第1話ㅤここは君達の理想郷

「チルドレンシアター?」


ㅤ都内某所、都会からは一歩も二歩も外れた住宅街にある、なんの変哲もない一軒家。

ㅤ登校前のうざったい朝日が差し込むリビングにて、兄は聞き慣れない単語を口にした。弟は兄が聞き返せどすぐに返答することはなく、苺のジャムを満遍なく塗った食パンを至って事務的に頬張り、静かに嚥下する。


「そうそう、『夢叶う映画館』!いいなあ兄さん、誰のツテでそのチケットを手に入れたの?」

ㅤ弟がそう言って指差したのは、兄が手に持った一枚のチケットだ。手のひらサイズの縦長の黒い用紙には星空のグラデーションが描かれ、その上に大きく『Children Theater』、小さく『8/15ㅤ20:00ㅤticket』と白いゴシック体の英字で書いてある。紙の端には受領印を押すための丸い空白も用意されていることから、一回限りの入場チケットのようにも見える。


「ツテって……朝起きたら枕元に置いてあったんだよ。夢が叶うってどういう事だ?」

「またまたあ、嘘ばっかり……最近中高生の間で話題だよ、知らないの?知らないなら頂戴!」

「いらないなら頂戴みたいに言うな!あげないからな!?」

ㅤ兄は伸びてきた弟の手をバシッと振り払い、入場チケットをそそくさと制服の胸ポケットにしまいこむ。食パンの最後の一枚は譲っても、こればかりは譲ってはいけない気がした。


「ひひ、嘘だって。チルドレンシアターはね​──」

ㅤ弟は何が面白いのか愉快そうに唇で弧を描くと、食べ終えたパンと惣菜の皿を片付けるため立ち上がる。


「街の隅にある映画館で、毎週火曜日に上映される無料の映画ショー!その映画ショーを観た人は必ず夢が叶うって言われてるんだ」

ㅤ丁度テーブルの真後ろに位置するダイニングキッチンにて、弟は音を立てながら大雑把に皿を洗う。雑談に花を咲かせながらもちゃっかりと兄の分の皿まで洗ってくれる辺り、うちの弟は気前がいい。


ㅤ弟は洗い終えて蛇口の水を止めると、再び兄を見つめた。詳しく言えば、兄の制服の胸ポケットに収められた、くしゃくしゃの入場券を。


「でも、そのチケットは特別な子供達だけにしか与えられないって聞いたけどなあ……?」

「胡散臭い話だな……麻薬の密売とかされてない?大丈夫か?」

「もう、兄さんは推理小説の読みすぎだよ、夢がないなあ。僕の中学校で今話題で、チケットが手に入った子なんてたったの一人しかいないんだぞ!」

「はいはい、ごめんごめん」

ㅤ両腕を上に掲げてわざとらしく怒る弟を、兄は静かに苦笑しながら宥める。にしても、普段信憑性の無い噂話には目もくれない現実主義者の弟が、やたら狡賢い中学生男子が、何故こうも『チルドレンシアター』の話には耳を傾けるのか。


ㅤ大方、最初は半信半疑だったものの実の兄が入場券を手にしたことがきっかけで、ここまで弟の興味を引いているのだろうが​──見ただけで夢が叶う映画なんて、馬鹿らしい。高校生の自分でも、そんな都合のいいものがあるはずはないと、自信を持って言える。


「……その『夢が叶う映画館』……チルドレンシアターって、いつ頃にできたんだ?今初めて聞いたんだけど」

「さあね。一ヶ月くらい前……七月の頭くらいから、噂を聞くようにはなってたけど。西中の子も東中の子も、隣の県の子も、ちらほら行ってるみたいだよん」

ㅤ何故うちの弟はこんなに人脈が広いんだ。今仕事で家にいない両親が聞いたら、『貴方も弟を見習って、友達の一人でも作ったら?』なんて言うに違いない。


ㅤ​それはそれとして、七月の頭と聞くと、どうしてもが頭に浮かぶ。


ㅤ六月の終わり頃に、都内の総合病院で、高校二年生の少女が自殺未遂を冒した。

ㅤ雑に切られた髪は長く、頭にも腕にも包帯を巻いた見るに堪えない痛々しい容貌の少女が、暴風雨の中何かを叫びながら飛び降りるシーン。その痛烈な映像は、少女の自殺を見に来ていた野次馬がSNSに上げたのか、数日の間動画サイトの閲覧ランキング上位を占めていた。勿論、コメント欄には『不謹慎だ』『動画を削除すべき』等の正論を呈する言葉が上がっていたものの、中には『なんて言ってる?』『自殺の割には楽しそうに見える』等と少女の独白に興味を持つ輩も湧いており、コメントが増える程その再生数も鰻登りと化していた。


ㅤ最も悪質だったのは、その動画が削除されるよりも先に、一連の流れに基づくネットニュースが顔を出していたことだ。

ㅤ親切丁寧な治療を心掛ける総合病院に入院していた少女が抱えた『心の闇』とは──。少女に血の一滴も関係のない第三者が騒ぎ立て、好き放題考察している様は、見るに絶えなかった。


ㅤまあ、そのニュースが世に出たことと、『チルドレンシアター』の噂を弟が聞くようになったのが同時期だっただけで、その二つに直接的な関わりがある訳ではないのだが。あの映像が削除される前に偶然動画サイトで見てしまった一人としては、つい思い出して、心が曇ってしまう。


