第四章 Under Dog Howl④
それから一か月が経った。
レベルⅢ細胞のおかげか鈴蘭の身体能力向上は著しく、フルマラソンは二時間ちょっとで完走できるようになり、射撃も一〇〇発をほぼ連続で当てられるようになった。俊敏性と持続性の向上が特に凄まじく、肉体は疲労を知らず、身体を動かせば動かすほどもっと速度を上げられるのではないかという錯覚に陥った。
「ひひ、驚異的だにぇ。人間の限界をとうの昔に超えているよ。ISAに所属してたときに色んなスペースガールズを見てきたけど、ここまで成長著しい子はいなかったぜ」
身体計測データを眺めながらニーナ博士が喜ばしそうに口元を歪める。
「それでもどうして、あいつには勝てないんでしょう?」
あれから一か月経ったが、鈴蘭は未だ模擬戦においてローウェルに触れることさえ叶っていなかった。どれほど俊敏に動いても動きを読んでいるかのように避けられ反撃され、小一時間は動けなくなるぐらい痛めつけられる。
「姫ちゃんは戦った経験なんて人生で一度もないけど。そ、それでも多くのスペースガールズを傍で見てきた身から言えば、きっと、経験が違うんだと思うよ?」
棚から二つのマグカップを取り出しながら、ニーナ博士は告げる。
「月の悲劇を戦い抜いた一期生。彼女たちはそこで地獄を見たんだよ。その経験を得ているからこそ、彼女たちは圧倒的な戦闘センスと覚悟を有している。つまりまあ、ちょっと前まで一般人だった鈴蘭ちゃんがローウェルを倒すのは無理って話だにぇ」
ひひひひ、と笑いながら虹色のエナジードリンクをマグカップへと注ぎ、それを鈴蘭の目の前に置く。鈴蘭はその毒々しい液体には口をつけなかった。
***
その後も、鈴蘭は毎日訓練を続けた。
肉体が悲鳴を上げるまでひたすら模擬刀を振るい、低酸素マスクをつけた状態でランニングをし、重力訓練装置に身体を固定して三半規管が狂うのも構わずぐるんぐるんに回される。そして何度も嘔吐を繰り返しながら射撃訓練を行う。
それでもローウェルには一切敵わずボコボコにされて、一日の終わりには意識を失うようにベッドに倒れ込む。そんな毎日を繰り返す。
早くノノの仇をとりたい。そのために早くローウェルとの勝負に勝って、スペースフレームの操作や能力の発動方法を学ばないといけない。
それなのに進捗は一切見られず、鈴蘭の心には焦りが浮かんでいた。
***
ある日の夜、鈴蘭がいつものように庭園へと向かうとローウェルが一人で待ち構えていた。我慢ができなかったのかワインボトルの中身を飲み干して泥酔していた。
「遅かったな、宵野鈴蘭」
黒くて艶やかな髪を夜風になびかせながら、紅潮したローウェルが立ち上がる。
彼女たちは向かい合って、互いに戦闘態勢を整える。
先に動いたのは鈴蘭だった。拳銃を引き抜いてゴム弾を発砲する。
ローウェルはそれを予期していたように軽く身体を逸らして避ける。二発目、三発目。しかしそれも回避すると彼女は鈴蘭へと一気に肉薄した。鈴蘭は焦ったように銃口を向けるが、拳銃を握った片手ごと蹴り飛ばされる。
「常に間合いを意識しろ。状況に応じてさっさと得物を変えろ」
ローウェルから迫りくる拳を避けながら鈴蘭は腰にさげた模擬刀を引き抜こうとするが、その隙を狙われて、腹部に強烈な蹴りがめり込んだ。
「ぐ、ぅぅ………っっ!」
「愚の骨頂だ。敵を目の前にしながらうずくまるな」
しゃがみ込んだ鈴蘭へとローウェルが一歩、二歩、と近づいてきた瞬間、鈴蘭はバネのように立ち上がると同時に抜刀し、油断しているローウェルへと向かって模擬刀を振るった。これこそが鈴蘭の用意していた秘策だった。
レベルⅢ細胞とこれまでの訓練によって彼女の抜刀速度は音速すら超えている。これを油断している相手に浴びせれば避けられるわけがない。
そう確信していた。しかし。
「それでも光よりは遅ェ」
音速すら超えた一閃をローウェルは片手で受け止めていた。
ぐぐ、っと力が込められて、刀身が鈴蘭のほうへと押し返されていく。そしてローウェルは無表情のまま告げた。
