第2話『夏来る』
特に幸せだと感じることはあまりないけれど、別に悪くもない。
それなりに日々を頑張りながら過ぎてゆく毎日。
良いことがあれば嬉しいし、悪いことがあれば辛い。
それらは、結局プラマイ0に落ち着くものなのだと信じているが、現実というのはそんな予定調和ばかりではないから面白いのかもしれないと思ったりもする。
これといったきっかけは何だったかよく思い出せないけれど、気付いたら僕は旅をしていた。
別にそれを望んだわけではない。
気付けばそんな状況になっていて、そうなってしまったからには、今出来る事を精一杯やるしかなかった。
それで僕は今、旅をしている。
「ここで何をしているの。」
声をかけられて僕は正直に答えた。
「どこか宿泊出来るところはないかと思って探していたんだ。」
「こんなところで。」
学生かと思われるその女性が驚いたのは無理もない。
ここは観光地でも繁華街でもなかった。
何も無いといえば何も無い。
そんな場所に人がいたことに、僕のほうが驚いたくらいだった。
彼女はナツキといい、15歳でこの辺りに住んでいるとのことだ。
「この辺りに旅館なんてないけど、うちなら泊めても良いよ。」
そう言ったナツキは年相応の幼さがあるのに、その言葉には確かな信頼を感じさせる重みがあった。
「急に訪ねては、ご迷惑ではないかな。」
僕は野宿でも構わないかと思っていたが、宿泊先があるに越したことはない。
「別に構わないよ。今日のお客はあなただけじゃないし。」
「そうなんですか。よけいお邪魔ではないのでしょうか。」
「いいよ。むしろいてくれたほうが助かるから。」
その後は特にたいした会話もないまま、僕はナツキに連れられて彼女の家へと向かった。
そこは驚くほど立派なお屋敷だった。
観光地にあれば、文化財としてちょっとした観光スポットになるような風貌である。
「ここに住んでいるの。」
僕はそれだけ尋ねるのがやっとだった。
「そう。広いだけで不便な事ばかりだけどね。」
「そんなものかな。」
手入れの行き届いた庭園を目の当たりにして、思わず息を呑む程の感動を覚えている僕を見ながらナツキは呆れたよう肩をすくめた。
玄関にはお客のものと思われる履物がいくつか並んでいた。
「ちょっとこの部屋で待っていてね。使って良い客間を確認してくるから。」
そう言って通された応接室は趣のある和室で、床の間には季節の草花が趣味よく飾られている。
僅かに薫る焚きしめられたお香の香りと静かな空気が心地よくて、軽い眠気に意識を奪われそうになった頃ナツキが戻ってきた。
「客室に案内するからこっちに来て。」
そう言って僕は誘導されるままに着いてゆく。
いそいそと先をゆくナツキは、制服から部屋着に着替えていて更に幼く見えた。
通された離れの客間は、もとは蔵だった建物を改造して部屋にしたものらしい。
重厚な壁に囲まれていて窓は高い所にしかなかった。
しかし趣のある調度類が過不足なく配置されていて、とても居心地の良い空間である。
隅々まで手入れの行き届いた印象は、このお屋敷のどこを見ても徹底的に一貫している。
「ここは自由に使ってもらっていいので。食事ができたら持ってくるね。」
「すみません、お世話になります。」
人の家なのにこんなにワクワクしている自分に驚いた。
たいてい家というものは、その住人のための空間であって排他的になりがちなはずである。
しかし、このお屋敷は来たこともないのに何故か郷愁すら感じてしまう。それは、決して僕の気のせいではなさそうだ。
おそらく、この家は昔からずっと人を迎え入れるために存在していたのかもしれない。この居心地の良い空気の中で僕はそんな事を考えていた。
「お食事をお持ち致しました。」
そう言って入ってきたのはナツキではなく、年の頃は40代から50代といった感じの男性だった。
その食事のクオリティは、お金を払ってでも食べに来たくなるレベルだ。
趣味の良い器に美しく盛りつけされた料理は、どれも手間がかかっていて何より間違いなく美味しかった。
さり気なく飾りに使われている青もみじ等は、おそらく庭園で栽培されている草木なのではないだろうか。
食事が終わった頃、また先程の男性がお膳を下げに来てくれた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。」
「お口にあった様ならば良かったです。」
「ナツキさんにもきちんとお礼を伝えていなかったので、よろしくお伝えください。」
「彼女は朝が早いのでもうお休みになっています。おそらくまた明日お会いになれるでしょう。」
