指弄りをしたまま僕の話を聞き入れた。
「子供は光ばかり見ていて、光で隠された闇に気付かない。だから、大人になったら闇に呑まれて、昔のような夢は失くなってしまう」
「よくわからない」
「あはは、ちょっと難しかったかな」
ㅤ真面目な話をしたつもりだったけど、彼女は指弄りに夢中だ。光だの闇だの夢だの希望だのには興味が無いみたい。
ㅤ彼女は自身の伸び切った髪と紐の締め方が緩い病院衣には目もくれず、寝そべるように横になって周囲を見回した。何も無く、話し声だけ聴こえる空間はお気に召さないのか、むっと眉を顰める。
「ここは何もなくて退屈。天国でも地獄でもないみたい」
ㅤ彼女がそう言ったから、僕は彼女の手元に暖かい明かりの灯るランタンを浮かばせた。
「じゃあ、明かりを灯そう。ここは今日から君のための世界だ」
「わたしのため?」
「ここには君以外の子供はいないからね。他の子供がいれば僕はその子のためにも尽力するけど、今は君の貸し切りだ」
「ふーん……」
ㅤランタンが気に入ったのか、気に入らなかったのかはわからない。ただ彼女は突如現れた光をその瞳に差し込ませて、眩しそうに目を細めた。
「じゃあ、わたしのためにまず人の姿で現れてよ。あなたの姿がどこにも見えないから、一人で喋ってる気分になる」
ㅤ彼女はランタンを手に持ちながら、自身の隣に来るように手招きした。ただのランタン如きでは機嫌が良くならなかったのは、僕が姿を現さなかったかららしい。といっても、僕の身体はこの大宇宙そのものなんだけど。
「人の姿か……どんなものがいい?男の姿でも女の姿でも、要望通りに叶えるよ」
「要望……」
ㅤ変身は得意だ。夢があるから。
ㅤ彼女が望むなら、彼女好みの男性に成り代わるつもりでいた。彼女は理想のダーリンが欲しいと飛び降りる前に言っていたし、天候を見間違えるくらい錯乱して笑っていたから、それが彼女の本望であることは間違いない。彼女を満足させて、僕は新たな夢と希望を得る。一石二鳥の利害関係だ。
ㅤ彼女は少し悩むと、数分後にやっと思いついたのかはっとした。
「……わたしを楽しませる気があるなら、ピエロの格好になって。そのままだと怖いから、愛嬌がある男の子の姿でね。ホラー映画に出てきそうなのは嫌」
ㅤピエロっていうのは道化師のこと。
ㅤ道化師とは、喜劇に登場する無知で優しい人気者。それでいて人を楽しませることに長けた利他主義者なんだって、今までに沢山の夢を見てきたからわかる。
ㅤ彼女が望むなら、僕はダーリンにもピエロにもなる。
「こんな感じ?」
「!」
ㅤ僕が宇宙柄のマントを羽織るピエロ服の少年として現れると、流石の彼女でも驚いたのか、目を輝かせてまじまじと見てきた。
「すごい、どうやってやったの?魔法?本当になんでもできるんだ……」
「ちょ、ちょっと、近い近い。これくらいできて当たり前だよ」
「人間にはできないよ。すごい、体温はないのに肌の感触がある……」
ㅤ近距離ですりすりと頬を撫でられて、なんとも言えない恥ずかしさに襲われた。別に撫でられるのは嫌じゃないし、僕には触覚が無いから嬉しいも悲しいもないけれど、だとしたらこの感情はなんだろう。
「わたしが女優なら、あなたは俳優ね。わたしのための舞台をつくってね」
ㅤ僕が情けなくあたふたと慌てていても、彼女は優しく笑ってくれた。それが嬉しくて、胸に風が吹くような心地になる。
「……ああうん、……今はこっち見ないで……」
「?」
ㅤ折角彼女の前に姿を現したのに、こうしちゃいられない。僕は彼女を楽しませて、息のしやすい舞台を作ってあげないといけないんだから。
ㅤ正気に戻るように顔を叩いて、僕は意志を奮わせた。
「……僕は君が笑ってくれる世界を作りたい。今日からよろしくね、涼夏!」
ㅤ君のための世界に君が来た『一日目』、世界には光と闇が出来た。
ㅤ二日目には彼女が好きな映画館とやらを作って、彼女の指示通りに仕様や仕組みを考えた。子供達の夢と希望は僕の生命維持に関わるから、入場チケットとして導入するのは名案だよね。『映画館は映画の中に入るんじゃなくて映画を観る場所だよ』とダメだしされてしまったけど、僕が作った飴の味が気に入ったのか、彼女は『まあいっか』って妥協した。
ㅤ子供である涼夏と、子供の姿である僕が作った映画館だから、僕達はこの場所を『チルドレンシアター』と呼んだ。
ㅤ三日目には彼女から手当り次第映画館のいろんな仕組みを教えてもらって、詳しい間取りやサービスを考えた。近い内、もし観客を呼べるとしたら、観客の子が見知らぬ彼女とも友達になれるくらい充実した場所にしたかったから。
ㅤ四日目には僕の楽園に管理人室を立てた。それで、昼間には映画館の上映準備をして、夜間は彼女と同じベッドで眠りについたんだ。僕は眠らないけど、彼女の寝息は聞いていて落ち着くから、昼も夜も楽しめた。
ㅤ五日目には劇場スタッフを作って、それぞれの仕事の割り振りを考えた。熊、犬、兎、猫、蛇。彼女が好きそうな動物にしたつもりだったけど、蛇だけ気に入らなかったみたい。でも、いろんなぬいぐるみを作ったからか、彼女が『トイ』と僕のことを呼んでくれるようになって、嬉しかった。
