第5話ㅤぼくの夢

「──立ち話もなんですから、中に入れてはくれませんか?」



「え……」

ㅤ唐突に現れた来訪者に、明日真は言葉を詰まらせた。


ㅤ僕はただ『映画』を見ていただけなのに、なんで他の子供観客を差し置いて僕の元に副管理人が現れたんだ?


ㅤそもそも、副管理人がいるなんて聞いてない。


《何かあったら、映画のエキストラとして参加している動物達に聞いてね。みんな子供が大好きで、優しい子揃いだから!》


ㅤ管理人であるトイはそう言っていたけど、目の前の男はどう見ても動物には見えない。骨ばった手のひらも、首元にある喉仏も、聞き取りやすい澄んだ声色も、その全てが人間のものに見える。


ㅤ強いて挙げるなら、瞳孔だけは人間離れしたものに思えるけど​──。


「おにいちゃん、誰と話してるのー?」

「誰なんだ、その人。お客さん?」


ㅤ明日真が玄関先で来訪者の容貌を見定めていると、いつの間にか背後から明日香と真人が顔を出していた。明日香は明日真の服の裾を握りながらひょっこりと首を傾げ、明日真と同じく男の姿を一目に捉える。


ㅤチルドレンシアターの話はしてはいけない。幼稚園児である妹には、荷が重すぎる。


「あ、……えっと、中学校の先生だよ。副担任の」

「​──わっ、デビビランみたい!かっこいー!!」


ㅤ明日香は明日真に相槌を打つより先に、大きな瞳をきらきらと輝かせると、来訪者に勢い良く飛びついた。


「でびびらん……??」

ㅤ思わず、来訪者も明日真も同じ言葉を口にする。

ㅤ明日香はよろけて後方に倒れた来訪者の膝に乗りながら白いフードを捲ると、ピアスの形状を見て「やっぱり!」と歓喜の声を上げた。


「デビビランはプチキュアに出てくる敵キャラだよ。明日香はデビビランが格好よくて大好きなんだよな〜」


「うん!だーいすき!」

ㅤプチキュアとは、明日香が父のスマートフォンを借りてよく観ている女児向けアニメだ。明日真よりは真人の方が明日香の面倒を見ていたから、明日真はデビビランの存在を知らなかった。ネーミングセンスが壊滅的だ。


「えっと……いつも明日真がお世話になってます。外は寒いし、良かったら中に入って下さい!」

「おやおや、どうもありがとうございます」

ㅤ真人は明日香の頭を撫でると、そのまま明日香の小さな身体を抱え上げつつ軽い会釈をした。真人の言葉に甘えるまま男が白いローファーを脱げば、明日香は両手を上げて大はしゃぎする。


「わーい!デビビランがきたー!」

「デビビランさんではございませんよ」

「デビビランだよ!お耳のかざりがそっくりだもーん!」

「……そうですか」

ㅤ子供が苦手なのか、子供への対応が不得意なのか。男は最後に微笑を返すだけで、それ以降は明日香と話したがらなかった。管理人は『子供が大好き』と言っていたけど、副管理人は違うのかもしれない。


「やべ、卓袱台散らかったままだ!!」


ㅤ客人を招いたはいいものの、居間にはクリスマスの飾り付けや食べかけのケーキが散乱している。とてもではないが客人を招待できる様子ではないその光景に、一番乗りで居間に着いた真人が慌てながら掃除をしだした。


ㅤ正直、得体の知れない男を兄妹がいる空間に長居させたくはない。


「……兄貴は明日香とツリーの飾り付けしててよ、僕は部屋で先生と話してくるから」

ㅤ卓袱台の上に置き去りにされていた折り紙を片付けだす真人に、明日真はぎこちなく笑う。


ㅤ真人との共同部屋で男と会話を交わせば、少なくとも家族に疑念や要らぬ誤解を抱かれる心配はない。あとは男の言う『用事』とやらをさっさと片付けてもらって、両親が帰宅する前に出ていってもらおう。


「え……いいけど、なんで?成績の話なら兄ちゃんも聞くぞ?」


僕の理想郷映画に、他人は要らない。


「いいから!」


ㅤ思わず声を張り上げてしまった。


ㅤ我に返って目を向ければ、床に座った兄妹がどちらも動揺して言葉を返せずにいる。家族を守りたいだけなのに、僕は何をしているんだろう​──。


「あ……」


「……わかった、じゃあとりあえずお茶とポテチだけ持ってけよ。先生に失礼なことは言うなよな〜」


「ご、ごめん。ありがとう……」

ㅤ真人からお茶入りのマグカップ二つとポテトチップスが乗った盆を受け取り、明日真は申し訳なさそうに目を伏せた。真人は「気にすんな」と屈託なく笑っていたし、思春期だから兄に成績の話なんか聞かれたくないよな、なんて思ってるんだろう。