「町外れの廃れた映画館​──チルドレンシアターに行って無料の映画を一本見るだけで、将来の夢を叶えてもらえる。これほど上手い話はないよね」

ㅤそうして兄が気を落ち込ませている間に、あっという間に登校の準備を終わらせていた弟は、中学校指定のジャージに腕を通しながら呟いていた。


「……まあ、真偽の定かを確かめるためにも、騙されたと思って行ってみたら?お金掛からないんだし。帰ってきたら感想聞かせてよ、父さんも喜ぶだろうからさ」

「……わかったよ」

ㅤ弟は兄の背中をポンと軽く押すと、にひひと笑いながら玄関に去っていった。


ㅤ弟が父のことを話題に出したのも、我儘を言わずにチケットを欲しがらなかったのも、あっての英断だ。弟は賢い。賢くない兄は、「行ってきます!」と元気に手を振る弟を見送りながら、くしゃくしゃに折れた入場券を再度見返すことしか出来なかった。


​※ㅤ※ㅤ※


​──回想終わり。


ㅤ八月の頭、なんてことない朝の日常にそんな会話を交わした兄弟の、賢くない兄の方​──千望センボウセツナは、同じ月の十五日の夜、夜風が吹く中一軒の映画館に訪れた。


「本当にここで合ってるんだよな……?」


ㅤ老若男女問わず人脈が広く出来のいい弟がいるおかげで、噂の『チルドレンシアター』がある場所は絞りだせた。とはいえ、想像していた映画館とはどこか違ったその風貌に、セツナは不安げに首を傾げることしか出来ない。


『町外れの廃れた映画館​──チルドレンシアターに行って無料の映画を一本見るだけで、将来の夢を叶えてもらえる。これほど上手い話はないよね』

ㅤ確か月初めに俺がチケットを手に入れた時、弟はそう言ったはず。でもいくら廃れた映画館とはいえ、そんなロマンチックな話を聞かされたら、大半の人はアンティーク調の豪勢で壮観な映画館を想像するはずだ。それこそ、映画館までの街路には青い薔薇が咲き、『ChildrenTheater』と書かれた木製のお洒落なアーチが観客を出迎え、館内には一面にワインレッドのカーペットが敷かれているような。


「……帰りたくなってきた」

ㅤもしこの場に弟がいたら、それは最早映画館じゃなくて城だよ兄さん、なんて軽快にツッコんでくれたはずだ。でも、ここに弟はいない。人脈ゼロの自分が唯一毎日話している癒しはここには無く、目の前にはただただ古びた映画館があることに、セツナは酷く落胆した。


ㅤいや、を『古びた映画館』と称していいのだろうか。

ㅤ恐らく三階程度しかない、所々ヒビ割れたボロく小さなビル。中途半端に割れた窓には蜘蛛の巣が張り、正面扉の前に立て掛けられた壊れかけのポストには埃が被さり、足元には鼠の死骸が転がっている。いくら街外れとはいえ、商店街のある方角から二キロ程離れてもこのビルの姿が見当たらなかった時点で、引き返せば良かったのかもしれない。


ㅤ夜八時前の月明かりに照らされて、その不気味さが際立っているからこそわかる。ここは夢叶う映画館などではなく、おどろおどろしいただの廃墟だ。


「……って、すぐ帰れたら良かったんだけどな」


ㅤ弟に映画の感想を言う約束をしてしまったし、折角チケットも手に入れたんだから、例え中が廃墟でも入ってみるに越したことはない。もし中に何も無くて、人影ひとつなかったら、『噂はデタラメだった』とだけ伝えればそれで済む。


「にしても、このチケット……どういう仕組みで配られてるんだ?」

ㅤ月初めの朝、枕元に身に覚えのないチケットが置いてあった時は驚いた。最初は弟の悪戯かと思ったが、冷静に考えれば弟は高校生の兄にくだらない悪戯を仕掛ける程幼稚ではない。だから、弟に初めてチルドレンシアターの存在を聞かされた時は、そんな摩訶不思議な話を信じられるはずもなく耳を疑った。


ㅤしかし、どうやら、セツナ以外にも『観客』はいるらしい。


ㅤビルの正面扉横に備え付けられたポストの中に、数十枚、或いは百枚以上の同じデザインのチケットが溢れんばかりに入り込んでいる。どれも八月十五日の日付を示しているようだから、このビルの中で、それだけ大多数の子供が同じ日に映画を観ている訳だ。


​──その割には、ビルの中からは物音一つしないけど。


「お、お邪魔します」

ㅤチケットをポストに入れたはいいけど、これで入場の仕方は合ってるのか。財布を持ってこなかったけど、本当に無償で映画を観れるのか。前髪は変にはねていないか。様々な不安が募りながらも、セツナは弱々しく入口の扉を開いた。ギイ、と床と扉が擦れるような重苦しい音がしてからは、何も聞こえなくなる。


「っ!!」


​──そして、映画館に入り込んだその刹那、魁星のような明かりが視界を阻んだ。


ㅤ眩しい。目を開けていられない。

ㅤチルドレンシアターに入場して早々、セツナは前方に倒れ込むように膝から崩れて、物音を立てて床に転がった。幸い転び方が良かったのか、痛みは無い。恐る恐る目を開けると、既に明かりはその色を緩和させていて、



「​──ヘイ!ようこそ、チルドレン!何名様?」


「うわああっ!!」

ㅤその代わり、目の前に二足歩行の不気味な白兎が立っていた。


ㅤ高校二年生の男子であるセツナの身長が百七十センチ程度であるなら、その兎の身長はざっと推し量るに二百センチは優に超える。やたら大きな頭、左右で大きさが異なる焦点の合わない瞳、太った巨体にはサイズが合わないパツパツのカラフルなスーツ。どの点をとっても奇妙で不可思議な兎を前に、セツナは早くも臆面を隠せずにいた。


「……なんだ、着ぐるみか……?い、一名です。チケットはポストに入れたよ」

ㅤこのまま座り込んでいると、無遠慮に手を差し伸べられそうで怖い。セツナは床に片手を着いてさっと立ち上がると、先程入ってきたばかりのボロい扉を指差して兎から二歩下がる。しかし、兎は怯えるセツナには目もくれず、扉を開けてポストを確認すると満足気に戻ってきた。


