第2話ㅤ役立たず

ㅤ水面に浮いているような感覚があった。


ㅤ身体は思うように動かない。例えるなら、朝起きた時に、早く起きなきゃいけないことはわかっていながら微睡んでしまうあの背徳的な感覚に近い。


ㅤどこかから鳥の声が聞こえる。スズメやウグイスの声っていうより、イソシギの声に近いと思う。


ㅤ花の香りがする。なんだっけ、香りだけだと花の名前がわからない。薔薇でもラベンダーでもなくて、ええと​──。


「っげほ!!」

ㅤ水面に浮いたまま考えごとをしていたら、鼻に水が入った。冷たくも暖かくもない気持ちの悪い温度の侵入を身体が許さず、反射的に噎せてしまう。


「がふっ、けほ、っはぁ……!!」

ㅤ噎せた拍子に口内に入った水を咳込むことで体外に吐き出しながら、セツナは岸辺を目指す。運良く川の水深が浅くて助かったが、これがもっと深かったら溺れていた。昔から運動は得意じゃない。


「はあっ、ここは……?」

ㅤ岸に上がり、ずぶぬれのまま辺りを一望する。

ㅤ青いヒヤシンスが咲く広い野原に、東雲色と水色が混ざったような不思議な色の川が流れ、野原の中心部には果物の成った木がいくつか生えていた。中心に生える大きな木の傍には、水色の屋根のメルヘンな家が一軒だけ建っている。


​──ここはどこだ?何故俺はここにいる?


ㅤあの川に浮かぶ前、千望セツナは確かに映画館の劇場内にいたはずだった。両隣には出会ったばかりの少年と少女が二人ずつ座っていて、他にも子供観客が大勢いて。


『​──君の夢も叶えてあげる。強引に、純真に、至極真っ当に!』


ㅤスクリーンに映った少年​──及び、チルドレンシアターの管理人に指を差されてから、記憶が抜け落ちている。


「一体、どうなってるんだ……」

ㅤ地面に生い茂った草を踏み締めている感覚はあるし、頬を引っ張れば痛みがあるから、恐らく夢ではない。


を一本観るだけで将来の夢が叶うのがチルドレンシアター。


ㅤだとしたら、ここはなんだ?映画の中?


ㅤシアター内で意識が無くなり、目が覚めたら映画の中にいた。そんなことが有り得るのか​?


「​──あれ、なんでここに君がいるの?」


ㅤどれだけ見回しても木と川と花しかない世界をぐるぐると探索していると、木陰から此方の所在を問う声がした。ピエロ服姿の背の低い少年が、無花果の木の下から此方を見ている。


「君は、さっきの……!」


ㅤトイ、だったっけ。

ㅤ身長百五十センチ弱程度の、宇宙柄のマントを羽織った小柄な少年。その飴色に輝く双眸が、影をも厭わずぎらぎらと輝いてセツナの姿を捉えている。


ㅤ劇場で見た時はスクリーン越しだったから巧妙なアニメーションに見えていたが、こうして実際目の前にその姿を映すと、実際に生きている人間かのように見えてくる。いや、アニメーションだと思っていたのは俺だけで、実は実写映像を映しているだけだったのか?


ㅤセツナと同じくトイも何かを熟考しているのか、目線を右上に動かして両腕を組んだ。


「おかしいな、何か間違えたかな?でも特に変わったことはしてないしなぁ、映像に不具合は起きてないみたいだし」

ㅤトイは答えの出ない推測を次々重ねるセツナとは違い、「まあいっか」と全ての思考を投げ捨てると、セツナの元へ歩みを寄せた。


ㅤやはり、近寄れば近寄る程、目の前の少年が3Dモデルやアニメーションの類には見えない。所々がはねた金色の髪も風と共に一本ずつ揺れ動いているし、睫毛は日に照らされて彼の頬に影を作っている。なによりトイ自身が、日の光を浴びた優しい匂いがした。