ㅤでも、そんなんじゃない。

ㅤ元々は兄が死んだ理由を解明するためにチルドレンシアターへ来たけど、明日真は実を言えば現状の居心地の良さに溺れていた。



ㅤ家に帰れば家族が笑って出迎えてくれる喜び。

ㅤ兄が生きているという事実。

ㅤ妹が家族を見て寂しげに俯くことがない嬉しさ。


ㅤ昔は当たり前だった幸福が、ここにはある。なら、わざわざ謎を解明して兄の死を受け入れるより、ここでずっと幸せな一日を繰り返す方が幸せなんじゃないか。





​──本当にそれでいいのか?


「…………」


ㅤ僕はどうしたいんだろう。どうすれば、湊真人は死ななかったんだろう。


ㅤ何もわからないまま、明日真は自室に白服の男を招き入れた。





​──湊家ㅤ明日真と真人の部屋



「で、用事ってなんだよ」


ㅤ兄と弟の分のベッド、勉強机、椅子、本棚しかない狭い自室に足を踏み入れると、男はお構い無しに真人の椅子に足を組んで座った。不快だ。


「貴方に頼みたいことがありまして。話せばすぐ済む話ですから、そんなに警戒なさらないで」

ㅤ明日真がどれだけ家族のことを大切に思っているかわかっておきながら、その親愛を今にも握り潰しにきそうな慇懃無礼な態度。歩く度にカラカラと揺れる大振りな蛇型のピアス。崩れる事無き嘲笑​──その全てが、明日真の逆鱗に触れる。


「私、副管理人と言いますけど、普段は裏でチケットの管理業務をしているんですよ。蛇は鼻が効くので、どのチケットが誰の物かわかるんです」

ㅤ明日真の怒りになんて目も向けず、男はすんすんと鼻を鳴らす。突然『蛇』を自称されても、明日真の中では驚きよりも納得が勝った。


それよりも、明日真が気にかかったのは​──、


「……蛇ってことは、上映前にロビーにいたあの巨大な蛇は」


「えへへ、見られていましたか……?私です。私は管理人様程の技術はありませんから、気を抜くとすぐ元の姿に戻ってしまうんですよ」


「ふ、ふ〜ん……」

ㅤ威勢だけはあるくせにその実小心で、兄妹の誰より臆病者な明日真には、それ以上会話を深掘りすることは出来ない。


ㅤ怪談番組やホラー映画だって、高校生になってやっと観られるようになったんだ。成ろうと思えば巨大な蛇に成れる、自分よりも遥かに外見年齢が高い男に立ち向かう勇気は無い。


「観客である皆様が各シアターに出向くのを確認したら、チケットを収集し、それぞれのアンケートボードの匂いと同じ匂いのものを束ねておくのが私の仕事です。地味な事務作業でしょう」

ㅤ男は自身の業務内容を説明すると、懐から一人分のアンケートボードとチケットを取りだした。アンケートボードの内容を見るに、それは明日真が上映前に記載したものだ。


「このチケットとアンケートボードは直結関係にあり、チケットが破り捨てられれば持ち主の夢と希望は失くなります。お金持ちになりたいと願った子供なら未来永劫の貧困が約束され、医者になりたいと願った子供なら重病にかかって死亡します」


「​えっ​……?」


「チルドレンシアターは金銭ではなく、子供達の夢と希望が詰まったこのチケットを対価に将来の栄光を約束する映画館ですから。チケット対価が無ければ、夢は叶いません」

ㅤ何の躊躇いも無しに男が次々開示した情報は、どれもSNSやチャットサイトには載っていないものだった。明日真は呆然としたまま聞き入れると、男が手に持った自身のチケットを見つめた。


ㅤつまり、星に願うことで手に入れた『チケット』には観客側の夢と希望が詰まっていて、観客はそのチケットを消費することで未来の自分が大成する選択肢を得る。だが、それは逆に言えば、未来の手綱をチルドレンシアターの運営側に握らせているのと同じ事​──。


