第3話ㅤあなたはアダム
「でででで、でーと?」
ㅤ聞き慣れず、言い慣れない。
ㅤ普段口に出す機会もない言葉。
ㅤ出会ってまだ一時間経ったか経ってないかの少女の誘いに、セツナは驚きを隠せないまま固まった。
ㅤ俺と、涼夏さんがデート?交際している男女が二人きりで思い思いの場所にお出かけする、モテない俺とは日本とブラジルくらい掛け離れたあの行為?
理解できない。
「そう、デート。二人でお出かけしよ。わたし、ダーリンとデートするために、ずっとデートスポットはどこにするか考えてたんだから!」
「でも、俺達付き合ってないけど……」
「細かいことはいいの。映画鑑賞は楽しんだもん勝ち!」
ㅤそもそも何故彼女は『ダーリン』と呼んでくるのかもわかっていないのに、そんな踏み込んだ手順に手を出して構わないのかと、セツナは苦悶した表情で考える。今の今まで恋愛とは無縁だったから、普通か異常かを測る物差しが無い。
ㅤ彼女の暖かい笑顔に、つい絆されそうになる。
ㅤけど、もし彼女が他の男性にもこうして初対面で『デート』に誘っているなら、それは諭すべきである気もしてくる。
「行くの?行かないの?行かないなら、ここに置いてっちゃうぞ〜」
「わ、わかったよ、行くよ……!!」
ㅤ倫理的に考えながらも、『置いていく』と言われると不安感が勝り、セツナは砂浜を走る涼夏の背中を追いかけた。余程嬉しかったのか、涼夏はけらけらと笑いながらその場に倒れ込む。そして、涼夏の頭が地につくよりも先に、先程までに喰らったものと同じ目眩がセツナの視界を覆っていく。
ㅤまるで、彼女が転んで怪我をすることを、誰かがタイミング良く阻止しているかのようだ。
ㅤぐにゃぐにゃと曲がった世界の中で、海は泡沫のように消えていく。映画のシーンチェンジの時が来たのか、セツナの意識も一度消えた。
※ㅤ※ㅤ※
──お祭り会場
ㅤこのマントが周囲の影響を受けないことはわかっていても、結局の所トイや涼夏の言う『映画』とはなんなのか不明瞭なままだ。セツナは最初のデートスポットに着ても尚、当たり前のように目先の事ではなく自身の気にかかっていることを脳裏に置いていた。
「りんご飴おいしい。ねえ、ダーリンは食べないの?」
「俺はいいから、好きなだけ食べなよ」
ㅤ神社のような建物に続く林の一本道を、数々の屋台が囲んでいる。たこ焼き、フランクフルト、かき氷、金魚すくい──各々の屋台で働く着ぐるみや、通行人として歩く着ぐるみの動きは止まっていても、一瞥するだけで夏祭り会場だとわかる景色がどこか懐かしかった。
ㅤ『映画』のシーンが切り替わる毎に俺と彼女の洋服も切り替わるのか、屋台に囲まれた小道を浴衣姿で歩く。俺の着ている浴衣は至ってシンプルな白の着物だけど、目の前を楽しげに歩く彼女の浴衣には黒い下地に色鮮やかな紫陽花が咲いていた。
ㅤもしこれが映画だったら、夏がテーマの恋愛映画のワンシーンだと思う。
「……わたしの『映画』は、わたしとダーリンだけの世界だよ。りんご飴、食べて!味わって!あーん!!」
「わかった、わかったから!口に突っ込むな!」
ㅤやっぱりコメディ映画なのかも。口をこじ開けながら大きなりんご飴を押し込まれて、千望セツナはその無味無臭の塊を噛み砕くしかなかった。
──水族館
「魚まで時が止まってるの、面白いよね。水槽って言うより、絵画みたい」
ㅤ壁一面を覆うアクアリウムを眺めながら、彼女はいつもより小さな声でそう言った。彼女が着ている黒のワンピースが館内の照明に照らされて、深海の如く青白い優美なグラデーションが出来上がっている。
ㅤその美しさに、思わず見蕩れてしまいそうだった。
「ずっと気になってるんだけど、なんでどこも時が止まってるんだ……?」
「時が動いたら、水槽を泳ぐ魚達がダーリンの虜になっちゃうからじゃない?」
「それはないだろ……」
ㅤ相変わらず篤実さのない涼夏の適当な答えに苦笑しながらも、二人で動きの無い水槽を暫く眺めた。