「フムフム、確かに。デハデハこちらのアンケートボードとバッジを持って、二階のロビーでお待ち下さいな!バッジは見えるところに付けておいてね〜」


「は、はい。ありがとうございます……?」

ㅤバイバーイ、とセツナに軽く手を振ってから会釈すると、兎はそれ以降セツナの姿を瞳に映すことはなくなった。着ぐるみのような外見でありながらコンピューターのような振る舞いをする兎に、セツナは眉を顰めるばかりだった。


ㅤ奇想天外な兎に預けられたアイテムは二つ。

ㅤ『T4.D9』と黒インクのマジックペンで書いてある熊型の缶バッジと、白いアンケート用紙とペンが挟まった紫のバインダーだ。缶バッジに書いてある数字の意味はよくわからないけど、とりあえず制服の胸元に付けてみる。​──​幼稚なデザインだと思った。


ㅤセツナはアンケートボードを持ったまま兎から離れ、奥にあるエレベーターに向かって歩きだす。ビルのような外見の割に一階は狭く、ただ怖い兎がいてエレベーターが一基奥にあるだけの玄関フロアのようだ。つくづく趣味が悪い。


ㅤセツナはエレベーター前に着くと、再び周囲を一瞥する。中も外もボロく廃れて、天井には蜘蛛の巣、壁にはカビ、床には土埃が散らされていて、第一印象としては嫌悪感よりも呆れが勝っていた。『チルドレンシアター』なんて夢と希望溢れる名前を冠するなら、玄関の手入れくらいちゃんとするべきだと思う。


《ロビーは二階。各シアターは三〜六階。七階はキャスト専用。屋上は立ち入り禁止!入ったらだーめ!》


ㅤエレベーター横の壁には、缶バッジと同じ黒インクのマジックペンでそう書かれている。​壁に直で各フロア説明を書く映画館なんて、ここ以外にあるのだろうか。


「……もしかして俺は、とんでもないところに来てしまったのか……?」


ㅤ毎週火曜日に町外れの廃れた映画館内で行われる楽しい無料の映画ショー。特別な子供だけが入場チケットを手に入れられて、映画を観終わった子供は、将来の夢が叶えられる​──。


ㅤエレベーター前に来て思うのもなんだが、子供が考えた悪戯か、或いは規模の大きいドッキリな気がしてきた。


ㅤかといって、今更あの兎がいる入口付近に戻るのは嫌だし、怖い。溜息をつきながらエレベーターの到着を待つ外、選択肢は残されていなかった。



《チルドレン一名様、ごアンナ〜イ!》



「エレベーターの中は派手だな……!」

ㅤセツナはエレベーターに入ると、周囲を見回して先程までとは一風変わった印象を抱いた。

ㅤ壁は紫とオレンジのストライプ模様で、床は水色のパズル柄だ。カーボタンには嫌味な顔をした目の大きな猫が装飾として付けられていて、インジケーターはネオンカラーに光っている。セツナがエレベーター内に入ると同時に機械的な声を上げたのは、恐らくカーボタンに取り付けられた猫だ。


ㅤ上にも下にも、埃ひとつない快適な空間。

ㅤセツナがくるりと後ろを見れば設置されていた小さなスクエアテーブルには、『Welcome to the children theater』と書かれた看板を持つ白い熊のぬいぐるみが置かれている。先程までとは天と地の差もある粋な計らいに、少しだけ不安が解けたのを感じた。


《ロビーにツキマシタ!ツキマシタ!ツキマシタ!ツキマシタ!》


「わかったわかった、うるさいな……!」

ㅤカーボタンに張り付いた猫に大音量のアナウンスを流され、セツナはその場から逃げるかのように二階のロビーへと身を乗り出した。耳を塞ぎ、未知の映画館へと本格的に足を踏み入れる。



《ようこそ、チルドレンシアターへ》


「?」

ㅤ後ろから、誰かの声が聞こえた気がした。


「わっ!」


ㅤチルドレンシアターは、観客に振り返る隙を与えない。

ㅤ背後から聞こえた声に注目するより先に、セツナは目の前に広がる光景に思わず感嘆の声を上げた。


ㅤ玄関フロアなんて比べ物にならない面積の広さ。汚れひとつない白と黒のデザインタイル。壁一面にかかった真紅のカーテンに、天井を飾る数々の六灯シャンデリア。子守りや販売等それぞれの役割を全うする動物達、雑誌やテレビモニターが充実した快適な待合席。


ㅤ何より意外だったのは、フロア内にいる子供の多さだ。


「ここにいる子供みんな、チケットを手に入れたのか……?」


ㅤ外から見た時には気付かなかったが、セツナが見渡す限りでも、フロア内の子供の人数は百人を超える。もしかしたら百五十、多くて二百人はいるのかもしれない。フロア内の面積が広いことでそれぞれの距離感が成り立っているが、これだけの人数がひとつのフロアに収まっているとは驚きだ。


​──どこに座ればいいんだろう?


