第4話ㅤ泣かないで
ㅤ時間はずっと止まっている。
「……なんで?」
ㅤ目の前に倒れている元『ダーリン』──千望セツナは、本棚から落ちる洋書から涼夏を庇うため、すぐさま覆い被さることで涼夏の身を守った。
ㅤけれど、二人の身体が密着した瞬間、涼夏が手に握っていたナイフが彼の胸を突き刺してしまった──。
「なんで動かないの?」
ㅤ彼の死を視認してから、もう十分以上は経過している。ㅤ壁掛け時計の秒針こそ動かないけれど、段々と青白く染まっていく彼の顔色が、肉体自身の時間経過を物語っていた。人体を流れる血液が重力に逆らえず血の気が無くなり、露出した肌が蒼白くなるまでにかかる時間は、死後約十五分。
ㅤ十五分もの間、涼夏は死体に同じことを問い続けていた。
『──俺は、君のダーリンじゃない!!』
ㅤ先程彼に吐き捨てられた言葉が、彼女の耳にずっと木霊している。今までの『ダーリン』は、真っ向から此方の呼び名を否定してくることはなかった。大抵照れるか、数回呼べば聞き慣れるか、受け入れるかのいずれかだった。
「なんで、あんなこと言ったの。どうして怒ったの、なんで」
ㅤお医者様も、トイも、あの人も、今までのダーリンも、わたしを否定したりしなかった。あんなに怒ったり、怒鳴ったりしなかった。
ㅤきっとそれは、『愛』があるからで、わたしが正しいからだと思ってた。
『そんなのは、愛じゃないよ』
ㅤ愛じゃないなら、なんだと言うの。
「──わたし、間違ってたの?」
ㅤ涼夏はその場に座ったまま光の映らない瞳でセツナを見下ろし、セツナの手を両手で握る。セツナは先程のように何か言い返したり、手を握り返したりはしなかった。
ㅤこのままセツナの時間が過ぎてしまえば、セツナの手のひらは、身体は、今よりももっと冷たくなってしまう。胸から流れた血液が暗い赤紫色に変色して、やがて身体全体が黒くなって、原型が保てなくなる。
ㅤ人が死んだらどうなるか。
ㅤその成れの果ては、知っていた。
「……ごめんなさい……」
ㅤ涼夏は血飛沫がかかった白いマントをセツナに被せると、首元のリボンを固く結んだ。
『映画』内の視覚や聴覚以外の全ての影響を受けない、魔法のマント。わたしが『ダーリン』と呼び、それでいて将来の夢に迷っている子供にトイが毎回羽織らせていた必需品。
──これを被らなかった
ㅤトイのその言葉を逆手にとって、新しいダーリンが出来る度、どうにかしてマントを脱がせようと奮闘していた。だって、マントを脱げば、ずっと一緒にいられるから。エンドロールにお互いの名前が一番最初に流れるくらい、相思相愛に添い遂げられると思ったから。
ㅤ誰も脱いではくれなかった。
ㅤトイは意地悪だから、きっとダーリンの方にもマントを脱いだらどうなるかを教えていたんだと思う。六番目までのダーリンはみんな『映画』から出られなくなることを恐れて、どんな時もずっとマントを羽織ったままでいた。
「…………」
ㅤでもこの人だけは、わたしが強引に脱がしても嫌がらなかった。本心では嫌だったのかもしれないけど、また羽織りだすより先に、身体を隠させるためにわたしに向かって投げ捨てたの。
──どうして?