ㅤ動かない魚というものが新鮮だったからか、単純に水族館の居心地が良かったからかはわからない。セツナはただ、チルドレンシアターに来た当初の目的も忘れて、涼夏と共に水の世界を楽しんだ。
──ショッピングモール
ㅤ涼夏のリサーチによると、カップルというものは二人で仲睦まじくお買い物をしたりするらしい。いや、カップルじゃないけど。
「ねえダーリン、わたし熊のぬいぐるみが欲しい。白いやつ」
「俺、ぬいぐるみ買える程持ち合わせないよ」
「むむ……」
ㅤ欲しいプレゼントを貰えなかった涼夏が幼子のように唸るのが面白くて、セツナはつい笑ってしまった。
ㅤ相変わらずどこの店員役の着ぐるみも動いてはいなかったけど、セツナは涼夏のショッピングに付き合っていたからか、気にも留めなかった。
ㅤ涼夏は気に入った服やアクセサリーをレジから奪ったビニール袋にホイホイと詰めると、それ以降レジには一時足りとも近寄りはしない。その会計方法で本当に良いのかな、と思いつつ、着ぐるみが動かない以上仕方ないと割り切って、セツナは荷物持ちとして後方を歩いた。女子力を高めるための花嫁修業として、調理器具もいくつか購入していたようだ。誰の花嫁なんだ。
ㅤ二人きりのデートは、その後もゆっくりと続いていく。
※ㅤ※ㅤ※
ㅤチルドレンシアターが出来た初週に右隣に座った男の子は、研究者志望だった。ゆくゆくは海外に進出して、偉くて凄そ〜な賞も取れちゃうくらい実力のある、賢くて偉大な研究者になりたいんだって。
ㅤ二週目の男の子は、ピアニスト志望だった。人生に一度は、コンサートに来場した観客の魂が震えるような演奏をしてみたいんだって。わたしにも演奏を聴かせてくれたけど、わたしがピアノを壊したら、すぐさま自分の映画に帰っちゃった。
ㅤ三週目の男の子は、サッカー選手志望だった。サッカーで世界一になりたいってはしゃぐ元気な子で、わたしにもサッカーのルールを一から教えてくれた。わたしが興味の無い分野の話を熱弁してたってことは、彼はわたしの運命の人ではないんだと思う。
ㅤ四週目の男の子は、料理人志望だった。わたしに沢山のお洒落な料理を振舞ってくれて、ぜんぶ要望通りに動いてくれた。でも、わたしが沢山食べて眠くなって、数時間して起きた頃には、トイが隣に座ってた。彼はもう帰ったよ、なんて言いながら。
ㅤ五週目の男の子は、裁縫師志望だった。内気な子で、最初は『ダーリン』って呼ぶだけで頬を赤らめていたから、今度こそわたしを愛してくれる人が現れたと思った。白い熊のぬいぐるみもくれたしね。でも、彼はただ、裁縫の才を褒めてくれる人が欲しかっただけなんだって。
ㅤ六週目の男の子は、医者志望だった。わたしが『ダーリン』に望むこと、その想いを告げたら、彼はわたしを抱きしめてくれた。でもいきなり服を脱がしてきたから、あの人が止めに入って追い出しちゃった。わたしは気にしないのに。
──結局みんなわたしを捨てて、現実を選んだの。
ㅤでも、あなたは違う。
ㅤ今だって、わたしの隣を歩いてくれる。
ㅤ決して『夢を叶えるために外に出たい』なんて言わない。
ㅤきっと、わたしのダーリン。七人目の王子様。
ㅤトイの言葉を借りて言うなら、あなたはアダム。
※ㅤ※ㅤ※
ㅤショッピングモールに行った後も、セツナ達は様々なデートスポットに身を転移させて楽しく過ごした。
ㅤ動物園なんて幼少期以来初めて行ったし、プラネタリウムは無数の星を見上げて気分が洗われた。初めて行くような場所もあって、新鮮味と楽しさに溢れた経験だった。
「デート、楽しかったね。ダーリンは楽しかった?」
「ああ。色々連れ出してくれてありがとな」
「んーん、ダーリンが楽しかったならいいの」
ㅤ涼夏はやりきった、というように脱力すると共に椅子に腰掛けると、自慢げに微笑んでみせた。
ㅤ一通り歩き回り、疲れた足で二人が向かったのは学校だった。詳しく言えば、教室のような背景に沢山の本棚が並べられて、椅子と机は五人分程度しかない、学校は学校でも図書室のような部屋だ。ここも彼女の言う『映画』の一部なのだろうか。
ㅤ壁掛け時計の針は止まっている。