ㅤ信じ難い話だが、こうして妹が望んだ『映画』の中に入り込めている以上、それ以外に真実は無い。


ㅤ真相に一歩近付いた明日真を前に男はにやりと笑うと、両手の人差し指と親指でチケットの両端を挟むように持った。



「​──さて、妹さんの夢と希望チケットを破り捨てたら、この家はどうなるんでしょうね?」



ㅤ今この瞬間、男が手指に軽く力を込めるだけで、湊家は瞬く間に崩壊する。



「やっ……やめろよ!!」


ㅤそれは、家族を何よりも大切に思っている明日真にとって、充分すぎる脅迫材料となった。


「明日真〜、どうした?」

「おにいちゃーん?」


「な、なんでもない!」

ㅤ居間から何も知らない兄妹の声がして、明日真は精一杯に絞り出した明るい声で応答する。男はチケットを握ったまま「素直な子ですね」と微笑みを返すだけで、睨みが効いた明日真の瞳には一秒足りとも動じなかった。


「お前の狙いはなんだよ……なんで、夢が叶う映画館で子供の夢を奪おうとするんだっ」

ㅤ居間には響かない程度の声色で憤慨を示しながら、明日真は男が握ったチケットを奪おうと手を伸ばす。しかし、男は明日真のどんな挙動もふわりと躱し、チケットに指一本触れさせてはくれなかった。


「貴方がルール違反を冒したからですよ」


「ルール違反……?」

ㅤチケットを取り返そうと延々と手を伸ばし続けていた明日真の動作が、男の警告を聞いてぴたりと止まる。何か悪い事をした記憶も、劇場内の動物や物に当たった記憶も無く、明日真には思い当たりがひとつも無かったからだ。


男はふう、とため息をつくと、呆れたようにアンケートボードとチケットを懐へとしまった。


「チルドレンシアターでは、例え合意があろうとも他人のチケットを使って入場することは原則禁止されているんです。話題性の割にシアター数が少ないので、チケットの奪い合いにならないためにもね」


「そんなの、聞いてない……」


「管理人様はいつも説明不足ですからねぇ。貴方がポストに投函したチケットからは、貴方の妹さんの匂いがしました」

ㅤまあ私はデビビランじゃないんですけど、なんてくだらないことで笑っているけど、要するに男は副管理人として劇場のルール違反者を罰しにきた訳だ。



『​わっ、デビビランみたい!かっこいー!!』


『でびびらん……??』

ㅤ最初は訝しむ程度だった男の勘が確信に変わったのは、明日香が男に抱き着いた時かもしれない。それほどまでに嗅覚が優れているなら、抱き着いた拍子に妹の『匂い』とやらが香ってもおかしくはない​──。


ㅤ映画館内でルール違反やマナー違反を冒した観客は、大抵の場合映画館から追い出される。それはチルドレンシアターでもどこの映画館でも、きっと同じことだ。


​ㅤじゃあ、この映画はもう終わるのか?


​ㅤまたいつもの最悪な日常に戻るのか?


​ㅤそんなの嫌だ。


ㅤ兄の死んだ理由を解明するという目的を忘れ、虚像となった兄との再会の喜びに溺れてしまった湊明日真は、映画の上映終了を何よりも恐れた。ただ只管に、あの家には二度と帰りたくない一心だった。


「まあ、私にだって慈悲のひとつくらいはありますよ。それに、普段裏方に回っている私が急に表に出て子供観客のチケットを無効化したら、怒られてしまいます」


「じゃあ……!」

ㅤ男が流した助け舟に明日真が飛び乗るより先に、男は期待を踏み躙るように狡猾に笑う。その愉快気な微笑みが、『ルール違反者が劇場内に居残れる訳ないじゃないですか』とでも語っているようで、明日真は肩透かしを喰らったような気分になった。