どうして、そんなことをしたの。どうして、トイの警告を無視したの。
ㅤその問いの答えがわからないまま、涼夏は瞳いっぱいに涙ぐんだ。すると、どうしたらいいかわからない涼夏の頬に、柔らかい布の感触が当たる。
ㅤいつの間にか涼夏の『映画』に来訪していたトイが、星が描かれた白いハンカチで涼夏の涙を拭ってくれていた。
「君は間違っていないから、謝らなくていいんだよ。むしろ正しい」
「トイ……」
ㅤ地べたに座ったままの涼夏の隣に同じくしてトイもしゃがみこみ、惨めな死体の姿を満遍なく見通す。涼夏に認識阻害のマントを羽織らされたことで、人体としての時が止まっているそれは、肌が青白いまま容態ひとつ悪化せずに静止していた。
「その子は賢すぎたのさ。価値観が子供じゃなくて、『大人』だった」
ㅤトイは涙ひとつ零さないまま、涼夏の両手に付着した血液をハンカチで拭き取った。『大人』の汚い血液が、白の布地を穢していく。
「夢に溺れない大人は、お菓子の味がわからない。景色が二転三転と変わっても、本心からは楽しめない。着ぐるみを見てはしゃぐより先に、着ぐるみの中に何が入っているのかが気になってしまう」
ㅤ確かに、セツナはデート中に満面の笑みを見せたりはしなかった。りんご飴を食べても食感に文句を言うだけだったし、涼夏のくだらない雑談に大笑いしたりもしなかった。
だけど、
『デート、楽しかったね。ダーリンは楽しかった?』
『ああ。色々連れ出してくれてありがとな』
あの会話は、嘘だったの?
それすらももうわからない。確かめる方法もない。
ㅤ彼との会話を思い出しては情緒が乱れ、涼夏の瞳からは大粒の涙が零れる。それを全てハンカチで掬い、綺麗に拭いながら、トイは静かに歯を見せた笑みを携える。
「……チルドレンシアターに、大人はいらないよね?」
──そうやってずっと待っていても、死んだ人は帰ってこないのよ。
いつの日か胸に刺さった言葉を思い出して、涼夏は酷い頭痛に襲われた。
「…………いら、ない」
ㅤ反射的に涼夏がそう答えると、トイは頬を引き攣らせて笑った。トイが指を鳴らせば、セツナの死体は跡形もなくマジックのように消え失せる。血に染まった床も、返り血を浴びた涼夏の制服も、まるで何事も無かったかのように綺麗になった。
「……っ!」
ㅤわたしのせいで死んだ男。わたしのために死んだ男。わたしの七人目の『ダーリン』の姿が煙と共に消え失せて、息が擦り切れたような声が漏れた。
「……トイ、お願い、わたしから離れないで。怖いの」
ㅤどうしたらいいかわからない。どうしたら良かったのかわからない。でも、もう後戻りはできない。
ㅤ全部怖くて、もう何も観たくなくて、涼夏はトイの身体に抱き着いた。涼夏の身体より小さくて細いトイの身体は抱えきれずに床に落ちたけど、幼い手のひらが優しく抱き返してくれる。そうしてトイが涼夏の耳元で囁いた言葉は、
「僕が君のダーリンになるよ」
ㅤ涼夏にとって、最も残酷な慰めだった。
「だから、どうか泣かないで。ずっとここにいよう。ずっと傍にいよう。今夜の仕事は副管理人に任せたから、上映終了まで一緒にいられるよ」
「うん、ありがとう……トイ」
ㅤトイの幼い手で頭を撫でられながら、涼夏はトイの首元に顔を埋める。人の姿でありながら、匂いも温もりもないその身体は、涼夏を安心させるために事足りはしなかった。
ㅤトイの上に伸し掛ったまま、自分の手のひらを見つめてみる。よく言えば、小指を。
『ね、また、ダーリンが退屈な時はデートしようよ。今度はダーリンがデートプランを考えて、エスコートしてね』
『それはいいけど……センス無くても、文句言うなよ?指切りな』
ㅤ彼が指切りしてくれた時、マントを羽織っていた彼の指はトイと同じで体温が無かった。でも、そんなことどうでも良くなるくらい、彼はわたしの心を温めてくれたの。
──本当に、わたしは正しかった?