「ね、また、ダーリンが退屈な時はデートしようよ。今度はダーリンがデートプランを考えて、エスコートしてね」
ㅤセツナを隣の席に座らせて椅子の向きを変え、自分と対面させるような姿勢にしてそう言うと、涼夏は自身の左手を差し出した。小指だけ器用に突き出されていて、次のデートのための口約束を目的にしていることは明白だ。
「それはいいけど……センス無くても、文句言うなよ?指切りな」
ㅤセツナは渋々涼夏の小指に自身の左手の小指を重ね合わせると、頬を少し緩めて微笑んだ。
「!……言わない、絶対言わない!すっごい楽しみ……!」
ㅤ余程嬉しかったのか、セツナの行動が想定外だったのか。涼夏は繋ぎ合った指をぎゅっと絡め合わせると、にへにへと嬉しそうな満面の笑みで契りを交わした。
ㅤ胸に風が吹いた気がする。
「ダーリン?」
「ああもう、今はこっち見ないでくれ……」
ㅤ危ない、笑顔で流されてしまいそうになった。
ㅤ涼夏がダーリンと呼ぶ理由も、まだわかってないんだ。もし俺にそっくりな奴と恋人関係で、俺のことをダーリンだと勘違いしてたらどうする。恋愛沙汰の面倒事は御免だ。
ㅤ胸に抱いた感情に頭を抱えるセツナを他所に、涼夏は席から立って窓際に立つ。彼女が白いカーテンを開ければ、窓の向こうには子供がスケッチブックに描いたような歪な夜空が広がっている。
「ほんとはね、この学校もデートスポットのひとつに入れようと思ったんだけど……わたし、学校ってどんなとこかわからないから」
「わからない?」
「うん。あ、でも、先生がいて、友達がいて、勉強する場所ってことは知ってるの。病院のお医者様が言ってた」
ㅤ彼女はセツナに顔は見せないまま、ポツポツと語った。
ㅤその声色は今までとは違う色を纏っていて、どこか寂しげにも思える。空に浮かぶ作りものの星を見つめる少女の目には、この世界はどう映っているんだろう。
「……君は、何か病気を抱えてるのか?」
ㅤついデリケートな質問をしてしまったことに数秒後に気付き、セツナは慌てふためいた。
「あっ、いや、言いづらかったらいいよ!デートスポットって言っていろんなところに連れてってくれるけど、世間知らずそうに見えたからさ。普段は出かける機会がないのかなって……」
ㅤ涼夏は顔だけ振り向くと、先程の天真爛漫なものとは違う静かな笑みだけを零した。その微笑みが、彼女が抱えているものの真意を色褪せさせていく。
ㅤ涼夏は目を伏せて、カーテンを閉じた。奇怪な月光が差し込まなくなると、蛍光灯の無い室内は光を失う。瞬く間に、窓際に立つ涼夏の姿はうっすらとしか見えなくなっていった。
「……この『映画の中』の世界って、映画の主──まあ、わたしの映画ならわたしが過去に見たことある景色しか反映されないんだって。見たことない景色だったら、それは全部わたしの妄想で、想像」
ㅤ声色は落ち着いている。
ㅤ涼夏は淡々と事実だけ告げて、セツナの反応には見向きもしなかった。
「普通の子は、過去から今までの人生を追体験して、『将来の夢』を叶えるまでの未来を何回も何回もやり直すの。叶えられる道筋がわかったらゲームクリア。映画の上映が終わって、劇場から脱出出来る。それがチルドレンシアター」
──すぐには理解出来なかった。
「自分がどういった選択を選べば最適解なのか。自分がどうしたら『将来の夢』を叶えることが出来るのか。それを全部教えてもらえるんだから、脱出さえ出来れば誰だって楽に夢を叶えられるよね」
「……それじゃあ、このチルドレンシアターを管理しているトイは、全知の神も同然じゃないか」
ㅤセツナの言葉に、涼夏はすぐには返さない。
ㅤ月が曇り、教室は色を失くす。黒いセーラー服姿の彼女の身体はより一層闇に隠れ、どんな表情でチルドレンシアターの秘密を告げているのかすら読み取れなかった。
「──無料の映画を一本観るだけで、『神様』が将来の夢をなんでも叶えてくれる。叶える術を教えてくれる。それがチルドレンシアターのすべてだよ」
ㅤ先程までは明るかった室内が静まり返る。