「そうですか。それにしてもこのお屋敷は素晴らしく管理が行き届いていますね。まるで高級旅館に宿泊に来たようです。」
「それ程のものでもありませんが、特殊な家ではあるかもしれませんね。」
そう言うとその男性は静かに笑った。
「お風呂はいつでもご利用いただけます。それではゆっくりお休みください。」
丁寧にお辞儀をしてその男性は部屋から出ていった。
話しぶりからして、ナツキの父親というわけでもなさそうだ。
翌日、目覚めて部屋を出ると気持ちよく晴れていた。
庭園を散策しようと思い、そちらに向かうと人影があることに気付いた。
少し様子をうかがっていると実に手際よく庭園全体の清掃をして、水をやり、気になるらしいところを丁寧に観察しているようだった。あまりに手慣れたその様子から、それは専門の庭師だろうかと思われた。
感心して眺めていると、庭師と思われるその人物がこちらに近付いて来る。
「おはよう。昨日はよく休めた?」
そう言って深く被った作業帽子を脱いだその人物を見て、それがナツキであったことに初めて気付いた。
「この庭は君が管理しているの。」
「そうだね。だいたい私がやるかな。朝食はこの後炊き出しをするのでちょっと待ってね。」
「そこまでご馳走になってしまっては申し訳ないですよ。」
「別にこちらは構わないから。あなたが良ければ食べて行って。」
「何から何まで本当にありがたいことです。せっかくなのでお言葉に甘えさせてください。」
「うん。」
さり気ない返事だったが、ナツキの表情が少し嬉しそうで僕も何だか嬉しくなった。
「お世話になりました。」
朝食をいただき、荷物をまとめて僕はここを出ることにした。
「そしたら私も出るから、途中まで送るよ。」
出会ったときと同じ制服を着たナツキが僕について出てきた。
「昨日はどうしてあんな所にいたの。」
「あそこらへんに素晴らしい色の池があると聞いて見に行こうと思っていたんだ。」
「そう、あの池ね。そしたら私が案内するよ。」
「君はこれから学校だろ。」
「別に、かまわないよ。」
そう言って、先を歩くナツキに僕は黙ってついていった。
思った以上に歩き、だいぶ疲れかけた頃その池は忽然と眼前に広がっていた。
それは本当に素晴らし景色だった。
「あの画家の人がこの池を描いた時、うちに滞在してたんだって。」
それは、今回僕がここに来るきっかけにもなったそこそこ有名な絵画のことだろう。
「そうなんだ。それは僕としてはちょっと感動的で嬉しい話だな。」
僕は、こみ上げる思いをうまく表現できないもどかしさを感じた。
「おじいちゃんがその人と知り合いだったらしいよ。昔はもっと色々な人があそこに滞在していたんだって。」
「あんな素敵なお屋敷なら皆喜んだのだろうね。」
「私は嫌いだった。」
「まあ、あれだけのお屋敷を維持管理するのは大変だろうな。」
ナツキが、呟くように話す。
「昔は必要だったのかもしれない。おじいちゃんが色々なことをしていたから、色々な人が集まってきた場所なんだって。」
今現在、あそこにいるのはナツキの祖父と彼に従う数人の人達との事だ。
そして、ナツキの両親は不在らしい。忙しい彼らは、ナツキをあの家に預けた。なので、ナツキはこれまで当然のようにあのお屋敷の人達とあのお屋敷のために過ごしてきた。
「全部無駄だと思ってた。もう誰も必要としないのに毎日磨き続けたりするのは、過去の栄光に縋るおじいちゃんの身勝手な自己満足でしかないって。」
僕は黙ってナツキの話を聞いていた。
「今のおじいちゃんの持っているものなんて、あのお屋敷と思い出くらいしかないの。詳しいことは知らないけれど色々なものを失ったみたいだから。くだらないプライドにつきあわされて迷惑だと思ってた。」
そう言ってからナツキは少し考え込んでいた。
「あそこね、近いうちに道路が通るんだって。」
そのことで失われるものの大きさを僕にはうまく想像できなかったか、少なからず残念だと思った。
「あのお屋敷はどうなるの。」
「全部無くなるらしいよ。」
それを聞いて、僕は何だか悲しい気持ちになった。
ナツキがそのことをどう思っているのか気になって、僕は黙って待っていた。
その空気に促されるようにナツキは話を続けた。
「今までは全部なくなればいいと思っていた。だけどそれを聞いた時、何だか悔しかった。」
そう言ってナツキは言葉にできない言葉を探すように、もどかしい表情をする。
僕はそんなナツキにかけるべき言葉も思い浮かばないまま、ただ眼前に広がる美しい池を眺め続けていた。
今日の美しい空の色を写したその池は、確かに美しかった。
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