※ㅤ※ㅤ※
──一週間前
「チルドレンシアター?」
ㅤ
ㅤ田舎町の古びた団地の一室で、次男は妹と食後の皿洗いをする。窓から見える空模様は夕暮れ時に差し掛かっていて、今はちょうど妹のおやつタイムが終了した頃合だ。朝食に使った皿も含めて、夕食準備の前に全ての食器類を綺麗に洗浄していく。妹は洗い終わった後の食器を布巾で綺麗に拭く係だ。
「うん!あのねえ、おほしさまにお願いしたら、ちけっとがもらえるんだよ!朝起きたらとなりにちけっとがおいてあって、びっくりしちゃった!」
「……またそういって、お兄ちゃんを驚かせるつもりだろ。僕はその手には乗らないぞ」
「ちがうもん!ほんとだもん!」
ㅤ妹が皿洗いの最中に出した単語を、最初は幼稚園で流行っているアニメか何かだと思ったけど、どうやら違うらしい。思い通りの反応が得られなかった六歳の妹は地団駄を踏み、可愛らしく頬を膨らませた。
ㅤこの家にはテレビもないし、僕は高校生だけど、スマホも持ってない。母は精神病を患って寝室で寝たきりだし、父は一日中働き詰めだ。かくいう僕も家事やバイトで忙しいから、流行りに乗れる余裕は無い。
ㅤでも、貧乏なことを理由にして、妹が話したい話題から注意を逸らすのも違う気がする。
ㅤ次男は皿洗いを終えて夕食の準備を終えると、空いた時間で父の部屋にあるパソコンを使い『チルドレンシアター』について調べた。幼稚園児の妹が話題に出すにはどこか奇妙じみた噂話で、にわかに信じ難い。
夢が叶う映画館ってなんだよ。アホか。
ㅤ次男は更に調べ尽くし、使用人口の多いチャットサイトでも『チルドレンシアター』と検索をかける。噂話として巷に情報が流れ出してからまだ日が浅いからか、わざわざ話に出しているアカウントは少数だった。
──チルドレンシアターって本当にあるの?最近話題だけど。
──私の学校の子、何人か行ったらしいよ。星が綺麗な日に、空に向かって『夢が叶いますように』ってお願いしたら、チケットが手に入るんだって!
──うっそくさ〜い!
ㅤ信じている人が半分、信じきれていない人が半分、といった具合か。僕は信じきれていない部類だけど──そういえば、二週間前に自殺した兄の遺書にも、似たような話が書いてあった。
「……明日香はなんてお願いしたんだ?」
「えっとね、えっとねえ」
ㅤパソコンを閉じて、背後の座布団の上に座っていた妹・
「もうおかあさんもおとうさんも、
ㅤ妹は、長男・
ㅤ妹が幼稚園に行っている間に近所の病院の屋上から飛び降りて自殺したことは知らない。母も父も僕も、真実は教えなかったからだ。
「そうか。明日香は兄貴思いだな」
ㅤぽんぽんと明日香の頭を撫でて、次男・
ㅤ目を伏せて、全ての記憶を一旦脳裏の奥底に葬り去る。
ㅤ家族の幸福を願う妹の前で兄が死んだ日の事を思い出して、みっともない嗚咽を漏らしたりはしてはいけない。少なくとも、真人だったら明日香の前で泣いたりしない。
「なあ明日香、ここに書いてある八月十五日は何の日か知ってるか?ヒントは一週間後の火曜日だ」
ㅤ明日真は感情を押し殺して陽気に笑うと、妹が手に持ったチケットの上映日付に指を差す。妹が好みそうなお洒落な星空柄のチケットには、大きく『Children Theater』、小さく『8/15ㅤ20:00ㅤticket』と白いゴシック体の英字で刻まれていた。
「えっとねえ、ようちえんのお泊まり会!……あっ」
「あれ〜、じゃあお前はチルドレンシアターに行けないな?折角チケットがあるのになぁ」
「むむぅ……」
ㅤ不貞腐れたように眉を曲げる明日香の頬を明日真はもちもちと軽く撫でながら、明日香の手から入場チケットを受け取る。
「兄ちゃんが明日香の代わりに、明日香の『夢』を叶えてくるからさ。明日香はお泊まり会を楽しんでくること。約束だ」
「ちぇ〜。わかった、おにいちゃんはえいがを楽しんでくることー!」
「いい子だ」
ㅤえへへ、と笑いながら首に腕を回してくる明日香の身体を、明日真は慈しむように抱き寄せる。これで、真偽不明の怪しい映画館に幼稚園児の妹が一人で向かう心配は無くなった。