ㅤ本棚と机と椅子しかない狭い空間に二人だけしかいないはずなのに、息遣いすら聞こえない程に、二人の間には心の距離が生まれていた。
ㅤ冷静に自分の出自以外の全てをカミングアウトする涼夏と、涼夏の出自がわからない以上、安易に全てを信用できないセツナ。
きっと今、ダーリンとハニーの視線は交錯している。
「……なんで君はそんなことを知ってるんだ?」
ㅤ今までの出来事を思い出す限り、涼夏の話には矛盾は無いが、何故涼夏がそれを知っているのかについての説明が付かない。
ㅤ管理人室でセツナがチルドレンシアターの秘密を聞いた時、トイはその全てをはぐらかした。容姿だけは無知な子供のようでありながら、墓穴ひとつ掘らずにその場をやり切ったんだ。
ㅤそんなトイが、涼夏のようなセツナと同じ立場である
「──?言ったでしょ、常連客だからって」
「だって、おかしいだろ。将来の夢の叶え方を教えてくれる映画館に、なんで何度も入場出来る?夢はそう何個も作れるものじゃない。あと、トイは秘密主義だった」
「それは……」
ㅤ涼夏は口を噤むと、それ以降言葉を発さなかった。まるで、全て話すと自分に不利になると悟っているかのようなその様子を見て、セツナは確信する。
──涼夏とトイには、何かしらの繋がりがある。
ㅤ涼夏はセツナの疑念を晴らしたいのか、窓際から一歩此方へと近付くと、椅子に座ったままのセツナを見下ろした。表情こそ視認できないけど、焦っているのは伝わってくる。
「そんなの、どうでもいいじゃない。わたしとダーリンとは、無関係なことだよ」
「どうでもいい……?」
ㅤ続けて涼夏が吐き捨てたのは、聞き捨てならない言葉だった。
ㅤ涼夏の利己的で短絡的な考えにも、必死に真実を話から逸らそうとする姿勢にも、セツナは理解を示すことは出来なかった。セツナは衝撃的な物言いに声を荒らげ、
「さっきの話の通りなら、大勢の子供の夢が身勝手に奪われていることになるんだぞ。夢を追う努力を知らない子供達が、最適解だけを選んで、事務的に夢を叶えていることになる……それをわかっていながら、なんで『どうでもいい』なんて言えるんだ?」
「だって、その方が効率的だよ。無駄に悲しんだり辛い思いをしないで、一番良い選択を手順通り選び続ければ、簡単に夢が叶うんだよ?みんなの望み通りじゃない!」
「望み通りって……!!」
ㅤ話が通じない。意見が合わない。
ㅤ未希の学校に以前いたらしい研究者志望の子も、チルドレンシアターに行ったきり人が変わったと話していた。『夢叶う映画館』に行ったことで念願の夢が叶っても、そこに本人の自我が無いならそれは違う。ただ、トイが教えてくれた選択に身を委ね、自暴自棄に最善策を選んでいるだけだ。
「やっぱり、違うよ」
ㅤセツナは席から立ち、涼夏と目を合わせる。
ㅤ薄い光が差し込む窓際に立つ涼夏には、セツナの迷いなき瞳が毅然として見えたのか、僅かな怯みを感じた。
「そんなのは、夢を叶えるなんて言わない。夢を叶えてもらってるだけだ」
ㅤセツナは拳を固く握り、自身の考えを涼夏に続ける。理解する気が無いなら、してくれなくたっていい。
『将来の夢』はとっくに捨てたつもりでいたけど、このままこの事案を放っておけば、夢を叶えてもらった大勢の子供達が現れることになる。それは、なんとしてでも阻止しなければならない。昔の夢だとか、親に擦り付けられた夢だとか、とやかく言っている暇はない。
「……俺は、そんな方法で夢を叶えてもらったって嬉しくない。全貌はわかったから、俺は劇場に帰らせてもらう。デートは終わりだ」
ㅤ確か、何かあれば自分を呼べとトイが言っていた。
ㅤセツナは教室の出口付近に歩み、映画館の管理人の名を口に出そうとする。上手く説得出来ればいいが、涼夏と同様話の通じない相手である可能性が高い。トイの動向も探らない限り、劇場運営の阻止は難航しそうだ──。
「まって、……まって!」
ㅤ涼夏は怯えるような声で呟くと、次は激しく叫んだ。勢いよく涼夏がセツナの元へ走ってきたからか、カーテンが揺れ、教室には再び月明かりが差し込んだ。
「──だめ!!」
「────」
