第二章 いつかたどり着く場所④
その日の夜、布団のなかでぼーっと考え込んでいた鈴蘭は一つの決断を下した。
「ねぇ、ノノ。引っ越ししよっか」
「……引っ越し?」
同じ布団に並んで寝転がっていたノノが不思議そうな表情を浮かべた。
それに対して鈴蘭は優しくも固い声音で告げる。
「青空の下をノノと一緒に歩きたいんだ。ノノを探す奴らなんて誰もいない、人の少ない田舎に引っ越そう? それにほら、この家じゃ二人でずっと生活するには狭いなって思ってたんだ」
「お金はどうスるの? 引っ越し、いっぱいお金かかるんでショ?」
「何とかするよ」
「新しい仕事は?」
「何とかなるよ」
ノノと鈴蘭は黙ってお互いを見つめ合った。
しばらくして、ふふっと二人で笑い合う。
「スズラン、バカになった。後先考えてナイ」
「誰のせいでそうなったと思ってんの」
「でも、そんなスズランのほうが好き」
鈴蘭は微笑んだ。
「うん、あたしも今のあたしが好き」
***
翌日、鈴蘭は工場長へと仕事を辞める旨を伝えた。
滅茶苦茶に怒鳴られたが、そのときの鈴蘭は後先を考えてなかったので「うるさい、バーカっ! このハゲ!」と告げて作業着を投げ捨てた。
――使い捨てのガキが! お前なんかが幸せになれるわけないだろ!
異国の言語で工場長はそう罵ったが、鈴蘭の耳には届いていなかった。
***
工場から帰宅すると、家が燃えていた。
「え、な、なん……で……」
鈴蘭が暮らす二階左端の部屋を起点にしてアパート全体が火に包まれていた。
激しい火炎と煤が沸き上がっている。何が起こっているのか理解できず、鈴蘭はただ呆然とアパートへ一歩近寄った。
「…………っ!」
その瞬間、背後から迫ってきていた何者かによって彼女の口元が塞がれた。
驚きとともに息を大きく吸い込んでしまい、薬品臭が鼻孔を駆け抜ける。あ、まずい、と思った頃には彼女の意識はまどろみの底へと転落していた。
***
右頬に激しい衝撃が走り、鈴蘭は痛みと共に意識を覚醒させた。
ぱちぱちと瞼を動かして周囲を仰ぎ見る。
明らかにもう使われていない錆びだらけの機械が点在している廃工場らしき場所。両腕両脚を拘束された状態で彼女はそこに転がっていて、その周囲を二十人以上の外国人らしき男たちが取り囲んでいた。
ごくりと唾を飲み込む鈴蘭の前に、一人の男が歩み出る。
「随分と肝が据わってるな。大概の奴はこの時点で泣き叫ぶもんだが」
その男は日本語が話せるようだった。
低い声で淡々と鈴蘭へ言葉を浴びせる。
「テメェと一緒に住んでる白いガキ、ありゃ何者だ? 俺たちの仲間を殺した報復のために周到な準備をして襲撃したっていうのにいとも簡単に逃げやがった。ありゃただの人間じゃねーな。相当な訓練を積んでやがる」
ノノが逃げ切ったらしいという情報を聞いて、鈴蘭は気づかれないように胸を撫でおろした。しかしそんな彼女へと向かって、男は冷徹に告げる。
「だからプラン変更だ。お前を囮にして奴をおびき出すことにした。ここ数日張り込んでいたが、お前ら随分と楽し気に暮らしてるみたいだったからな。エサは撒いてある。じきにここへたどり着くだろうさ」
男は銃口を鈴蘭の頭に突きつけた。
「それまでの間、お前には知っていることを話してもらおうか。何者だあいつ?」
「……何も知らない。あたしのほうが知りたいぐらい」
そうか、と男は頷くと、鈴蘭の顔を思いっきり殴った。
「あいつが来るまで殺しはしないが、お前がどういう態度をとるかによって五体満足のまま再会できるかどうかが決まるぞ」
その言葉を合図にして、鈴蘭の周囲を取り囲む二十人近くの男たちが金属バットやナイフ、見たことない金属具を手に取った。
鈴蘭は何も語らなかった。語るわけがなかった。
大切な家族を売るような真似なんてするわけがない。
「――そうか、残念だ」
そして最初に行われたのはシンプルな暴行だった。
顔面と腹部を何度も殴られて、手足を踏みつけられて、肩を蹴られる。口内には血の味が広がり、全身痛くてどこが痛いのかも分からなくなる。
しかし、鈴蘭は嗚咽を漏らしたり涙を浮かべたりはするものの、決してみっともなく叫んだりはしなかった。
「なぜ耐える?」
「………………」
「楽に生きようぜ、なあ? お前みたいな負け組に堕ちた凡人は一生負け組のままだ。一発逆転の人生なんて用意されてない。お前にできるのは上の人間に媚びへつらっておやつ貰って尻尾振ることだけだ。痛いのは嫌だろ? 大人しく従ったほうが身のためだぞ」
「……うん、その通り。あたしは一生、負け組。きっとしょうもない小遣い稼ぎして、細々と生きていくんだってずっと思ってた」
鈴蘭は殴られて腫れた顔をあげて、真正面から男を睨みつけた。
「でも、そんな負け組人生でも。ささやかな幸せがあればそれでいいかなって、そう思えるようになったんだ。あたしには小さな幸せがついてる。だから――そんな幸せを教えてくれたあの子を売る真似だけはできない」
「そうか。なら、その幸せを壊してやる」
男が指示を出すと、部下の一人がビニール袋を持ってきた。
そしてその中身を床へと乱雑に落す。それは鈴蘭が飼っている猫だった。しかし、その姿は……。
「悪いな、捕まえるときに相当暴れたみたいでな。大人しくさせようとしたらこうなった」