──家族の皆へ。
──うちには金が無いのに、葬式代とか、諸々にお金を使わせてしまってごめんなさい。最期まで負担ばかりかけてごめんなさい。
──俺が死ぬのは、学校の皆のせいでも、家族の皆のせいでも、バイト先の人のせいでも、誰のせいでもありません。俺のせいです。俺以外は、誰も悪くありません。
──俺が一番悪いんです。
──ごめんなさい。お母さん、体に気を付けてください。お父さん、期待に添えずごめんなさい。明日真、明日香、俺の分も生きてください。
──俺は大人になれません。湊ㅤ真人
ㅤ二週間前に自殺した兄の遺書の一枚目は、そんな内容だった。どこまでも自己否定に溢れていて、自信の欠片もない文章は、最初は本当に兄が書いたのかと疑ったものだ。実は学校でいじめられていて、誰かに強引に書かされたんじゃないかとか。兄を憎む誰かが勝手に書いて、病院の屋上から兄を突き落としたんじゃないかとか。
ㅤでも、
ㅤ疑い、憂い、泣き崩れた両親は、自分達の収入の低さが息子を追い詰めたのだと思い込み、笑い方を忘れていった。だが、僕は、兄が自殺した理由は別にあることがわかっている。
ㅤ兄の遺書の〝二枚目〟を読んだからだ。
ㅤ宛先に『リョウカへ』と書かれた兄の遺書の二枚目は、兄と僕の部屋の机に置き去りにされていた。
ㅤその部屋は兄弟で使う部屋だったから、二枚目が入った白い封筒は、一番最初に僕の目に留まることになった。封筒には『この封筒を見つけた人は、隣町の総合病院に入院しているリョウカさんに届けてください。リョウカさん以外は読まないでください』と記載された付箋が貼ってあったけど、どうしても兄の自殺の理由が知りたかった僕は、一目散に封筒を開けてしまった。
──リョウカへ
──映画館に置いていってごめん。
──でも、やっぱり俺は意気地無しだった。お前にあんなことを言っておいて、一人で海外に行く勇気なんてなかったんだ。
──今更遅いかもしれないけど、お前が考えたデートは楽しかったよ。ありがとう。
──いつかまた会えたら、その時は、ちゃんと謝らせてほしい。湊ㅤ真人
ㅤ後々隣町の総合病院について調べたけど、入院している患者に『リョウカ』なんて名前の人はいなかった。兄のクラスメイトにも、バイト先にも、そんな名前の人はいない。遺品のひとつだった兄のスマホにも、その人の連絡先は入っていなかった。
ㅤ証拠が無い以上、両親に話しても遺書の件は信じてはくれないだろうし、誰にも打ち明けずに今日まで生きてきた。
ㅤ誰にでも優しくて、驕らず、家族思いの兄。
ㅤ頭脳明晰で、運が良くて、海外への留学も決まっていた高校二年生。
ㅤ未来の栄光が約束された『人生の勝ち組』。
そんな兄──湊真人が、海外に飛行機で飛び立つ一週間前に突如自殺した理由。
チルドレンシアターに行けば、全ての真実を突き止められるかもしれない。
※ㅤ※ㅤ※
──八月十五日
ㅤ真実を突き止めるためとはいえ、人は簡単には変われないもの。
ㅤ明日真は普段明日香の子守りと家事に全ての自由時間を費やしているし、夜の外出なんて未経験だ。それも、来たことのない森にある映画館なんて以ての外。木々の揺れにすら怯えながら、重い足取りでなんとか到着出来た。
「お前ら、こんな意味不明な場所に来てよくもまあそんな呑気にいられるよな」
ㅤ自分の左の席を指定された男子高校生二名と、奥に座る女子高生一名に毒を吐きたくなるくらいには、明日真は現状に辟易していた。
ㅤ夜道を歩くのが怖いからわざわざ十八時には到着するように歩いてきたのに、誰も知人のいないホラーチックな場所に一人で来たという緊張感が祟り、上映時間までの大半をレストルームで過ごしてしまった。自分がトイレで胃を痛めている間も他の観客は呑気に過ごしているのかと思ったら、毒を吐かずにはいられなかったんだ。
──お前はたまに口が悪い。よって、お前はモテない!もうちょっと人に優しくなれ!