ㅤもしこの少年の存在がフィクションなら、何をノンフィクションだと言うんだろう。


ㅤそう思ってしまう程、セツナの潜在意識を錯覚させた不思議な管理人は、セツナの手を引くとにっこり笑った。

「君、ずぶぬれだろう。替えの服を貸してあげるから、僕のお家においで!」


「えっ?」



​※ㅤ※ㅤ※



ㅤ童話のような外見の割に、どこかで見たことのあるような普通の『家』。トイの家に対する第一印象はそれだけだった。


「ここは管理人室兼僕のお家さ。今は上映中だし、僕は上映終了まで休憩中ってワケ」


「……管理人室……」

ㅤ招かれるまま玄関マットに靴を置き、白い熊と黒い熊のスリッパを履く。右足の黒い熊は笑っていて、左足の白い熊は怒っていた。


ㅤ少年一人が住む家と言うには広くて、管理人室と言うには狭い、縦長かつ環状の空間。壁一面をガラスの窓が覆っていて、吹き抜けの二階には数々のビデオテープが保管された棚が敷き詰められている。一階手前はソファやローテーブルやベッドが置かれた居住スペース、一階奥は大きなモニターが完備された作業スペースだ。


ㅤセツナはトイの隣には座らず、トイが座ったシングルソファの向かいのダブルソファに腰掛ける。


ㅤ壁際の暖炉の手前ではセツナが脱いだ制服一式が干されており、セツナは替えとして用意された白のTシャツとスキニーパンツに身を包んでいた。Tシャツの胸元には兎のアップリケが縫い付けてあって、ちょっとダサい。


「おやつ食べるかい?」

「……どうも」

ㅤトイにティーカップといくつかの木の実が乗った木皿を差し出され、ぺこりと頭を下げる。ティーカップには紅茶が入っているようだけど、木の実の種類はなんだろう。変な形のものばかりだ。食欲は唆られなかった。


「​──質問をしてもいいか?」


ㅤ不味そうな木の実を頬張っている場合ではない。

ㅤセツナは鋭い眼差しを相手に向けると、トイは意を汲んだのか薄く微笑んだ。


チルドレンシアターの正体を聞くなら、今しかない。


「本当に君がチルドレンシアターの管理人なのか?」

「他に誰がいる?」

「目の前にいた着ぐるみが消えたり、急に訳分からないところに連れてこられたり……一体どういう仕組みなんだ?」

「見たまんまさ」

「上映時間は二十時なのに、多くの子供が集まっていたのは何故だ?」

「映画を観たいからだよ」

「チルドレンシアターってなんなんだよ」

「夢が叶う映画館」


​──キリがない。


「君はお喋りな子だねえ」

ㅤセツナが一息つくように紅茶を飲むと、トイも同じように自身のティーカップに口を付けた。ティーカップに入った赤褐色の紅茶が少年の身体に流し込まれていくのを見ながら、セツナは苦虫を噛み潰したように頬を強ばらせる。


「……ここにきてからのはどうしてか、答えてもらえるか?」


「​──​──」

ㅤセツナが吐いた最後の質問を皮切りに、トイは手元のティーカップを見下ろした。前髪で隠れて、どんな表情をしているのかわからない。ただ、笑顔でないことは確かだ。


ㅤ涼夏に口に入れられたキャンディも、たった今口に含んだ紅茶も、味がしない。あるのは『何かが口に入っている』という異物感だけで、おいしい、不味いといった感想は何一つ出てこなかった。


「​犬」

ㅤトイが冷ややかな声で呼ぶと、家の扉がガチャりと開く。挨拶も無しに無機質に入ってきたのは、映画館内でアンケートボードの回収をしていた大きな犬の着ぐるみだ。


「君の名前は?」


「せ、千望セツナ……」

ㅤ突然音も無く現れた犬の巨体に怯むセツナは置き去りに、トイは犬から差し出されたアンケート用紙を慣れた手捌きでペラペラと捲る。まるで何かを探しているかのように。


「……無いな」


ㅤ百枚を超えるアンケート用紙を確認してから、目の前の管理人は溜息をついた。劇場のスクリーンの中では幼児や小学生に向けてにこやかに微笑んでいた少年からは笑顔が消え、訝しむような眼で此方を見据えている。


『味覚が無くなった』という証言とアンケートボードは、何か直結した関係にあるのか​──?