「でもルール違反はルール違反。ここはひとつ、秘密の取引をしませんか?」



​──ここからが本題だ。

ㅤフードから覗いた深紅の蛇の目が、今までの全てをそう物語っていた。


「取引……?」

ㅤごくり、と唾を飲む。

ㅤ敵にも味方にも見えない飄々とした蛇の思考は、何一つ掴めない。


「私は貴方に今から〝とある秘密〟を教えます。そして、貴方にはその秘密を聞き、私の言う手順通りに『頼み事』を遂行してほしいのです」

ㅤ男は口元に人差し指を立て、先程よりも小さな声で話を進める。


ㅤ秘密と頼み事。

ㅤどんな内容なのか、どちらも全く想像がつかなかった。


「勿論、素直に頼み事を聞いてくれたら、報酬として貴方が望むことをなんでも叶えましょう。貴方の寿命が尽きるまで、この『映画』を観続けることだって可能です」


「映画を、観続ける……」


「その代わり、貴方が『頼み事』を遂行できなかった場合は、チケットを引き裂き貴方を未来永劫入場禁止とします。貴方の夢は壊れ、家庭環境は更に悪化することでしょう」


ㅤそれはまるで、一方的な死亡宣告だ。

ㅤチケットの損失を囮に出されては、例え男の言う『頼み事』がどんなに惨い内容でも受け入れる外選択肢が無くなる。この短時間しか会話を交わしていないはずなのに、相手の弱点を全て熟知したかのような口振りに、明日真は数滴の冷や汗を垂らした。



「​湊明日真くん。頼み事、引き受けてくれますよね……?」



​──逆らったら、全てを破り捨てられる。


「​……わかった、引き受けるよ。僕は何をしたらいい?」

「ありがとうございます。恐悦至極に思います」

ㅤ明日真が大きく頷くと、男は今までにない無邪気な笑みでにこにこと微笑んだ。「では早速ですが​、」と話を進めるその所作すらウキウキしているように思えて、どこか子供じみている。



ㅤ男は席から立ち上がり、椅子に座ったままの明日真の前に跪く。そのまま男が明日真の手のひらに固く握らせたのは、






「──貴方には、人殺しになって頂きたい」



銀色に光る、一本のナイフだった​──。





​──十分後​



男は、男が知る〝秘密〟を全て明日真に共有した。


『今私がお伝えした頼み事を遂行した後は、貴方が望むなら何度でも此方の映画の中に戻ってこられますから、ご安心ください』


男は、絶望した表情の明日真を慰めはしなかった。


『貴方のお兄さんと妹さんには私の方から話を付けておきますから、気兼ねなく扉の外に来てくださいね。それでは、健闘を祈ります』


男はそう言うと、明日香の夢と希望が詰まったチケットを持って、玄関の扉から去っていった。



ㅤもう二度と一人きりで外に出たくはなかったのに。

ㅤ出来ることならこのまま両親の帰りを待って、家族みんなでクリスマスパーティがしたかったのに。


ㅤ兄が買ってくれたチョコケーキを食べ切る暇もなく、蒸し暑い晩夏に帰らないといけない時が来てしまった。いつだって、幸福の終わりは呆気ない。


「おにいちゃん、早くかえってきてね!」

「行ってらっしゃい、明日真」

ㅤブーツを履き、冬用のコートに身を包んだ僕を、兄と妹が元気な笑顔で見送ろうとしている。あの男が勝手に説明を進めたからか、二人は僕が『冬休み前に学校に忘れた荷物を取りに行くだけ』だと思っているようだ。


「…………」

ㅤ一年前の明日香は今より頬がぷっくりしていて、服もしわしわじゃなくて、可愛い。

ㅤ今も可愛いけど、僕は家事が下手くそなせいで、たまに扱いを間違えて折角の洋服をしわしわにしちゃうんだよな。兄貴が生前買ってくれたらしいお気に入りのワンピースをしわしわにしてしまった時は、三日三晩口を聞いてくれなくなったっけ。


ㅤ兄貴は一年前も、二週間前も、特に何も変わらなかった。貧乏でも今を一瞬一瞬大切に生きて、バイトも勉強も家事も両立出来ていた兄貴は、きっと地頭がいいんだと思う。うちがもうちょっと裕福だったら、しなくて済んだのにな。


ㅤ兄貴に心から頼れる人がいたら、兄貴は死ななくて済んだのに。僕がもう少し要領が良くて、気前がいい賢い弟だったなら、兄貴は死ななかったのかもしれないのに。



あーあ、情けないな。



「……兄貴」


ㅤ玄関の扉を開ける直前、軽やかな声でそう呼ぶと、真人は首を傾げながら笑って見せた。思わず、此方の頬も緩んでしまう。



「僕さあ、兄貴のこと、尊敬してたんだ。憧れだった。だからさ」



「明日真……?」

ㅤ何言ってるのかわかってない顔。でも、全部わかっちゃったら、兄貴はきっとまた無理をする。


​──僕が、兄貴と明日香を守らないと。



「……僕、兄貴のために、頑張るよ!」



僕は僕の夢を守るために、人殺しになるんだ。



「​──明日真!」


ㅤ逃げ去るように扉から出ていった弟に、兄の声は届かない。家族揃って過ごすはずだったクリスマスのワンシーンは、呆気なく幕を下ろす。


ㅤ湊明日真の映画は、上映終了した。



​※ㅤ※ㅤ※



身体が動かない。

声が出ない。

視界が低い。


ここは、どこだ?俺は、誰だ?