ㅤ別にモテたい訳じゃないけど、腹痛に悩まされている時ですら生前の兄の言葉を思い出して、レストルームの中で一人泣きそうになる。
ㅤ泣いたらいけないのに──。
──。
《──君の夢も叶えてあげる。強引に、純真に、至極真っ当に!》
ㅤスクリーンの中の自称管理人・トイがそう叫ぶと、シアター内に歓声の嵐が巻き起こる。どの席に座る子供も、自分の夢を早く叶えたくて仕方がないようだった。
ㅤ左隣の席の少年少女にろくな挨拶もできなかったくせに、明日真は一応受付係の兎に言われた通りにアンケートは提出した。なりたいものだけじゃなくて、自分がやりたいことや成し遂げたいことでも構わないらしいから、必須項目である空欄には『妹の夢を叶えたい』と記載して。
「おいおい、嘘だろ。セツナの奴、もう寝たぞ!まだ映画も始まってないのに……!あはは!」
「眠かったんじゃない?」
ㅤ左隣の席に座る男子高校生が、そのまた左隣の席に座ったまま寝ている男子高校生を見て爆笑している。寝ているというには寝息が聞こえない気がしたけど、同列の席に座る誰も気にしていないようだったから、明日真も気にかけるのをやめた。それに、明日真はそんなことより──、
ㅤまた、化け物が出てきたらどうしよう。
ㅤそのことで頭がいっぱいだった。
ㅤ折角噂の映画館に来たというのにレストルームに篭ってばかりいた明日真は、上映時間五分前にやっとレストルームを出たものの、いつの間にか誰もいなくなっていたロビーを見て愕然とした。それよりも驚いたのは、ロビーの床を蛇のような化け物が這いずっていた事──。まるでシアターに行き忘れている
ㅤあれはなんだったんだろう。
《あ、説明しておかないと。映画が始まったら、映画が終わるまでに映画内で『夢を叶える方法』を見つけてほしいんだ。見つけられないと、君達の夢は叶わないからね!》
「はーい!!」
ㅤシアターに着いても尚震えている明日真なんて置き去りに、周囲の子供が画面上の管理人に向かって元気に手を振っているのが恨めしい。こっちは、あの化け物の姿を思い出したくもない程疲弊しきっているのに──。
《因みに、ヒントが欲しい子や、上映中に夢が叶えられなかった子は、僕の名前を呼んでくれれば何度でも同じ映画を再生するよ!さーて、僕の名前はなんだったかな?》
「トイ〜!!」
《いい返事!大丈夫そうだね……何かあったら、映画のエキストラとして参加している動物達に聞いてね。みんな子供が大好きで、優しい子揃いだから!》
ㅤきっと、元気よく返事をしている子供達の中には、兄の死因を突き止めるためにここへ来た子なんていないんだろう。
「はーい!!」
「はやくはやくー」
「映画まだー?」
ㅤ妹と同じくらいの歳の子供達が、最前列でわいわいと騒ぐ。兄だったらきっと微笑ましく眺めていただろう。でも、僕は兄みたいに寛大にはいられないし、怖かった経験を引き摺ってばかりいる。今だって、化け物がここに忍び込むんじゃないかと、不安で仕方ない。
《あっはっは、そう急かさないで。では、長々と説明をするのもなんだから、そろそろお喋りは終わりにしよう。みんな、スクリーンに注目〜!》