「あ、アンケートボード、座席に置いてきたままだったかも」

「そっか、少し待ってね」

「……はい」

ㅤチルドレンシアターについての疑念が拭えないからといって、踏み込みすぎたのかもしれない。ずっと笑っていた少年が急に無表情で事務的に確認作業をし始めると、ちょっと怖い。


ㅤ三分もしない内に、トイに言いつけられた犬がセツナのアンケートボードを持って帰ってきた。トイはアンケートボードを受け取ると、すぐさま上から下まで流し読む。


「─​─困ったなあ」


ㅤ数秒後には確認作業が済んだのか、トイは再び笑顔になった。

ㅤトイは何を言われるのかと憂惧するセツナにもわかるよう右手でアンケートボードを持つと、空欄となった『将来の夢』に空いた左手で指を差す。


「このアンケートにちゃんと『将来の夢』を書かないと、君の夢は受理されなくなってしまうんだよ。チルドレンシアターの噂を聞いておいて夢を書かない子なんて、前代未聞だ」


「な、なんかごめん……」


「まあ、今からでも間に合うから。ほら、空欄に書いてごらん」

ㅤトイは犬からペンを受け取ると、セツナに渡して記述を急かした。机の上に置かれた木皿とティーカップは一旦端に避けられ、中心には空欄のできたアンケートボードが置かれる。


「…………」


ㅤ最初にトイが聞いた『なんでここに君がいるの』という質問から考察するに、俺がこの『将来の夢』の欄に正確な夢を書いておいたら、今俺はこの場にいなかったんだろうか。


ㅤそしたら、管理人の無表情は拝めなかったかもしれないな。


ㅤセツナはそんな〝あったかもしれない今〟を考えて、用紙を見下ろしたままペンを止める。アンケート用紙にはたったの一文も、一行も、一文字すら追記されていない。


「書かないの?」


「書けないんだ。わからないから」

ㅤ返答は早かった。恐らく、チケットを手に入れておいて俺がそう返したのが意外だったんだろう。トイは目を丸くしたまま此方を見ている。


ㅤ他の子供観客にはある『将来の夢』という大前提が、俺には無い。


「俺んち、両親がどっちも芸術系の仕事をしてて。父親は、結構有名な脚本家でさ」


ㅤ弟も両親に似た芸術家肌で、美麗な色彩感覚の持ち主だった。父と同じ脚本家にはならずとも、いつか観た人を魅了するような風景画を描く画家になりたいらしい。きっと、画家である母の絵に憧れたんだと思う。


ㅤだから、弟の代わりに、父のが俺に向いた。


「有名な、ていっても昔のことで……最近は脚本を書いても売れないし、全然仕事が貰えないらしくてさ。でもやたらプライドが高い人だから、お前も脚本家になれって言ってて」


ㅤ面白いものを書けなければ、脚本家に依頼は来ない。

ㅤ父が一度書いて世に名を知らしめたラブロマンス映画は、実を言えば、その脚本の良さよりも主演女優の演技を世間が評価していたことを父は知らない。女優が名を馳せるための踏み台にされていたことも、所詮は一発屋の脚本家だと自身が批評されていることも知らないまま、息子に同じ道を歩むよう勧めている。

ㅤ父の言う通りにセツナが何かしらの物語を紡げば、確かに一度は観衆の注目を浴びれるだろう。昔は有名だった脚本家の息子が、『息子です!』と大きく書かれた看板をぶら下げて世に顔を出すのだから。


ㅤ親の七光りになれと言っているようなものだ。

ㅤ父は失われた名声を再び浴びたいだけ​。

ㅤ脚本家になんかなりたくもない息子の感情には、何一つ目もくれない。


「……ごめん。君みたいな小さい子にする話じゃないよな」

ㅤ話し終わり、セツナが眉が引き攣った愛想笑いを浮かべるも、トイが笑顔を返すことはなかった。


「チルドレンシアターの管理人として聞くけど、君は本当は何になりたいんだ?」


ㅤまるで、セツナの本心を見知ったような問いだった。

ㅤ父親に脚本家になるよう勧められているが、脚本家にはなりたくない。だから〝脚本家〟とは書かないし、書けない。


それなら『将来の夢がない』と答えればいいものを『わからない』と濁して答えた、その真意を。



「……小さい頃は、ちゃんと夢があったんだよ」



「​​──?」

ㅤ苦悶するような声で呟いたセツナに、トイは心配するように首を傾げる。


あれになりたい、これがやりたい。

夢と希望という願望ばかりで、それが成し遂げれなかった未来を考えもしない、純真無垢で厚顔無恥な子供。

そればかりを見て、そればかりを救ってきたトイには、きっと理解できない。


「今は、わからないんだ。自分が何になりたかったのか」


ㅤ小学生の頃の夢を叶えるには、中学生の自分と高校生の自分が相応の努力をしなければならない。例えば、弟のように画家になりたいなら、子供の内に絵の練習や写生を重ねて努力をするのが大事だ。どんな夢を叶えるためにも、努力は必然であり必要事項になる。