ㅤ幼児、小学生、中学生、高校生。バラバラな年齢の子供達が、用意された大量のソファにそれぞれ自由に座っているようにも見えて、缶バッジに書かれた席順に並んでいるようにも見える。ソファは全部で四色あり、赤いソファ、黄色のソファ、緑のソファ、青いソファ​──各々のソファがスペース毎に区切られているような気もするけど、ここは俺も適当な席に座るべきなのか。


「どうしたの、迷子かな?バッジを見せてごらん」


「……?」

ㅤセツナが辺りをきょろきょろと見回していると、真横から肩をポンポンとリズム良く叩かれた。横目で隣を見れば、そこに立っていたのは大きな黒い熊​。言わば、先程の兎と同様、ただの着ぐるみだ。


ㅤ黒い熊はセツナの胸元を見下ろすと、その焦点の合わない双眸に缶バッジの姿を焼き付ける。


「T4のD9……シアター4のD列9席か。だったら、シアター4の待合席はあの青いソファだよ。あのソファにはシアター4に入る予定の子しかいないから、上映を待っている間は隣の席の子とお喋りでもしていたらいい」


「あ、ありがとうございます」

ㅤ見た目こそ似ているが、一階にいた受付係の兎とは違って、親切丁寧な熊だ。セツナは感謝を伝えてぺこぺことお辞儀をすると、黒い熊もにんまりとその頬を引き攣らせ、鋭い牙を丸出しにする。


ボン!


「き、消えた……!?」

ㅤ何か会話を続けるのかと思いきや、小さな爆発音がすると共に視界が白い煙幕に覆われ、目の前の黒い熊は消えてしまった。周囲の子供達はキャッキャと笑いながら走り回っており、熊が一匹いなくなったことに気付いていない。


​──愉快なサーカスでも始まるのか。いや、俺は映画ショーを観に来たはずだ。


ㅤチケットに記載されていた上映時間が近くなればなる程、セツナが抱く疑問はどんどん強まっていく。


ㅤ特に、先程の黒い熊に関してだ。

ㅤ煙幕と共に消えたのはマジックや手品の一言で誤魔化せるが、笑った時に見せた歯は、着ぐるみの造りには思えなかった。布や縫い方ではどうにもならない、本物の獣のような尖った牙と赤黒い歯茎​──いくら親切にしてもらったからとはいえ、一瞬見てしまった脅威に対する謎は拭えない。


「……」

ㅤまあ、本物な訳ないか。熊は日本語を喋らないし。

ㅤ理論的なセツナにしては珍しく適当にその結論を片付けて、とりあえず真実からは目を背けた。だって、チルドレンシアターには映画を観に来たんだ。謎を解きにきた訳じゃない。


ㅤ七月初頭に見たネットニュースとチルドレンシアターの関係性、観客は大勢いるのに外や一階では物音ひとつしなかった理由、本物のような歯を持つ着ぐるみの中身。気になることは山程あっても​──セツナには、がない。


ㅤ将来の夢は、もう捨てた。


ㅤだから、考えても仕方ないんだ。


「あんた、Dの9番じゃん!こっちおいで、ほらほら!」


ㅤ追想に浸るのも束の間。黒い熊に示された『青いソファ』に座った見知らぬ美少年が、大きく手を振ってセツナを呼んでいる。


「ど、どうも……」

ㅤ傍から見ても目立つ外見の美少年に、ついThe・陰キャみたいな返しをしてしまった。


ㅤ見る限りだと男子高校生に思えるその美少年は、黒い学ランを好き放題に着崩し、学ランの下にはシャツではなく派手な虹色のTシャツを着ていた。照明に照らされたベージュブラウンの髪は親しみやすさがあって、満面の笑顔は愛嬌に溢れていて、如何にも『モテそうな男子高校生』といった印象だ。黒髪で白いブレザーの制服をきちっと着込んだ冴えないセツナとは、何もかもが正反対。


「オレ、椎名未希シイナ ミキ!高校二年。あんたは?」

ㅤモテそうな男子高校生もとい未希は、セツナが近付くと同時に気兼ねなく握手を強いた。セツナの手より大きく骨ばった手が、勢いよく覆い被さる。


「せ、千望センボウセツナ。同い年だよ」

「セツナね!よろしく!」

ㅤそのままぶんぶんとリズム良く手を振ると、未希は満足気に手を離して、再度眩しく微笑んでみせた。


ㅤよく見れば、未希の胸元の缶バッジには『T4D8』と書いてあるから、シアター4のD列8席​──セツナの右隣の席を指しているという訳か。


ㅤ人脈が狭いセツナにとって未希に話しかけられたのは予想外で、反応の最適解がいまいちわからない。例えるならクラス替え当日に隣の席がクラス一の陽キャ、或いはクラス一顔面偏差値の高い男子だった時みたいな、形容しがたい気まずさを覚える。


ㅤしかし、陽キャはいつだって陰キャの心情がわからないもの。未希はセツナを隣に座らせると辺りを見回し、周囲を走り回る幼児や小学生の姿を瞳に映した。


「いやー、噂とは全然違う場所でびっくりだよなぁ。外観くそボロくなかった?」

「君も噂を聞いてきたのか?」

「ああ、うちの学校で先月チルドレンシアターに行ってきたって子がいてさ」

ㅤやはり、チルドレンシアターの噂は各地の学校で蔓延していたのか。弟が話していたことは事実だった。


「ここに来た日からその子はたちまち頭が良くなって、テストで毎回満点取るようになって、果てにはちょ〜ムズい試験か何かに合格したらしくて……あっという間に引っ越してったよ、国外に」

「国外!?」

「ああ。よく知らないけど、今はアメリカのド偉い研究所で働いてるらしいぜ、歴代最年少の凄腕研究者だってさ!凄いよな、映画観るだけで本当に夢が叶うんだから……」

ㅤ自慢話をするように、かといって他人事を語るかのように、未希はセツナの隣で豪快に足を組みながら話した。


「でも​──みたいだった」


ㅤこの場に来るきっかけとなった『噂』を語るその声色に宿るのは、チルドレンシアターに対する幼い期待でも、恋焦がれるような切望でもない。


一筋の疑いの火だ。


「……噂は本当、なのか……?」

ㅤセツナと同じく、チルドレンシアターのに目を付けていた未希を前に、セツナは小さく息を飲んだ。


ㅤチルドレンシアターに来たら夢が叶う​──なんて単純な誘い文句に釣られてきたものの、未希の証言は手早く信じるには恐ろしすぎる。どうして、急に頭が良くなるんだ。海外進出できる程に頭脳明晰になるんだ。何も説明がつかない​。


本当に、『チルドレンシアター』は誰かが考えた悪戯、或いはドッキリなのか​──?