今まで何をしていたんだっけ​──。


「よう、兄弟。目が覚めたか。さっきは大変だったな」


「​──?」

ㅤ聞いたことのあるような、無いような。

ㅤ少なくとも馴染みがない声に話しかけられるも、顔を上げたくても上げられなかった。今、自分の体はどうなっているんだろう。


ㅤ見渡す限り先が見えなくて、辺り一面が雪化粧を施されたみたいに真っ白だ。どこが壁で、どこが床なのかの判別すら付かない。


「ここはオレの映画の中だ。オレがいろんな映画を探索してたら、いきなり血塗れのマントを被ったあんたが空から降ってきてびっくりしたよ」


ㅤ血塗れのマント​。

ㅤああ、なんとなく思い出してきた。確かさっき、ピエロ服の少年に白いマントを羽織らされて、その後海辺に行って。それで​、次はどうしたんだっけ。


​──今、俺はどうなってるんだ?


「オレのが、応急処置としてあんたをぬいぐるみの姿に変えちまったよ。安心しな、あんたが未来の『選択』を間違わなければ元に戻れるさ」


ㅤ生みの親って誰だ。そもそも君は誰なんだ。

ㅤ人間がぬいぐるみになるなんてこと、有り得るのか?


ㅤ聞きかねていると、黒い学ラン姿の見目麗しい少年が目の前に現れた。此方に目を合わせるために大きく屈んでいる少年の手には、小さな手鏡が握られている。


​──!?


ㅤ少年の言う通り、銀色のそれに映し出された自分の姿は、黒い熊のぬいぐるみになっていた。


​──俺、誰だっけ?ぬいぐるみになる前は、どんな姿だった?


「あんたは千望セツナだよ。寝ぼけてんのか?まあ無理も無いか、重症だったしな」

ㅤ少年は俺に名前を教えると、わしゃわしゃと頭を撫でてきた。丁度胸に抱けるサイズの小さなぬいぐるみだからか、今にも軽々と抱き上げられてしまいそうだ。


ㅤ俺の名前は千望セツナ。

ㅤそして、彼の名前は椎名未希。

ㅤうん、段々思い出してきた気がする。


​──あれ、でも、君は探偵になりたいんじゃなかった?なんで映画の中がこんなに白いんだ?


「さて、どうだろうな」

ㅤ探偵といったら、ミステリー映画やスプラッター映画を想像するけど、未希は真意を教えてはくれなかった。未希は屈んだままだと足が痛いのか胡座をかくと、改めて此方と目を合わせてくる。


「セツナはチルドレンシアターの秘密を暴いて、外に出たいんだろ?なら、オレと利害は一致してる。手を組もう」


ㅤ肉球の付いた俺のもふもふの腕と、未希の人間らしい白い手が重なり合う。いや、重なり合うというよりは、未希の手の方がかなり大きいから、覆い被さるの方が正しいかな。



​──君は何者なんだ……?


「好きに名前を付けるといい。あんたはアダムだ」


ㅤアダム​──確か、聖書に出てくる神が最初に創造した男の名前だ。逆に、神が最初に創造した女の名前はイブだったかな。エバともイヴとも言うらしいけど、神話に関しては弟の方が詳しいから、詳しくはわからない。


ㅤ未希は一体何者で、どこから来たんだろう。

ㅤなんで俺をアダムと呼ぶんだろう。俺と手を組みたいと言うけど、その果ての目的は何なんだろう。


ㅤそういえば、こうして未希の目元をよく見てみると、俺をダーリンと呼んだ『あの子』に少し似ている​──。


「​でも、今のセツナじゃちょっと信用しきれないなぁ」


​──どうしたらいい?今の俺には何ができる?