​──でも、を境に、俺は夢のために努力することをやめてしまった。


それは、将来の夢を捨てたも同義だ。


〝脚本家〟である七光りの息子か、夢を叶えた〝■■■〟である役立たずの千望セツナ。自分がどちらになりたいのか、もうわからない。


「……君もと同じか」


ㅤセツナが抱く迷いを知ったトイの声色はひどく落ち着いていて、大人の声かと錯覚してしまうほど低かった。


「あの子?」

ㅤトイはアンケートボードを回収すると、席から立って手を差し伸べた。先程の声色とは相反した無邪気な笑顔が、議論の収束を意味している。


「ううん、なんでもない。事情はわかったから、場所を移そうか。ここは君がいるに相応しくない場所だから」

「えっ、ちょっとまっ​──」


ㅤセツナがトイの手に手を重ねるより先に、セツナの視界はぐにゃりと歪に暗転した。メルヘンチックな家が、窓から見える神秘的な野原が、その全てが音も立てずに崩れていった。


​──。


それからどれくらい経っただろうか。


「​なあ、状況に説明が追いついてない気がするのって俺だけ?」

「君だけだよ」

ㅤ管理人室兼トイのお家は瞬く間に消失し、セツナの目の前には沢山の衣服が掛けられたハンガーラックのある更衣室が浮かび上がった。見る限りだとレディースの洋服が半数を締めている気がするのは、気のせいだろうか。


ㅤ先程の管理人室よりは狭い更衣室の中心で、セツナはトイに乾いた制服を着せられ、挙句の果てにはネクタイまでもをきちんと締めてもらっていた。やり取りだけ見れば親子だ。


「そもそも、君が自分の心に正直になってあのアンケートに記入しておけば、こんな面倒な手間をかけずに済んだのに……」


「さっきも謝っただろ……それで、そろそろ俺は君に色々教えてほしいんだけど。あの時​──上映前、なんで俺を指差したんだ?子供観客なら他にも沢山いたじゃないか」


「君が見るべきは映画であって、管理人ではない。失礼」


「!」

ㅤトイはセツナの質問をさらりと躱すと、今度は裾に熊が刺繍された高級感溢れる白いマントを羽織らせた。マントに付属した首元の白いリボンを結んで貰えば、無個性な容貌のセツナでも少しは見栄えする。


「このマントを羽織っていれば、どこの映画を観に行っても君は『登場人物』として加算されない。魔法のマントさ!」

「登場人物?」

「うん、観客である君が登場人物として加算されるとややこしいことになるからね……まあ、観に行ってみればわかるよ。百聞は一見にしかず!」

ㅤ質問に一々全て解答するのが面倒臭いのか、はたまたそういうスタンスなのか。トイは飄々として笑うと、着替え終わったセツナの肩をぽんぽんと叩き、「くれぐれも、マントは外さないように気を付けて」とだけ言って数歩離れた。


ㅤ彼の言う『映画』とは、『登場人物』とはなんなのか。そもそも彼は何者なのか。自分の身は明かしても、セツナ自身はまだ何も知らなかった。


「誰の『映画』を観に行っても構わないし、君が何かしらの映画に影響されて将来の夢を見つけられたならそれが最善だ。なりたいものが決まったら、僕を呼んでね。僕は子供が大好きだから、君達の声はいつでも聞こえているよ!」


ㅤ無害な声で言い切ると、トイはセツナの胸をとんと押した。足首までに及ぶ長い丈のマントが風と共に翻り、セツナの身体は後方に倒れていく。


​──ああ、またこの感覚だ。


ㅤ崩れゆく視界の中、今度はトイの姿までもがあやふやになっていった。今まで一緒に行動していた管理人の姿が目眩と共にその原形を保たなくなると、途端に莫大な不安感に晒される。


「それに​──君はだから、もしかしたら、先客に会えるかもしれないよ」


ㅤその言葉を最後に、チルドレンシアターの管理人の姿は見えなくなった。




​※ㅤ※ㅤ※





「ねえ、暑くないの?」


ㅤ暑くないよ。


ㅤ答える気は起きなかった。なんだか眠い。今まで長い夢を見ていたような脱力感が身体を支配していて、起きるにも起きれない。


​──デジャブだな。


「わっ!?」

ㅤこのまま横たわっていると悪い気がして起き上がると、セツナは眼前に広がった世界に驚愕した。


ㅤカンカンと晴れたまま沈んでいく夕日。

ㅤ夕暮れ時の空に照らされた青い海。

ㅤ貝殻が流れ着いた砂浜。

「そんな驚かなくてもいいのに」とくすくす笑いながらセツナの左隣に立っている、黒いビキニ姿の涼夏。


まさに、晩夏のビーチだ!