「……なあ、未希くんにも夢があるのか?」

「え?」

「ほら、入口で渡されたこのアンケートボード……将来の夢を書く欄がある。なるべく詳しく記載して下さい、だってさ」

ㅤセツナは熟考の末、未希にひとつの議題を呈した。

ㅤ入場時に兎から貰ったバインダーに挟まっていた、一枚のアンケート用紙。数々の可愛い動物のシールで飾られたその紙の中心には、『将来の夢』を記載する欄がある。上映前にアンケートを配る映画館なんて、聞いた事はないが​──恐らく、この記載事項を運営側は確認しているはずだ。


「ああ、そのアンケートな。オレの夢はこれ!」


ㅤ未希は自分が貰ったアンケートボードを出すと、セツナに見えるように掲げて見せた。小学生が書いたような汚い字で、『名探偵になりたい!』と書いてある。


「へえ……!探偵か、いいよね。少年探偵団ごっことか、昔はよくやったな……依頼人の代わりに調査をする秘匿性のかっこよさ、憧れる!」

「詳しいな。刑事ドラマとか観るタイプ?」

「ああいや、その……うん、そんな感じだよ」

ㅤどうしよう、つい熱弁してしまった。聞き手の未希が嬉しそうにしているからいいとはいえ、あと少し声量が大きければ周囲の子供達にじろじろと見られていたかもしれない。セツナはこほんと咳払いを落としてから、目先の自分のアンケートへと集中する。


「…………」

ㅤ将来の夢。

ㅤどうしよう、なんて書けばいいんだ。なんて書いたら正解なんだ。わからない。今の自分は、何になりたいんだろう。


「​──ねえ、あなた達はいらないの?」


「!」

ㅤセツナがうんうんと唸っていると、今度は未希とは反対──セツナの左隣の席順を意味する『T4D10』と書かれた缶バッジを胸元に付けた髪の短い少女が、星型のポップコーンとドリンクが乗ったトレイを持ちながら話しかけてきた。


「あっちで色々配ってるよ。カラフルなポップコーンとか、キャンディとか、ジュースとか」

ㅤトレイを持った少女は「よいしょ」と一息つくようにセツナの左隣に座ると、自分が持ってきたポップコーンを一摘み口に放り込んだ。少女が空いた手で指した入口付近の販売コーナー、及びコンセッションでは、着ぐるみ達が色とりどりのお菓子やドリンクを販売している。映画と同じく、どれも無料らしい。


ㅤ睫毛が長く丸みを帯びた瞳に、切り揃えられた淡いブルーグレーのボブカット。フェイスラインを伝う髪が襟足よりも少し長いのがアクセントになっていて、身に纏った黒のセーラー服もよく似合っている。唐突な美少女の登場に、未希は嬉しそうにヒュウ♪と口笛を吹いた。


「まじか!じゃあ行こうかな。キミ可愛いね、名前は?オレと一緒に行かない?」

「わたしはもう行ってきたから……。早くしないと、上映時間になっちゃうよ」

ㅤ少女は申し訳なさそうに未希に微笑むと、ホワイエ付近に飾られた卵型の時計を目で追った。時刻は十九時四十分、急がないと上映が始まってしまう頃合だ。


「ちぇっ、つれないな。セツナの分も取ってくるけど、何かいるか?」

「じゃ、じゃあジュースを……甘いやつ……」

「オーケー、待ってな」

ㅤ未希は学ランのポケットに手を突っ込むと、渋々コンセッションへと向かった。フロア奥では二足歩行の動物達が未希を囲み、わらわらとお菓子の販売をしている。


「…………」

ㅤセツナは再び左隣に目を向けると、未希の誘いに乗らなかった少女は退屈そうに宙を見ている。

ㅤ立った時の身長がセツナとは数センチの差であるように思えたから、彼女は女子にしては高身長​だ。同年代の女子の平均身長を考えるに、彼女はセツナ達と同い年か、或いは年上かもしれない。


ㅤまあ、少女と目が合う気配も無いし、推察をしても仕方ない。セツナは気を取り直して真下のアンケート用紙に視線を落とした。


ㅤ名前、年齢、将来の夢。大雑把に分かれた三つの括りに、自分の情報を落とすように促されたものだ。とりあえずすぐに書ける範囲で、『千望セツナ』『17』と書いてみる。


​──将来ショウライユメをかいてね!キミがなりたいもの、やりたいことはなにかな?


ㅤわざわざフリガナ付きでご丁寧に書かれたそれを、セツナはどこか冷たく見下ろした。



「アンケート、書かないの?」


ㅤふいに、左隣に座った少女から声がかかる。

ㅤ少女は書き途中で手を止めたセツナを不思議に思っていたのか、ポップコーンを数粒口に含んだままセツナのアンケート用紙を覗いていた。隣に座っていることもあってか、少々距離が近く感じる。


「……いや、なんて書こうか迷っちゃって」


「迷う……?」

ㅤ少女はセツナの逡巡したような答えの真意をいまいち理解できなかったのか、丸い目をぱちくりと見開いた。その様子を見るに、彼女の『夢』には自分のようながないことを悟り萎縮する。


「……君は書いたのか?アンケートボード、持ってないみたいだけど」

「わたしはもう書いて、提出した。ほら、あそこ見て」

「これって、書かないと駄目なのかな?」

「たぶんね。わからないけど」

ㅤ少女が指を差した方を歩いている犬の着ぐるみは、数十枚のアンケート用紙が入った木箱を首からぶら下げていて、すれ違った子供達に記載漏れや提出し忘れがないか優しく呼びかけている。


ㅤ​提出しなかったらどうなるんだろう?