ㅤ六日目には全ての劇場準備を終わらせて、毎週火曜日を上映日とすることにした。彼女が望んだものも一通り作れたし、彼女も僕も、明日を楽しみにしていた。
ㅤそして七日目。チルドレンシアターの初上映の日。一番最初に劇場に訪れた湊真人という少年を、彼女は愛を込めて『ダーリン』と呼んだ。
でも、彼は涼夏のアダムにはならなかったんだって。
アダムを失ったイブからは、笑顔が消えてしまった。
────。
ㅤ追想を終えると、トイの手首には涼夏の生暖かい手のひらが当たった。闇夜の月明かりが差し込む管理人室のベッドの上、望んだ相手に押し倒された少女が口に出したのは、
「トイ、まって。やめて」
「…………?」
ㅤ此方に対する否定だった。
『この行為』を望んだのは彼女なのに、今更何をやめろと言うんだろう。トイがいつもより冷然とした瞳で涼夏のはだけた胸元を見下ろすと、涼夏は押し倒されたままセーラー服のボタンを留め始めた。
「……ごめんなさい。やっぱり、やめる」
「……『抱いて』と言ったのは君だよ?本当にいいの?」
「うん。トイは、トイのままがいい」
ㅤ見知らぬ男のことは『ダーリン』と呼ぶのに、何故僕は僕のままなのか。底知れぬ醜い感情が顔を出して、思わずベッドのシーツを固く握ってしまう。
ㅤでも、表情に出してはいけない。
ㅤ笑顔になれない僕が、涼夏を笑わせられる訳がないから。
ㅤ道化師として、『トイ』として、管理人はにこりと微笑む。
「僕は君が望むなら、千望セツナの姿にもなれるよ?」
「──、」
ㅤやはり、あの男の死が気にかかっているらしい。
ㅤ映画内で死んだって、シアター内に置き去りにされた肉体が死ぬ訳じゃない。そりゃ、もっと惨たらしい死に方をしたなら、痛覚や恐怖が魂に染みてトラウマになったりはするだろうけど、彼は即死したんだ。トラウマもくそもありはしない。
ㅤいっそ、あの男の姿になって、彼女の身も心も犯してしまおうか。そう考えたトイが姿を変えようと起き上がる寸前、「だめ」という声がトイの覚悟を静止させた。
ㅤ涼夏の細い指が、ちゃんと体温のある手のひらが、トイの頬をふわりと撫でる。
「……あの人は、あなたじゃないの」
ㅤどうやら、惨たらしく死んだのは此方の方だったらしい。
「……そっか。変なことを言っちゃった。ごめんね、全部忘れてくれ」
ㅤトイはセツナの姿に成り代わるのはやめて、ベッドから降りると自身の外套を羽織った。宇宙柄のマントを拝めば、当初の目的を思い起こせる。
ㅤトイという存在は、彼女のための舞台装置だ。
ㅤどう頑張ったって『ダーリン』にはなれない。一度はトイを求めても、後々怖気付いてしまったのなら、トイはそれに従うしかない。
ㅤ今彼女の一番近くにいてあげられる僕まで彼女を求めてしまったら、彼女の居場所は本当の意味で失くなる。それは駄目だ。
何に代えようと、彼女の
「今日はもう寝よう。……『ダーリン探し』は、また来週の公演でやればいいよ」
「うん、ありがとう」
ㅤベッドに座り、涼夏の頭を撫でると、涼夏は安心したように抱き着いてきた。彼女が眠りに落ちるまでのひとときだけは、彼女の体温も、匂いも、独り占めできる。僕はそれだけでいいんだって、心に言い聞かせた。
ㅤやがて、涼夏はすうすうと寝息を立てて眠りにつく。
ㅤそれが寝たふりなのはわかっていた。彼女と関わりが無い人にはわからないかもしれないけど、今までの七週間、ずっと一緒にこのベッドで寝ていたんだ。寝ているか寝ていないかくらいの判別はつく。
──今日は色々あったから、疲労も溜まってるんだろうな。
『一人にして』という合図を出された気がしたから、トイは何も気付かぬふりをしたまま外に出た。寒さも暖かさもない果実の森に出れば、世界に一人ぼっちであるかのような気さえしてくる。
ㅤ大勢のキャストも、賑やかな映画館も、落ち着ける楽園も作ったのに。
「……僕じゃ、駄目なんだなぁ」
ㅤ彼女は選んでくれなかった。
ㅤ二人で作った頃は綺麗に見えた作りものの夜空が、途端に色褪せて見えてくる。
ㅤそういえば、もうすぐ上映が終わる。今晩の上映のために足を運んだ観客は、みんなそれぞれの映画を楽しめただろうか。
ㅤ夢は叶ったかな。
「管理人サマ!!」
ㅤ空を見上げながら物思いに耽っていると、川の方から受付係の兎がどすどすと走ってきた。何やら慌てていて、動作のひとつひとつが騒がしい。
「──?どうしたの。涼夏が寝たばかりなんだから、あまり大きな音を立てないでよ」
ㅤ腕を組んで対峙するトイの元へ辿り着くと、兎はあわあわと手をばたつかせながら戦慄した様子を見せる。その動揺を見るに、只事ではない気配がした。
「重度のルール違反チルドレンが現れましタ!至急、シアター4にてご対応お願いします!!」
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