ㅤ如何せん、ぬいぐるみの姿では何も出来ないのが確かだ。未希が何を考えているのかわからなくても、今は藁にも縋る思いでその手を握るしかない。握れないけど。


「よし、こうしよう」


ㅤ未希は数秒考え込むと、何か思い付いたかのようににっと笑った。


「今から、ちょっとした探索に行こう。それであんたがオレが望む方向に映画の内容を導けたら、オレはあんたに協力するよ」


​ㅤつまり、信用か不信を得るテストか。

ㅤまだ今までの全てを思い出した訳じゃないし、全てを思い出すには記憶の材料が足りない。チルドレンシアターの管理人がトイだということはわかっても、トイとどんな会話を交わしたのか、記憶が曖昧だ。


ㅤ俺にチルドレンシアターの真実を教えてくれたあの子が、どんな名前だったかもわからない。あの子に伝えたいことがあったはずだけど、それすらも思い出せない。


でも、


​──やれるだけやってみるよ。


「いい返事だ。そう来なくちゃ」

ㅤ未希はご機嫌に微笑むと、ぬいぐるみの姿となったセツナの身体を抱き抱えた。そういえば、何も口に出せないのに、どうして言葉が通じるんだろう。そんな疑問は、急に視界が高くなった恐怖に全て掻き消される。


​──怖い!下ろせ!うわああ!!


「大丈夫。あんたはあの子のダーリンだから、死んだりしないさ」



ㅤその晩、黒い熊と椎名未希は手を組んだ。




​※ㅤ※ㅤ※



ㅤ次に視界が晴れた時、セツナと未希は学校にいた。

ㅤ詳しく言えば、教室の片隅に、未希がセツナを抱き上げたまま立っている形だ。窓から見える夕日は既に沈みかけているから、夕方だろうか。


ㅤ壁掛け時計の針は十六時十分を差していて、秒針はしっかりと


​──内装を見れば一目でわかる……ここは、俺が昔通っていた小学校だ。


「へえ、小学校なんて初めて来た。もっと本棚とかがいっぱい敷き詰められてて、席は五人分くらいしかないのかと……」


​──そういう教室もあるけど……って、未希くんは小学校に通ってなかったのか?義務教育は法律で定められてるぞ?


「え、そうなん?いやー、オレも無知だなあ」

ㅤ未希はそう言って豪傑に笑ったけど、笑い事ではない気がした。


ㅤしかし、セツナが何か言うより先に、未希はセツナの身体をひょいひょいと動かして周囲を見回させる。すると、目が回って盛大に目眩がした代わりに、まだ教室内に残っていた二人の小学生が目に入った。


ㅤ丁度教壇が目前にある最前列の席に隣同士で座った少年達は、自分の机に作文用紙を置いて、何かを熱心に書いていた。

ㅤ右の席の少年は既に書き終わり、確認も済んだのか筆箱をランドセルにしまい始めている。その反面、左の席の少年は書き終わらないのかうんうんと唸っている。どちらも此方には気付いていないようで、未希が近寄っても目線ひとつ合わせなかった。


あの子は​──。


ㅤ左の席に座ったその少年を見て、セツナは背筋が凍るような気分になった。今は背筋無いけど。



「ねえ、セツナは明日の作文コンクールの原稿書けた?」


ㅤ左の席の少年は悩みに悩んで何も進まなかったのか、右の席に座る少年​──小学生の頃のセツナに向かって話しかけた。


「うん、書けたよ!お父さんにも添削してもらったんだ、明日が楽しみ!」


「へえ、見せて見せて!」

ㅤ一見、幼い頃の自分が、当時の親友と陽気に作文を見せ合って笑っているように見えた。これも『映画』のワンシーンなら、あの時の自分がこれからどんな結末を辿るのか、わざわざ観せて貰わなくても身に染みてわかる。


「あれは……小学生の頃のセツナか?」


​──ああ。よく覚えてるよ、この光景。


「ふーん。で、あっちは?」


​──あの子は昔隣の家に住んでた幼馴染で……中学と高校は別だから今はもう疎遠だけど、仲は良い方だったと思う。


ㅤ未希は「どっちも生意気そうな顔してんなぁ」と笑うだけだったから、少し安心した。無闇矢鱈に深掘りされるより、どんな話も笑って流してくれる方が、話していて気が楽だ。


ㅤ二人が書いているのは、『将来の夢』をテーマにした作文コンクールの原稿用紙だ。幼い頃のセツナが書き切った用紙のタイトルには、汚い字で『ぼくの夢』とでかでかと書かれている。それを一文字一文字しっかり読んでは感想を落とす少年は、今こうして改めて見ても、純真無垢そのものに見えた。



「ぼく、大人になったらぜーったい警察官になるんだ!」



ㅤ在りし日の千望セツナは、まだ何も知らないから笑えている。

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