「ッ……! ふざけんなッッ! なに、アンタら、人の心がないのッッ! ふざけんなよ、なんでこんな酷いことをッッ!」
鈴蘭は激痛が走る四肢を動かして男に殴りかかろうとした。しかし部下が鈴蘭の背中を蹴り飛ばし、彼女は床に叩きつけられる。コンクリートの冷たさと痛さを感じながら、彼女は今にも噛みつきそうな怒りに満ちた表情で男を睨みつけた。
「…………ッッ! なんで、なんでこんなッッ!」
毛並み鮮やかで温かくて。鈴蘭やノノに撫でられて気持ちよさそうにしていた、愛おしい家族の一員。何も悪いことをしてない。それなのにこんな最期を迎えるなんてあっていいはずがない。
鈴蘭の中の感情が爆発して涙が頬を流れる。
悲しみと怒りにグチャグチャにされながら、とにかく激情を何かにぶつけたくて鈴蘭は叫び声をあげながら身をよじる。
「ようやく人質らしい顔をするようになったな。だがあいにく、俺はキャンキャン鳴く馬鹿犬が一番嫌いなんだ」
なおも暴れ続ける彼女を見下しながら、男は裁縫バサミの様な形状の金属具を取り出した。
「その口、黙らせてやるよ」
鈴蘭の身体が数人の男たちによって抑えつけられる。
筋力では敵うことができず、暴れようにもびくともしない。そんな彼女の口元へと金属具が近づけられていく。
(っ、こんなことが許されるの? 辛い人生を頑張って生きてきて、ようやく幸せを掴んだと思ったら壊される。こんなの嫌だよ。助けてよ、ノノっっ!)
次の瞬間、彼女の身体を抑えていた男たちの上半身が吹っ飛んだ。
臓物が飛び散り、多量の血が豪雨となって降り注ぐ。
一瞬にして男たちの身体を粉砕した白い触手は、思考が追いつかず固まったままの残った男たちを次々に串刺しにしていく。一〇人の男たちが殺害された後、建物の出入り口から美しい純白の少女が姿を見せた。
血液によって彩られた真紅のカーペットを裸足で踏みしめながら、白い少女が近づいてくる。
そんな彼女へと向かって、辛うじて生き残っていたリーダー格の男が声を荒げる。
「止まれ! それ以上動いてみろ、こいつの頭をぶち抜くぞ!」
ぴたりとノノの身体が停止した。
そんな彼女を見てにやりと笑みを浮かべながら男は部下たちに命令を下した。部下たちはこくりと頷くと拳銃を構えた。
身が竦むような激しい銃声が絶え間なく鳴り響き、硝煙が立ち込めてノノの姿が視認できなくなる。その状態が十数秒間続いた後に、ようやく弾切れになったのか銃声が鳴り止んだ。
しばし経って煙が消えた頃、そこには傷一つ負っていない白い少女の姿があった。
絹の様に美しい肌には汚れ一つなく。
ただ獰猛な紅い瞳で男たちのことを睨みつけていた。
ひっ、と誰かが漏らしたのを皮切りに男たちの身体が触手によって次々に引き千切られていく。腕を毟られ、首を捩じられ、腹を割かれ、臓物をばらまかれる。
鮮血に身を染めたノノがゆっくりと、最後に残った一人――鈴蘭に銃口を突きつけたままの男の目の前まで歩み寄る。
ちらりとノノは足元へと視線を落とした。
そこにあったのは、床に横たわる愛おしい猫の身体。
「オマエは、絶対に許せないコトをしたの」
そして彼女は、男の身体を触手で刺し抜いた。
どさり、と男の身体が床に横たわる音を聞いた後に、全身を返り血に染め上げたノノはぺたんと床に座り込んだ。そしてポロポロと涙を零しはじめる。
「……ゴメンなさい、間に合わなかっタ。約束も、守れなかっタ」
約束。
それは、鈴蘭と交わした人を殺さない約束のこと。
「スズランは言ったの。この子はとても大切だって。この子に何かあったら死ぬほど悲しいって。大切な家族を奪ったコイツらを許せなかっタ」
小さく震えながら、ノノはすすり泣くように途切れ途切れに告げる。
「怒っタのなら、ノノはもうスズランの前に姿を見せない。本当に、ごめんなさい」
泣きながら謝る彼女を抱きしめて、鈴蘭はその小さな背中をさすった。
「……ううん、あたしこそごめんね。ノノにこんなひどいことをさせて。いなくなるなんて言わないで。大好きだよ」
そして彼女たちはお互いに震える身体を抱きしめ合った。
相手の体温を感じることで少しだけ安心できたけれど、それだけではまだ不安を拭い去ることはできなくて。
彼女たちは理解していた。
引き返せない罪を犯してしまった、と。
二〇人近くの男たちを惨殺した。
この場から逃げ出しても、これほどの規模の殺害を犯したからにはどう足掻いても警察の捜査は始まるだろうし、本国にいる彼らの仲間から更に大規模な襲撃を受けるかもしれない。
もう、今までの楽しいだけの日常には戻れない。
二人は両手を握り合って、口づけを交わした。
長く、長く。お互いの感情を流し込むように、そして飲み込むように。
それだけの行為で、一人では到底抱えることができない不安や恐怖、重圧が和らいでいくのを感じた。
やがて心が落ち着いたところで、鈴蘭は一つの提案をした。
「旅に出よう、ノノ。二人でいろんなとこに行こう。全部忘れられるぐらい楽しく、自由に。日本中、世界中、宇宙の端まで旅をしてまわろう」
もはやこれまでのように一箇所にとどまることはできない。
二人に残された選択肢は、逃げることだけだった。
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