ㅤセツナが振り向くと同時に、セツナの身体は後ろに倒れる。セツナの上に馬乗りになった少女の柔らかい身体も、脚も、胸も、唇も、全てがセツナのものと重なり合っていた。
「……なに、を」
ㅤマントのおかげで視覚と聴覚以外は死んでいるため、セツナには涼夏が覆い被さってきたかのようにも一瞬思えた。けれど、温度の感じられない唇同士は確かに重なり合っていて、もしマントを着用していなかったら、初めてのキスをもっと妖艶に味わえたのかもしれない。
ㅤ涼夏は頬を赤らめたままセツナの首元に手をかけると、マントに付属したリボンを解いた。紐解かれたマントは地べたに崩れ落ち、頬に触れてきた彼女のさらさらな手のひらが、子供のような体温が、一身に伝わってくる。
「ね、一緒にいて。わたしのダーリンになって?もう出ていかないで」
ㅤ涼夏は再度セツナの唇にキスを落とすと、潤んだ瞳でそう言った。セツナの首元に頭を擦り付け、名残惜しそうにその身体を抱き留める。
「仏の顔も三度までって言うけど、わたしは六回も許してあげたよ。ねえ、だからいいでしょ?」
「なんの話だよ……」
ㅤ俺には六回彼女を怒らせた経験は無いし、許された記憶も無い。駄々をこねるように首筋に唇を当ててくる彼女の髪からは石鹸の香りが漂い、全ての思考を煩悩に還そうとしてきた。
ㅤ涼夏は顔を上げ、自分の襟元に手をかけると、セーラー服のリボンを解く。そのままボタンをぷちぷちと外せば、暗夜の中少女の胸元が露になっていく。
「あなたが望むなら、わたしのすべてをあなたにあげる。わたしの身体を暴いたっていい。セックスをしてもいいよ、怖くないから」
「──っやめろよ!!」
ㅤもう限界だ。
ㅤセツナは怒鳴りつけると涼夏の身体を突き飛ばし、その場から立ち上がる。涼夏は何が悪いのかと問うように目を丸くしながらも、口元には笑みを携えていた。
そんな微笑み方は見たくなかった──。
「君は何を言ってるんだよ……おかしいだろ!キスも……セックスも、出会って数時間の男とすることじゃない!」
ㅤセツナは自身のマントを涼夏に投げ付けると、白いマントが彼女の身体を隠すようにふわりと覆った。淫らにはだけた胸元をセツナの目が捉えることはなくなる。
「トイも、君も……何がしたいのか、俺にはわからない。君には将来の夢があるんだよな?なら、俺に構ってないで、それを叶えにいけよ。俺は別に、友達も、恋人も、要らないから!」
ㅤ友達なんて作っても、いつかどうせ裏切られる。
ㅤセツナは眉間に皺を寄せ、惨めに顔を歪めて少女との〝今日〟を全否定した。出会いも、再会も、デートも、約束も、全てを無に返そうと叫び散らした。
「──俺は、君のダーリンじゃない!!」
──。
「……なんで、そんなこと言うの?」
ㅤ言い切ってから、自分の無様さを知った。
「あ………………」
ㅤ床に座ったままの少女は、投げ捨てられたマントを胸に抱えながら、静かに此方を見上げている。今自分に怒鳴り散らし、理不尽に関係を破壊させた相手の姿だけを反射した双眸からは、ぽろぽろと小さな涙が零れていた。
「ごっ、ごめん。泣かせるつもりはなくて……」
ㅤ俺が絶望させた。
ㅤそのどうしようもない事実に耐え切れなくて、セツナは涼夏に近寄るとすぐに屈んで目線を合わせた。しかし、涼夏がそれを受け入れることはなく、
「……触らないでよ」
ㅤ涼夏は頬に伝った涙を自身の手で拭うと、触れかけていたセツナの腕を冷たく振り払った。
「わたしのダーリンはそんなこと言わない。何もわからなくても、わたしを愛して、ここに残ってくれるんだもん」
「……何もわからないのに相手を愛するのは、盲信だ」
「うるさい!!」
ㅤどれだけ拒絶されても、泣かれても、世辞や嘘でこの場を乗り切ることはできないセツナの在り方。少女はその全てが気に食わないと言うように喚き叫ぶと、大きく振りかぶるように立ち上がってセツナの姿を見下ろした。少女が瞳に宿した軽蔑は、実在すら問えない『ダーリン』に対する親愛と狂信を物語る。