「​──くだらない。こんなものを書いて何になる?」


ㅤセツナが遠くで小学生に抱きつかれている犬の巨体をぼうっと眺めていると、今度は右隣の方から吐き捨てるような声がした。


ㅤ先程は未希に気を取られて気付かなかったが、未希の右隣にも、恐らく男子高校生である少年がもう一人いたらしい。缶バッジに書かれた席番は『T4D7』。セツナからは二つ離れた席だ。


「君は……?」

「僕に何か?」

「いや、別に」

ㅤ失礼だが、少々感じが悪い少年だと思った。

ㅤ制服姿のその少年は、座高と脚の長さを見るにセツナや未希よりは背がやや低い。かといって、鼻につくような長い前髪から此方を覗いている鋭い眼光が近寄り難さを放っていて、異論を示す気にはならなかった。髪型だけはキノコみたいで可愛げがあるのに。


「セツナ〜、色々持ってきたぜ。好きなの取りな」


「あ、ありがとう……」

ㅤ持ち場へ戻ってきた未希の手には、菓子やジュースが乗った二つのトレイが乗っている。セツナは自分の分を受け取ると、少女と未希の間に挟まれながら、残りの待ち時間の過ごし方を模索した。


「お前ら、こんな意味不明な場所に来てよくもまあそんな呑気にいられるよな」

ㅤキノコ頭の少年は、悪態をつくようにそう吐き捨てるとその場から去っていった。背が低いこともあってか、少年の姿は忽ち人混みに隠れ、レストルームの方へと消えていく。


「……なんだ?アイツ」


「ああいう子もいるんだよ、たまに」

ㅤ少年の態度に嫌気が差した未希が口を尖らせると、少女がセツナの分のお菓子をつまみ食いしながらそう答えた。が、セツナは自分のトレイに乗ったキャンディ入りの小瓶を取られたことより、少女の言い方が気にかかった。


「たまに……って、君はここに来たことがあるのか?」

「うん。わたし、ここの常連客なの」

ㅤセツナの問いに軽々しくそう答えながら、小瓶を開けて小さなキャンディを一粒口に入れる少女。そのあっけらかんとした様子に、セツナも未希も言葉に詰まった。


​──チルドレンシアターには、同じ観客でも二回以上入場することが可能。


ㅤそれは初耳の事実だが、つまり、少女は少なくとも一回は『夢』を叶えてもらったんだろうか。それとも、『夢』が叶わなかったからもう一度来た?いや、チルドレンシアターの噂が本当なら、夢が叶わなかったというのは有り得ないはず​──。


ㅤセツナが口に手を当てて考え込んでいると、少女は二粒目の飴を瓶から取り出した。子供の小指サイズにも満たないその白い熊のキャンディは、にこやかに笑っている。


「……ふふ」

ㅤ白い熊につられてか、少女も薄く微笑んだ。


「どわっぷ!!」

「セツナ!」

ㅤ少女の笑みを見た瞬間、視界が一瞬暗転する。少女は手に取ったキャンディを、自分の口ではなくセツナの口に思い切り押し込めたようだ。反射的に避けることも叶わず、倒れかけたセツナの体は未希によって支えられ、セツナの口内には飴の食感が漂う。


ㅤ薄々目を開ければ、少女は謝る素振りもなく小瓶の蓋を閉め、神色自若と微笑んでいた。


「​苗字だと他人行儀だから──涼夏リョウカって呼んでくれたら嬉しいな、ダーリン♡」


ㅤ未希にもたれ掛かりながら目を丸くするセツナの鼻をデコピンすると、少女​──涼夏はその場からご機嫌に立ち上がる。


「だ、だありん?」

「最近観た映画の受け売り。ほら、そろそろ上映の時間だよ​。こっちに来て、二人ともっ」

ㅤそんなに俺の反応が面白かったのかと問い質したくなってしまう程、涼夏は愉快気にセツナと未希の元から離れ、ホワイエの方に足取りを進めていく。


ㅤ最近の女子高校生は、みんなこうも距離感が近いものなのか。出会ったばかりの男子高校生の口に飴玉を放りこみ、デコピンするのは普通なのか。


ㅤ昔から人脈が狭いセツナには何一つその問いの正答がわからなかったが、視線の先を歩く少女は、歩くだけで映画のワンシーンを飾っているかのように純情可憐だ。

ㅤ彼女の指先も、足取りも、顔も、振る舞いも。全てが一連の流れを『可愛い悪戯』の一言で済ませてしまえそうな程、計算尽の愛嬌に思える。


ㅤだけど、その人形のような振る舞い方が、どこか人間離れしていて恐ろしいとも思った。


​──掴みどころのない女の子だ。


「ダーリンねえ……羨ましい限りだぜ、兄弟」

「ダーリンでもないし兄弟でもないよ……」

ㅤ未希は未希で心の距離が近すぎる。

ㅤ未希も涼夏も、どちらも初対面のはずなのに何故こうも親しく接してくるのかと、セツナは苦笑しながら飴を噛み砕く。



飴は無味無臭だった。


​※ㅤ※ㅤ※


「そうだ、せっかく会ったんだし連絡先交換しないか?」

ㅤホワイエからシアター4へと向かう途中、未希が先を歩くセツナと涼夏を呼び止めた。


「皆学校違うっぽいし、ここ出てからじゃ会えないかもしれないしさ。ちょっと待ってな」

ㅤ未希は言い切ると、ポケットから自身のスマートフォンを取り出した。確かに、今日話した人達はみんな他校の制服を着ていたし、今日帰宅した後も連絡を取り合うのは名案かもしれない。セツナもポケットからスマートフォンを取り出すと、チャットアプリを開く。