ㅤトイと名乗る管理人は溌剌と笑うと、両手を大きく此方に差し出す。劇場にいる全ての
《どうか、今晩の君達がいい
ㅤ言い終えた管理人が華麗にウインクをすると、呼応するように明日真の視界は白く濁った。
「明日香と、兄貴のためだ……っ」
ㅤ不安も、恐怖も、後悔も、執念も。
ㅤ家族が笑える明日のために、勇気へと昇華させていく。
ㅤ
※ㅤ※ㅤ※
──噂は事実だった。
「起きろ、明日真」
ㅤ頬を薬指の関節でこつこつと軽くつつかれて、机に突っ伏して微睡んでいた明日真の意識はゆっくりと覚醒していく。目は閉じたままでも、ここが自宅の居間であることは匂いや机の感触でなんとなくわかった。
ㅤ今の季節は夏なのに、どこか暖かい。なんでだろう。
「おい、明日真。あすま〜、湊明日真くーん」
「ん……?」
ㅤ聞き慣れた声だけど、もう聞けない声。
ㅤ聞こえるはずのない呼び声がして薄目を開けると、明日真は目の前の光景に息を飲んだ。
「──兄貴?」
ㅤ居間の中心に置かれた大きな卓袱台を、自分と妹が、そして死んだはずの兄が囲んでいる。喜びとも驚きとも言い難い感情が込み上げてきて、明日真はそれ以上声を発せられなかった。
「兄貴だけど……寝ぼけてんの?折り紙してたら急に寝だしてビビったぞ」
ㅤ卓袱台の上には色とりどりの折り紙が置かれていて、既にサンタクロースやトナカイの形に折られた完成品もある。居間の奥には小さなツリーが飾ってあるし、ストーブも点いている。明日真自身は現在の高校ジャージではなく中学生の時の指定ジャージを着ていることから、この場面は去年のクリスマスであることを理解した。
「みてー、おほしさまつくった!ツリーの一番上に飾るのー!」
「おー、いいじゃん!明日真も早く飾り作れよな〜」
ㅤ黄色の折り紙でガサツな星を作った明日香が、真人に頭を撫でられて喜んでいる。僕より撫で方が上手いなと、未だ呆然としたまま思った。
「……兄貴、海外に行くんじゃなかったのか?医学の研究者になるんじゃ」
「明日真、お前やっぱ寝ぼけてんだろ……」
ㅤ真人は明日真の言葉に苦笑いを返すと、お前の頭も撫でてやろうかと言わんばかりに明日真の頭をわしゃわしゃと撫で回した。確かに感じる体温に、目の奥に堪えた何かが溢れ出しそうになる。
「俺の夢は、学校の先生になることだよ。そりゃ、医療に関わる仕事に就いた方が金は稼げるだろうけど……研究なんて出来るほど頭良くねえし」
ㅤ真人は明日真の頭を撫でるのをやめると、手元の折り紙で手早くクリスマスベルを折って見せた。完成品を明日香の髪に飾って「ん、かわいい」と微笑んでから、再び視線を合わせてくる。
「学校の先生になって、俺達みたいに夢が叶うかもわかんない子供の手助けをしたいな。貧乏だとかいじめられてるだとか病気だとかで夢叶えらんねーの、不平等だろ」
「……そうなんだ……そうだった、よな」
ㅤそうだ。
ㅤ最近は兄の葬儀や様々な手続きで家全体がバタバタしていたから忘れてたけど、兄は海外留学なんて望んでいなかった。故郷からは離れずに近場の大学で教員としての勉強をするため、高校生の時点から寝る間も惜しんで勉強していたんだ。
あれ、じゃあ、なんで兄貴はいきなり研究者になりたがったんだっけ?