「ムーンフォール計画の実行まで六か月を切った。成長の見込めない人間にこれ以上時間は割けない。テメェは地球に置いていく」
「な……っ! ちょっと待ってよ! それじゃ、あたしの復讐はどうなるの!?」
「知るか。地球に残って、オレが計画を遂行するのを指咥えて見てろ」
「何それ、それじゃあたしの復讐心は晴れない。ノノの仇をこの手で直接とれないなんて、心に渦巻くこの怒りはどうすればいいの!? あたしは一体、何のためにリハビリに耐えて、過酷な訓練に挑んで――」
「知るかッッ!」
ローウェルの瞳には怒りが浮かんでいた。
荒れた狼のような剣幕で鈴蘭へと声を荒げる。決して穏やかな人物ではなかったが、彼女がここまで激高する姿を鈴蘭は初めて見た。
「チャンスはやった。それを活かせなかったのはテメェだ。これ以上テメェには構えない! オレたちには時間がないんだ。役に立ちそうもないガキに付き合ってる暇はねェ! テメェの復讐心がどうなろうと知るかッ! テメェの復讐心を満たすために、オレたちの復讐が失敗するわけにはいかねェんだよッ!」
ローウェルが鈴蘭の襟元を掴み上げた。そして真正面から鈴蘭を睨みつける。
しかし鈴蘭も決して怯まずに相手を睨み返した。
「それでも、あたしは復讐しないといけない! そうじゃないとノノが報われないッ! あの子の性格も優しさも、芽生え始めていた人間性すら何も見ずに、ただ彼女がBIOSだって理由だけでアレクシス・アッカーソンは彼女を殺した!」
炎に包まれて灰へと変わったノノの姿を思い出しながら、鈴蘭は叫ぶ。
「あいつらに復讐を果たさないといけないんだッ! あいつらが殺したのは人類の敵なんかじゃなくて、ただの心優しい女の子だったんだって! お前たちは何も見ずに、あたしの家族を殺したんだって、教えてやらないといけないんだッ!」
目尻に涙を浮かべながら叫ぶ彼女をローウェルは真正面から睨みつける。
その表情は怒りに満ちていたが、しかしほんのわずかに瞳が揺らいでいた。しばらく経った後に、彼女は地面に転がった空のワインボトルに目線を落としながら、鈴蘭の襟元から手を離した。
「オレが冷静な判断ができない状態で良かったな。……一週間後、最後に一度だけ勝負してやる。それがラストチャンスだ。最後に、テメェの復讐心を証明してみせろ」
***
UDH西棟の一室。
小さな椅子に腰かけたローウェルを取り囲むように、世界各国にいる重要人物たちのホログラム映像が映し出された。
『君たちに失敗は許されない。我々はISAを解体するためにUDHへと多額の資金援助、政治活動、幾多の工面を行ってきた。いずれも表沙汰にはできない内容だ。六ヵ月後のムーンフォール計画に失敗した場合、これ以上の支援を継続することはできない』
続いて、世界的企業のCEOが語る。
『
次に、人口増大を背景として急成長を遂げている国家の防衛大臣が語る。
『ISAは結局、いくつかの超大国の出資に頼らざるを得ない犬だ。広大な宇宙利権が数ヵ国に独占されているに等しい状況は遺憾極まる。偽りの月が地球に墜落するという人類史上最大級の不祥事を足掛かりにISAを解体し、我が国も参画できる新たな宇宙防衛の枠組みを構築しなければならない』
その後も、世界各国の重鎮たちが好き勝手に自分たちの意見を述べていく。
一通り意見が出たところで、一人の老人が締めくくるように告げた。
『皆様のご意見は重々承知いたしました。いずれにしてもムーンフォール計画は必ずや成功させねばなりませぬ。我々の計画は順調です。六ヵ月後に訪れる〝大星団〟によって偽りの月の警備に穴が生まれることは明確であります。その際に、ここにいるローウェル君が必ずや偽りの月を堕としてくれましょうぞ。ですから皆様、それまでの短き間ではございますが、これまでと変わらぬご支援を宜しくお願いいたします』
ローウェルの脳裏に様々な思考が浮かんでは消えていく。
ムーンフォール計画が失敗に終われば、資金供給が打ち切られるのは間違いない。
そうなれば、もはや復讐は永遠に達成できない。
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