「こ、ここは……?あと、なんで君がいるんだ?」


ㅤ生まれて初めて見た海だからって、心を躍らせてはいけない。セツナは砂浜から起き上がると、マントのそこかしこに付いた砂を振り払いながら涼夏を見た。


ㅤ胸や腰のラインが強調された黒のレースアップビキニ。セクハラになり得るから言葉には出せないけど、似合っていると思う。でもやっぱりなんだか恥ずかしいので、涼夏からはそっと目を逸らす。


「ここはわたしの映画の中。ちょっとした事情があって、時は止まってるけど……でも、海が綺麗だからいいでしょ?」


ㅤ涼夏は黒いビーチサンダルを履いたまま海辺に走ると、景色を褒めて、と言いたげに両腕を広げた。夕日が沈む海をバックに可憐な少女が舞っているんだから、『映画の中』と言われても不思議と納得できてしまう。


「確かに、綺麗だけど」


「どっちかと言うと、わたしはなんで君がここにいるのか気になるな。自分じゃない誰かの映画って、トイじゃないと入り込めないのに」

ㅤ常連客だと、そんなことまでわかるのか。というか、トイに対して呼び捨てなのか。


「えっと……」

ㅤ色々な疑問が重なって、でも何かしら上手い答えは返したくて、セツナは頬を掻く。今の今までトイと一緒にいたことも、自分は夢がない『例外』であることも、涼夏にカミングアウトしていいことなのだろうか。


「そーれっ!」


「うわあ!!」

ㅤ悩んでいると、涼夏が両手いっぱいに汲んだ海水をセツナ目掛けて振り撒いた。水飛沫が盛大に飛び散り、思わず目を伏せる。


​──あれ、全然冷たくないぞ?


「あれ、濡れないね?そのマント、防水機能付いてるの?暑そう……」


「あ……ほんとだ」

ㅤセツナの身体には水滴ひとつ付いていない代わりに、その場から起き上がるとに水滴の跡が残っていた。まるで、セツナを貫通して流れ着いたかのように。まるで、セツナは透明人間であるかのように。


ㅤそういえば、先程まで砂浜の上に大の字で寝そべっていたのに、砂の上に人の形が残るどころか、汗ひとつかいていない。


​──もしかして、このマントを羽織っていたら、『映画』の影響を受けないのか?


『登場人物』として加算されないマントとは、誰かの『映画』に潜り込んでいる限りは視覚と聴覚以外の五感が働かない、実質的な透明人間になれるマントだった​──?


「ね、ダーリンも服を脱いで泳がない?ここは映画の中だから、水着なんて探せばいくらでも出てくるよ。一緒に遊ぼう?」


ㅤ涼夏は相変わらず『ダーリン』呼びをやめないままセツナに近寄ると、可愛らしい笑顔でそう誘った。もしマントを羽織っていなかったら、息がかかる距離だったかもしれない。


『くれぐれも、マントは外さないように気を付けて』


​トイの忠告が脳裏に浮かぶ。


「いや、俺はいいよ。泳ぐの下手だし」

「そっか」

ㅤ涼夏は残念そうに眉をハの字に曲げると、しおしおとセツナに背を向けた。かといって、一人で遊びに行く訳ではなく、セツナには表情を悟らせないまま立っている。


「……じゃあさ、ダーリン」


ㅤ新しい遊びを思いついたかのような溌剌とした声を上げて、涼夏は背中に剃って指を組んだまま振り向いた。丸みを帯びた瞳が、トイのものより長い睫毛が、夕日の光に照らされている。


「せっかくだし、わたしとデート行かない?」


「……でーと?」

ㅤ聞き慣れない響きに、セツナは間抜けな声を返した。






​※ㅤ※ㅤ※




『どうして?』

ㅤチルドレンシアターが出来てから六週目が経過した時、彼女は僕に聞いてきた。


『どうして、ダーリンは映画を観終わったら帰っちゃうの?ここには、なんだってあるのに』


​──きっと、叶えたい夢があったんだよ。今頃叶えてる頃合じゃないかな。


『そんなの知らない。わたしのダーリンは、ハニーを置いて出ていったりしないもん』


​──今までの六人は、ハニーって呼んでくれた?