「ダーリンはわたしに刃向かったりしない!わたしの言葉を否定したりしない!わたしを置いてチルドレンシアターから出ていったりしないのっ、わたしだけを愛してるから!!」
「そんなのは、愛じゃないよ……」
ㅤ子供のように次々持論を並べる涼夏に、セツナも同じく返しながら立ち上がる。絡み合った糸のように交わる二人の目線は、最早睨み合いの域に達していた。
「違う!違う違う、違うのっ!!わたしのこと何にも知らないのに、知ったように言わないでよ!!」
「君も、俺のことは知らないだろ」
「……違う、……違うもん……」
ㅤ顔を赤くして憤慨したかと思いきやすぐさま幼子のように泣き出す涼夏を前に、セツナはむしろ冷静沈着とした無表情で応対する。
ㅤ無害な子供を叱っているような気分になってくるし、この対峙の仕方が正しいのかはわからない。でも、彼女の歪んだ性意識と恋愛感情を正すには、こうするしかない気がした。
「……君が欲しいのは、自分を愛してくれるダーリンなんかじゃない。都合のいい玩具だ」
ㅤ最後にセツナが諭すと、涼夏は何も反論しなくなる。
ㅤスカートの裾をしわくちゃに握ったまま俯いて、その言葉を肯定することも、否定することもしなかった。
ㅤ突如訪れた静寂と沈静。それを切り捨てるように、次に口を開いたのは──、
「あなたなんかダーリンじゃない」
ㅤ涼夏だ。光の無い泣き腫らした目でセツナを見据えると、先程とは違う温度のない声でそう告げた。
「出てってよ」
ㅤ怒りも哀しみも飛び越えて、殺意すら覚えていそうな声の主は、セーラー服のポケットから果物ナイフを取り出す。いつか見たそのデザインは、ショッピングモールの調理器具売り場にあったものと同じデザインだ。
『ダーリン』である俺が万が一『映画』から出ようとした時のために、彼女は脅迫用として予めナイフを隠し持っていた──。
「あなたなんか要らない。ダーリンじゃないあなたなんか、なんの価値もないんだから」
「──っうわ!!おい、やめろ!」
ㅤナイフを腹部に突き立てられそうになり、セツナは飛び跳ねるように危機一髪で避ける。逃げる内に壁際に追い込まれ、為す術はなくなった。
「刺されたくないならここから出ていって。あなたなんかわたしの映画には必要ない、名前を飾らないで!嫌い、きらい、だいっきらい!!」
ㅤ絶望した彼女が再びその瞳に涙を浮かべた時、セツナは胸が締め付けられるようなどうしようもない焦燥感に襲われた。その時、
「……あ」
ㅤ椅子に足を引っ掛けた涼夏の肘が本棚に衝突し、盛大に転倒しそうになる。彼女の頭上には数冊の分厚い洋書が今にも落ちそうで、
「危ない──っ!!」
ㅤ千望セツナには、助ける以外の選択肢がなかった。
「っつう……、」
ㅤセツナの重い身体がのしかかり、涼夏はなんとか本の下敷きにならずに済んだ。重みと痛みが混じったような嗚咽を零しながら、涼夏は数十秒置いて薄目を開ける。
ㅤ部屋は暗くて、自分達が今どんな姿勢なのかわからない。特に、セツナの身体が覆い被さったままだと、視界が狭くて現状を確認出来ない。わかるのは、あれだけ罵詈雑言を浴びておきながら、この男は身を呈して庇ってきたということだけ。床には小汚い洋書が散らばっている。
「……ちょっと、重いっ」
ㅤ涼夏は身体を起こし、退いてもらおうとセツナの身体を右手で押すと、セツナの身体はずるっと床に落ちた。
ㅤ同時に、左手に握っていたナイフも、音を立ててそれから離れる。
ㅤぶしゃっという、水が噴き出すような音がした。
「……え、」
ㅤ鯨波のように押し寄せた赤い荒波が、瞬く間にすべてを覆う。彼の胸から引き抜けたナイフが、その衝撃に床に落ちた。カツンと音を立てて、銀色のナイフが血の海に浸る。
「あれ、……?」
返答はない。反論はない。息はない。
胸の中心部を深く一突きされた少年は、床に倒れたまま何も言わない。彼の白い制服は、既に局部を中心に真っ赤に染まっている。
七人目のアダムは、動かなくなった。
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