第四章 Under Dog Howl⑤
真珠のように純白な肌、絹のように美しい白髪、鮮血のように真っ赤な瞳。
真っ白な何もない空間で、天使のように美しい少女が柔らかく微笑んでいた。
「久しぶり、スズラン」
「……ノノ?」
「うん、そうなの。もう顔、忘れちゃっタ?」
悪戯めいた笑顔をノノが浮かべる。
冗談だということは分かっていたが、今の鈴蘭にそれを受け流せるほどの余裕はなかった。
「忘れるわけない。片時も、ただの一度だって! ノノのこと忘れたことない!」
彼女に駆け寄って抱きしめようと鈴蘭は腕を伸ばすが、見えない壁に弾かれる。
「なんで、どうして!」
何度も腕を伸ばすが、触れることすら叶わない。
そんな鈴蘭を見つめながら、ノノは瞼を伏せる。
「ノノはスズランをずっと見守ってる。ノノは約束しタ。スズランを守るって。だから、もしスズランの力だけじゃどうしようもないときがきたら、ノノを呼んで」
ぼっ、と真っ白な空間に裸足で立っているノノの足元が燃え始めた。
その炎はだんだんと大きくなり、彼女の脚を、髪先を、胴体を包んでいく。
「いや、ノノ! ノノ!」
炎に包まれていく彼女を助けようと手を伸ばすがその手は届かない。
やがて炎は彼女の全身を飲み込んだ。炎に包まれながらノノは柔らかく微笑む。
「ずっと見守ってる、スズラン」
そして彼女の全身は炎に包まれて灰となり、その場に崩れ落ちた。
***
荒い息を繰り返しながら、鈴蘭はベッドから飛び起きる。
――夢。
そんなことは分かってた。
しかし目の前でノノをもう一度失うという光景は、鈴蘭の心に信じがたいダメージを与えていた。UDH施設内の居住空間。その部屋の中にある洗面所へ向かい、鈴蘭は胃の中のものを全て吐き出した。
顔を上げると鏡の中には自身の顔があって、昨日まで普通だった二つの瞳が真紅に変貌していた。そして手元を見ると昨日切ったはずの爪が鋭く伸びていた。
(……異常なのは分かってる。だけど、アレクシス・アッカーソンを殺せるほど強くなれるのなら、どれほど変貌しても構わない)
それほどの覚悟があるというのに。
「それなのに、どうしてあたしは、アイツに一撃すら与えられないの!」
怒りにまかせて放った拳によって、目の前の鏡が粉々に砕け散った。
荒く息を繰り返しながら、鈴蘭は六日後に迫っているローウェルとの勝負のことを考えて項垂れた。
***
一〇分ほど深呼吸を繰り返すと瞳の色も爪の長さも元に戻った。
どうやら興奮状態にあると変化が生じるようだった。異常が残ってないことを確認して、彼女は研究棟へと向かった。
「ひひ、今日はどうしたのさ、鈴蘭ちゃん」
「その、どうしてもローウェルに勝てなくて、相談に」
鈴蘭が椅子に座ると薄汚れた白衣を纏ったニーナ博士は脂ぎった髪を揺らしながら、音程のとれていない鼻歌を歌いつつ紅茶を淹れはじめた。ティーカップが机に揃うよりも先に鈴蘭は口を開く。
「それで、あの人に勝つにはどうすればいいんでしょう?」
「ひひ、焦らない焦らない。さあ紅茶でも飲んで。……どうしてもローウェルに勝てないってことだけど、そ、そんなわけないんだよ。データを見る限り鈴蘭ちゃんは視力、聴力、筋力、持久力、瞬発力、新陳代謝、重力耐性、MRN値、どれをとってもローウェルを凌駕しているんだから。今の鈴蘭ちゃんと同等の身体能力を有するのなんて、ISAでも一人か二人じゃないかな。ひひ、本当に凄いよね」
「それでも、あたしはアイツに一撃すら当てることができません」
ティーカップの中に浮かぶ紅茶の波紋を眺めながら、鈴蘭は小さな声でそう告げた。
「ローウェルに勝てないのは、きっと意識の差があるせいだと思うよ」
「意識?」
「そう。意識、覚悟、あるいは悪意の差」
ニーナ博士がティーカップを持ち上げる。
鈴蘭も紅茶を喉に流し込んだ。
「少し姫ちゃんの昔話をしてもいいかな? ひ、姫ちゃんは元々ISAで働いていて、ISA設立当初からスペースフレームの設計開発をしていたんだ。ISAには姫ちゃんに並ぶ天才研究者がもう一人いたんだけど、そいつがスペースフレームの性能を向上させろって言いだしてね。姫ちゃんは反対したんだ。性能を上げるのは簡単だけど、使用者に負荷がかかって寿命を縮めてしまうのが目に見えていたから。そいつはこう言った。――『なら、その性能に耐えられるスペースガールズを造ればいい』って。人間を物みたいに扱うそいつの意見を姫ちゃんは受け入れられなかった」
ごくり、と更に鈴蘭は紅茶を飲む。
「ひひ、だけど姫ちゃんも研究者の性が抑えられなくてにぇ。ほ、本気で開発すればどれほど高性能になるのか試してみたかった。だから姫ちゃんは秘密裏に開発したんだ、最強のスペースフレームを。すぐに破棄する予定だったけど、アイツはそれをいつの間にか持ち去って、そして奪い返されないように、姫ちゃんにいくつかの罪を擦り付けて追放した」
「じゃあ、ニーナ博士はその研究者に復讐するために?」
「ううん、違うよぉ。姫ちゃんがUDHに所属してるのはもっと愚かな理由だから」
それはさておき、とニーナ博士は邪悪な笑みを浮かべた。
「そろそろ効いてくるかなー?」
「……? 一体、何が……って、ッ!」
急に指先が痺れ始めて身体に力が入らなくなり、鈴蘭は机に突っ伏した。
ぴくりとも動けない。その状態で、やけに優し気な声だけが降り注いでくる。
「姫ちゃんがさっきの話で伝えたかったのは、目的のためなら手段は選んじゃいけないってこと。目的のためなら偽りの月も堕とすし、英雄も殺すし、紅茶に毒だって盛る」
腕を動かそうとするがまったく動かない。怖い、と鈴蘭は感じた。
今、ニーナ博士に襲われれば何も抵抗できない。されるがままだ。
「そう怖がらなくていいよぉ。な、何もしないから。鈴蘭ちゃんの毒耐性を知りたかったんだけど、正直に話したら協力してくれないと思ったから、嘘ついて毒盛っちゃったんだ。おかげで、象三匹を殺す量でようやく動きが止まるって分かったにぇ」
鈴蘭の腕へと解毒剤を注射しながら、ニーナ博士はやけにしっとりとした声で話す。
「ローウェルには背負っているものがあるんだにぇ。アイツはそれを為すためならテロリストにだってなるし、人類の敵対者にだってなるし、裏切り者として歴史に刻まれても構わない。目的のためなら手段は問わないし、自分がどうなっても構わない。その意識の差がローウェルと鈴蘭ちゃんの違いなんだと思うにぇ」
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