『呼んでくれなかった……』


ㅤ映画館を作ったには、笑顔でいてくれたのに。長かった髪も動物達に切り揃えさせて、傷や痣も綺麗に治して、欲しがったメイク用品も作って、美味しいお菓子も用意したのに、彼女はまだ満ち足りていないようだった。


ㅤチルドレンシアターを作ってから六週間が経過し、彼女は今まで六人のダーリンを作ったけれど、その全員が上映終了と共に現実へ帰っていった。


ㅤいつも、彼女の傍に残るのは、広い劇場と僕だけだ。上映が終わって水曜日になると、次の上映がある翌週の火曜日まで、彼女は啜り泣くかこうして喚き散らすようになった。


​──彼女は『エンドロール』に固執している。


ㅤ一度死に損ねた彼女は、死ぬ間際に俗に言う走馬灯といったものを一切見れなかったらしく、次に死ぬ際には愛するダーリンや家族に囲まれたエンドロール走馬灯を観たいらしい。それが彼女の人生という映画の終焉で、ハッピーエンドの切り札になるのだという。


ㅤでも、僕には希望や夢は作れても、死という絶望は作れない。


『ねえ、なんでも作れるんでしょ?なら、わたしを愛してくれるパパとママとダーリンが出てくる映画を作って。エンドロールに私と三人の名前を出してよ。そうしたら、わたし、ずっとその映画の中にいるから。もうわがまま言わないから』


​──そんなことしたら、〝現実〟の病室で寝たきりの君は死んでしまうよ。


『現実なんて知らない!』

ㅤ彼女はわっと声を張り上げると、僕に大きな熊のぬいぐるみを投げつけた。五人目のダーリンから、映画の上映中に彼女が貰ったものだ。確か、裁縫師になりたい子だったかな。


ㅤ彼女はぼろぼろと泣きながらその場に膝から崩れ落ちて、スカートの裾をくしゃくしゃに握りしめる。大粒の涙が頬を浸っては流れ落ちた。


『わたしのために映画館を作ってくれたなら、わたしのために映画を作ってよ。わたしのためだけに動いてよ。観客の夢なんか叶えなくていいから』


​──ごめん。


ㅤ僕は彼女の従者ではない。

に結んだのは、主従関係ではなく利害関係だ。だから、利害に一致しない要求は叶えられない。


ㅤ君が死ぬ映画なんて、僕には作れない。




『​──役立たず』


ㅤ彼女は最後にそう言い捨てて、それから次の観客が来るまでの暇な時間は、無表情のまま椅子に座って過ごしていた。次回公演だった今日、八月十五日になっても尚、彼女は僕に話しかけてはくれなかった。



「僕は役立たずだ」


「どうして?」

ㅤ向かいのソファに座ったが問う。


ㅤ聞き手は先程来たお客さんが使ったティーカップと木皿を片付けてから、恰も自分のおやつタイムを始めるかのように辺り一帯に成る木の実を収穫していた。どうせまたすぐ成るから構わないけど、その量はどうなんだって聞きたくなる程、木皿に乗った木の実は大量だ。


「新しく来た子に、予備のマントを渡してしまった。また同じことをしてしまったよ、彼女はダーリンが『登場人物』になることを望んでいるのにね」


ㅤ今までの『ダーリン』は、最終的にマントを羽織ったまま上映終了し、現実に帰っていった。彼女のエンドロールを彩るためにマントを脱ぎ捨てたダーリンは、たったの一人もいない。


「僕はあの子に笑ってほしいのに、僕じゃあの子の心は満たせないらしい。やっぱり、この体がいけないのかな?でも大人の姿にはなりたくないよ、それこそあの子に嫌われてしまう。あの子は大人が嫌いだから」


ㅤ動物の見た目だと他の職員と見分けがつかないし、かといって本来の姿だと彼女に視認してもらえないし、難儀だ。どの姿だったら、一番彼女の気を引けるんだろう。


ㅤ聞き手が木の実を口いっぱいに頬張る姿を見ながら、僕は「はあ〜」と情けない声を上げる。声色が面白かったのか、聞き手は楽しそうにくつくつと笑った。



「​──僕があの子のダーリンになれたらいいのにな。僕が一番、あの子をわかってあげられるのに!」



「あはは。それ、手伝いましょうか?」


聞き手はにやりと微笑んだ。

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