「……あれ?」

「どうした?」

「電波が届かない。ここ、回線繋がってないのか?映画館なのに」

ㅤセツナがそう言うと、慌てて未希も自身のスマホを操作した。だが、結果はどちらも同じこと。全てのアプリデータの読み込みが遅く、通じず、SNSや電話で情報交換が出来る状況には思えなかった。


ㅤ二人の会話を横目で見ていた涼夏が、ふいに両手で二つのスマホを奪い、電源を切る。


「ここは電波も届かないし、『映画』を見ないと家にも帰れないよ」


「えっ」

ㅤ衝撃的なその言葉に、すぐには声を返せなかった。

「家に帰れないって?涼夏さんは常連客なんだろ、帰ったことがあるんじゃないのか?」

「あくまで、それは映画を観てからの話。映画を観ずに帰った人は一人もいないの」

「……まあ、でもいいんじゃね?映画一本みりゃ帰れるんだ、気楽に行こうぜ」

ㅤますますチルドレンシアターの仕組みや在り方に疑心を抱くセツナ、淡々と事実を告げていくだけで助言はしない涼夏、この状況で尚危機感を覚えていないように思える未希。それぞれの波長の合わなさを覚えながら、シアター4までの道程は無言で歩いた。


ㅤ外装と一階は汚くカビているのに、二階からの内装は埃ひとつなく洒落ていること。着ぐるみが本物の動物のようなリアリティを持ち合わせていること。電波が繋がらず、映画を観ない限り帰宅が許されないこと。数々の不審点が、蜘蛛の糸のように脳裏に絡みつく。


ㅤもし、着ぐるみの中身を知ってしまったらどうなる?夢と希望に溢れる映画館から、自分の家に帰りたがる子供観客が現れたら、運営側はどうする?もし上映中にキャンディの誤飲などで子供観客の意識が無くなったら、運営側は救急車を呼ぶのか?


ㅤそもそも、上映開始時間は夜の二十時からなのに、何故幼児や小学生が集まっている?


大人保護者は何故探しに来ない​──?


ㅤもしこの先何か起きたら、自分の身は自分で守るしかなくなってしまう。だって、ここには頼れる『大人』​が一人もいないのだから。



「なあっ」

ㅤ勇気を振り絞り、セツナは足を止めて二人を呼び止めた。


「……この映画館、なんかおかしくない?」




ㅤ答えは無かった。

ㅤ未希も涼夏も、後方で立ち止まったセツナに見向きもしないで、先にどんどんと進んでいく。先程まで両隣に座っていた二人の後ろ姿が、どんどん離れていった。


​──聞こえなかっただけ、だよな。


ㅤセツナは一粒の冷や汗を頬に垂らしながら、トレイを持って二人の後を追う。シアター4の入口がすぐ目の前に来ても尚何も喋らない二人に、若干の恐怖心を抱きながら。


「……二人とも」


「!」

ㅤシアター4の扉を開こうとした涼夏が、扉に手をかけたまま振り向いた。未希がどう思ったかはわからないが、二人が寡黙を貫いていたことに不安感を覚えていたセツナには、これ程安心出来ることはない。ほっと胸を撫で下ろすセツナを見て、涼夏は不思議そうに首を傾げてから、



「ここから先では、現実のことは考えちゃ駄目」


静かに忠告をした。


「……どういう意味だ?」

「……さあ……」

ㅤセツナは続いて未希も喋りだしたことに驚きながらも、二人から目を逸らす。扉の前の涼夏からは六歩、未希からは三歩離れた後方に立ち、『Theater4』と書かれた看板を見た。看板に書かれた猫は、満悦した笑みを浮かべていた。



​※ㅤ※ㅤ※



ガラっと扉が開けば、そこはもう子供だけの世界チルドレンシアター

大人は一人もいなくなる。

欲しいのは、瓶に入ったキャンディを小さな手のひらいっぱいに乗せて、楽しそうに眺める子供だけ。

他は何も要らないの。



​※ㅤ※ㅤ※


「わ……もう少し派手なものかと思った」


ㅤ先程までの緊迫した空気感が嘘だったかのように、Theater4の中に集まっている子供達はわいわいとはしゃいでいて、セツナは少し安心した。上映直前であるにも関わらずポップコーンを頬張る子供は無邪気で、可愛らしい。席から立って、何百席もある劇場用の椅子を眺望する子供は、夢に溢れている。


「なーんで所々にマネキンやらぬいぐるみやらが座ってるんだ……?」

「早く座ろう」

ㅤ空いた席に座っているどこかリアルな動物のぬいぐるみ達を訝しむ未希を涼夏が急かし、セツナも慌てて後を追う。


ㅤセツナ達の席はD列だから、前から四番目の席だ。

ㅤ派手なロビーとは違い、映画館らしく品のある内装に少し緊張しながら、セツナは青い椅子に座ってドリンクを右手の位置に置いた。お菓子は──もう食べないかもしれない。


「おお、このポップコーン意外といけるぞ!セツナも食う?」

「……いや、いらない」

「?」

ㅤ隣でポップコーンをむしゃむしゃと食べている未希の誘いに、セツナは苦し紛れの愛想笑いを返す。涼夏にも未希にも弟にも悪いが、正直、早く帰りたい気持ちが勝っていた。


ㅤそういえば、ロビーからシアターに移動する際、涼夏の言動に気を取られすぎて、アンケートボードを椅子に置きっぱなしにしてきてしまった。

ㅤ今から取りに行きたいところだが、シアター4はエレベーターを利用しないとロビーに辿り着けない位置にある。取りに行き、記載し、提出してきた頃には、上映が始まっているかもしれない。