「おにいちゃん、ないちゃった!!大丈夫……!?」
「なんで急に泣くんだよ!?」
ㅤなにもわからないけど、今は兄が生きているだけで嬉しい。湊真人が、そこに座っているだけで涙が止まらない。
「仕方ねえなあ……」
ㅤぼろぼろと泣いたまま妹に背中をさすられている情けない次男の姿を見て、ふん、と鼻を鳴らしてから真人は席を立つ。そのまま台所の冷蔵庫を開けて、真人が取り出してきたのは、
「ほら、さっきコンビニで買ってきたケーキ!二つしかないから、お前らが食え!」
「わあい、けーきけーき!」
ㅤ去年のクリスマスに見た、パックに二つ入った貧相なチョコケーキだ。懐かしい。確か、兄は高校一年生だった当時からコンビニでバイトをしていて、バイト終わりに売れ残りを買ってきたんだっけ。
ㅤこれが一度見た事のある光景でも、ただの追想でもいい。八ヶ月後には兄の自殺を機に陰鬱とした空気が漂う我が家で、明るいクリスマスを過ごせることが、何より嬉しかった。
ㅤ明日真は明日香の分のチョコケーキを小皿に乗せて手渡してから、自分の分のチョコケーキに視線を落とす。
ㅤ確か去年の兄貴も、自分は食べずに僕達が食べている姿をただ見ていた。
「……兄貴も食べろよ。僕の分、半分やるから」
「いいよ。俺はポテチあるし」
「クリスマス関係ないじゃん」
「あはは、確かにそうだ!」
ㅤ何が面白いのか疑問に思うようなくだらないことにも大きく笑う真人は、笑みを絶やさないまま明日香の頬に付いたチョコクリームをティッシュで拭き取る。いつかは当たり前だった日常が、目の前に存在している。
「──泣くなよ、お前はお兄ちゃんなんだから」
ㅤ日常の所作のついでかのように呟かれた言葉だけど、確か、去年のクリスマスにも同じことを言われた。
ㅤあの時は、ただ立った拍子に転んで、痛みのあまり泣きかけただけだけど。変わることなく同じ言葉をかけられてまた涙が溢れかけたのを、明日真はごしごしと服の袖で目元を拭くことで持ち堪えた。
ㅤきっとこのまま待っていれば、元気だった頃の両親も帰ってくる。もう二度と戻れないと思っていた日常が蘇るんだ!
ㅤずっと、この
──インターホンが鳴った。
「お、誰だろ……はーい、今出まーす!」
ㅤ居間の壁掛け時計は午後八時過ぎを指している。帰宅したのが両親ならインターホンは鳴らさないし、宅配便だろうか。
ㅤ真人が元気良く玄関に走っていくのを見送りながら、明日真は気を取り直してケーキを頬張った。一口頬張るだけで、口の中いっぱいにとろけるような甘さが広がる。
「おーい、明日真!お前の知り合いだってさ」
ㅤ玄関から戻ってきた真人は、手に荷物を持っていなかった。中学生の頃の自分に夜間に訪ねてくるような知り合いはいないし、宅配便で無いなら、いよいよ誰かわからない。
「お前、あんなかっこいい兄ちゃんと知り合いだったんだなぁ。学校の先生か?」
「え……?」
ㅤ中学三年生の頃の担任教師は女性だ。男性じゃない。
ㅤ平穏が壊される。
ㅤ確証の無い悪い予感に胸騒ぎを覚えながらも、流石に自分が知らない人は出てこないだろうと思案して、明日真は玄関へと歩く。
「明日香ー、一緒にツリーの飾り付けするか!」
「はーい!」
ㅤ賑やかな日常会話が耳から遠ざかっていく。
ㅤ扉の向こうにいる〝誰か〟と話したら、すぐに逃げ帰ってしまいたい。暖かい日常に。眩しい夢の中に。
「ごきげんよう、明日真くん」
「……誰?」
ㅤしかし、それも叶わないのがこの映画だ。
ㅤ扉の先にいたのは、白いマントを羽織った全身白づくめの長身な男性だ。マントのフードごと深く被ってしまっているから、目元や髪型の判別は付かない。ただ明日真の瞳に映るのは、白い外套の中、両耳を飾った金色に光る蛇のピアスだけ。
「
ㅤ
ㅤ蛇のピアスの男はチルドレンシアターの副管理人を名乗ると、胸元に右手を添えて華麗なボウ・アンド・スクレープを見せた。白いフードがゆらりと揺れて、男の蛇の目のような瞳孔をした瞳が一瞬だけ露になる。
ㅤ洋書に出てくる悪魔のような、煌々と光る赤い瞳が。
「──立ち話もなんですから、中に入れてはくれませんか?」
ㅤ理想郷に突然来訪した蛇は、ニタニタと気味悪く微笑んでいる。
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