「……後で書けばいいか」


ㅤどうせ、将来の夢の欄は、書く手が止まって書けないんだし。


「​──おい!!」


ㅤセツナが諦めるように椅子に頬杖をついた瞬間、未希が座る方から叫び声がした。慌てて肩を震わせて見れば、そこにいるのは先程のキノコ頭の少年だ。


「あ、さっきの奴だ」

「あ、さっきの人だ」

ㅤ未希も涼夏も動じていないのに、自分だけ大袈裟に怯えてしまった気がして、セツナは恥ずかしそうに顔を赤くして縮こまった。


「お前ら、ロビーにがいる……!さっさとここから出た方がいい!僕は見たんだ!!」


​──化け物。

ㅤここまで走ってきたのか、汗に塗れ息も絶え絶えで状況を伝えるキノコ少年の口から、信じ難い単語が出た。キノコ少年の形相だけ見れば、嘘を言っているようには見えない。でも、そんな言葉を軽々しく信じきれるはずもない。


化け物ってなんだ?


「へいへい、嘘乙〜。涼夏ちゃんが言うなら信じるけど、感じ悪い奴の言うことは信じませ〜ん」

「本当なんだって!!」

「いいから座れよ、感じ悪男改めホラ吹き坊主。あんたもチケットを手に入れて来たなら、上映終了してから出ればいい」

「くそ……っ」

ㅤキノコ少年は未希に促されるまま未希の右隣に座ったが、その眼には恐怖が映っている。


「二人とも、喧嘩するなよ……」

ㅤ一体どんな化け物がいたのか、キノコ少年に聞いてみる勇気は出なかった。


「​──すみません、通ります」


「あ、どうぞ」

ㅤ怯えるキノコ少年、怯えていない未希、怯えたままのセツナ、怯えない涼夏の前を、凡そ小学校高学年くらいの身長の女の子が通った。胸元には『T4D11』​──涼夏の左隣を意味する缶バッジを付けた、下向きのポニーテールで黒いワンピース姿の女児は、至って冷静に涼夏の隣に座る。


「……本当に子供しかいないんだな」


ㅤ大人が誰一人いない空間。


ㅤ右も左も後ろも前も、子供しかいない空間。


ㅤ日常生活だと有り得ない光景を再確認して、セツナは底知れない非日常感に固唾を飲む。すると、同時にシアター内の照明が暗転し、誰の顔も見えなくなった。


「暗くなった!上映時間になったのか?」

ㅤ『■■■』志望の男子高校生・千望センボウセツナは、周囲の反応を気にしてばかりいる。


「ば……化け物は、もういないよな……?」

ㅤ『■■』志望の男子高校生・キノコ少年(本名不明)は、未知の存在に怯えている。


「騒ぐなホラ吹き坊主!改め弱虫!」

ㅤ『探偵』志望の男子高校生・椎名 未希シイナ ミキは、既に何かに気付いている。


「…………」

ㅤ『■■■■』志望の女児(年齢、本名不明)は、スクリーンをただ見つめている。


「​──始まる」

ㅤ最後の少女は、全てを知っている。



ㅤスクリーンの画面に一人の少年が映る。

ㅤそれと同時に、映画の開始を今か今かと待ち焦がれていた子供達が、わっと盛大な歓声を上げた。


ㅤアニメ映画だろうか。スクリーンに映った少年は、動きやすさに特化したようなカラフルなピエロの洋服を着ていて、胸元を白いフリルタイが飾っている。派手な金髪には白と黒のメッシュカラーが混ざっていて、前髪の一部を三つ編みにし、白い熊の髪飾りがそれを纏めている。観客全員の視線を奪う少年の眼は、まるで太陽のような飴色だ。


《ごきげんよう、夢を叶えたい子供達よ。ようこそ、チルドレンシアターへ!僕は総合管理人のトイ、子供達が大好きさ!》

ㅤトイと名乗った少年は、スクリーンの中で豪快に両腕を広げる。彼を飾るアニメーションは華麗に動き、星のエフェクトと共に楽しげな雰囲気を演出していた。洋服の上に纏った宇宙柄のマントが、画面の中でふわふわと楽しげに揺れている。


《ここは君達の理想郷、なんでも叶う映画館。非現実的な夢も、成し遂げようのない夢も、なんだって叶う!》


ㅤトイがシアター内全体に呼びかけるようにスクリーンの中を駆け回ると、前の席に座る子供達が「わーい!といー!」と声を上げて手を振った。それに反応するように、画面の中のトイも嬉しそうに手を振る。


ㅤ現代の​アニメーション技術で、画面の中のイラストがリアルタイムで動くなんてこと、有り得るのか?


ㅤトイの滑らかで無駄のない無邪気な動きは、3Dモデルのそれには見えない。でも、誰かが上映のために用意したアニメーションにしては上手く出来すぎている。


ㅤそれに今、画面の中の彼が、『チルドレンシアターの総合管理人』だと自称した。現実には存在しないはずの彼が、どうやって映画館を管理するというのか​──。


「​──!」

ㅤセツナの思考回路に『現実』という言葉が現れると同時に、左手に生暖かい感触が被さる。涼夏だ。涼夏が、セツナの手に自分の手を重ねている。


「……大丈夫。あなたは、ダーリンだから」


ㅤ言葉の意味がわからなかった。

ㅤでも、涼夏という少女のは、そこに存在している。


ㅤ子供達に手を振ったり声掛けをしていたトイの視線が、涼夏、セツナと涼夏の手元、セツナの順に移った気がした。無機質な少年は此方と目が合うと、何も知らない子供のように、この場の全てを取り仕切る神かのように、神々しく眩しい笑みを見せる。


ㅤチルドレンシアター総合管理人​──トイの指先が、セツナの心臓を指差した。




《​──君の夢も叶えてあげる。強引に、純真に、至極真っ当に!》



ㅤやがて、セツナは意識を失った。

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