第二章 いつかたどりつく場所③
それから、彼女たちは夜が訪れるたびに外出して遊ぶようになった。
深夜の公園で小学生のようにはしゃいだり、動物園に忍び込んで寝ている動物を見学したり、海へ行って二人で波の音を聞きながら綺麗な貝殻を探したり。
ノノと過ごす日常はとても刺激的で、鈴蘭にとって楽しいものだった。
彼女は何者にも縛られず、自由で。
一緒にいるとこの鬱屈とした世界にいることを忘れることができた。彼女と一緒にいるだけで、自由になれた気がした。
しかし、完全な自由を手に入れたわけではなかった。
「ねぇ、知ってる? やばい人たちがこの街に集まってるって話」
「あー、香港? サンパウロ? の犯罪組織だっけ?」
ある日、工場で作業をしている鈴蘭の耳に、そんな会話が届いた。
「なんかアレでしょ? 構成員が何十人も行方不明になったから捜しにきたとか」
「私は、構成員を殺した犯人に報復しにきたって聞いたわよ」
「やば。何に巻き込まれるかわからないし、しばらくは気を付けないとね。犯人さっさと見つかってくれないかな」
「まあすぐに見つかるんじゃない? 今どき、逃げられないでしょ」
その日は気が気ではなく、工場での作業があっという間に終了していた。
帰宅途中、いろんなことを考えてぼーっとしながら歩いていると、鈴蘭は偶然にもノノと出会った裏路地近くにたどり着いた。
ノノと出会い、ノノが男二人を惨殺した場所。
ふと顔を上げると警備ドローンが巡回していた。
周りを見渡せば、無数の防犯カメラ。
――今どき、逃げられないでしょ。
そう告げていた作業員の声が鈴蘭の脳内にリフレインする。
(そうだ。今どき行動を完全に隠し通すなんてできっこない。ノノの姿を収めたカメラがあるかもしれない。そしてその映像がもしやばい奴らの手に渡ったら――)
そこでふと彼女は気づいた。手が小刻みに触れていた。
何かを恐ろしいと感じている。しかしそれは工場長に怒鳴られたときとも、男たちに追いかけ回されたときとも違う、異質の感情だった。
正体不明の感情に戸惑いを感じながら、自宅へとたどり着いた鈴蘭は扉を開ける。
「おかえり、スズラン」
天使のような笑顔で出迎えてくれたノノの姿を見て、鈴蘭の中の動揺が更に広がっていく。
「…………」
「どうしタの?」
黙ったままの鈴蘭を心配したのか、ノノが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
鈴蘭は無意識に告げていた。
「しばらく、一緒に出掛けるのは控えよう」
「……どうシて?」
「ノノのことを捜している奴らがいるの。見つかったら一体何をされるか。とにかく、一緒に外を出歩くのは危険だよ。今までみたいに一緒に遊ぶのは控えたほうが……」
そこで鈴蘭は気づく。ノノの表情が悲痛に染まっていた。
大きく開かれた彼女の瞳を見ることができず、鈴蘭はとっさに視線を背けた。
***
翌日、工場に出勤した鈴蘭は更衣室で頭を抱えていた。
問題が山積みだった。安全を考えるのなら本当は鈴蘭も引き籠っていたほうが良いのだろうが、しかしお金を稼がないと生きていけない。貯金なんてほとんどない。欠勤すれば明後日には食い扶持を失う。
業務開始を予告する社内アナウンスが流れた。
悩む暇もないな、とため息を吐きながら自宅から持ってきた鞄を開ける。
すると、そこにノノがいた。
「どういうことっ!?」
素っ頓狂な叫び声をあげたせいで周囲の従業員たちからの視線が一斉に鈴蘭に突き刺さる。狼狽した彼女は鞄を掴んで更衣室から飛び出した。途中、工場長に見つかって外国語で怒鳴られたが構ってもいられず「すみませんっ!」と叫びながら工場敷地外まで走りきり、海岸近くの公園まで到達。
周囲に誰もいないことを確認すると、彼女は木々の陰に身を隠しながら鞄を開け放ってこれでもかと叫んだ。
「なにやってんの、ノノ!」
鞄の中から、普段の六分の一サイズになったノノがにゅるりと現れる。
めちゃくちゃ小さい人形のような体躯で仁王立ちしながら、彼女は自信満々に胸を張った。
「ちいさくナって、忍び込んだ」
「いやいや、小さくなったって。えええ? そんなことできたの? ていうか、何で」
「スズラン、しばらく一緒にお出かけできないって言っタ。なら小さくなって、ゼッタイ誰にも見つからないようにすればイイって思っタの」
「いやいやいやいや! だとしても、えええ……」
確かにこれならば誰にも見つからないだろう。
理には適っている気もしたが、しかし。
「どうして、そこまで?」
そんな言葉が、漏れていた。
「スズラン、一緒にお出かけできないって告げタとき、とても悲しそうだっタの。ノノも悲しかったけど、それ以上に。だから何とかしたかっタの」
「あたしが、悲しそうな顔をしていた?」
「うん。今にも、泣きそうだっタ」
ノノが首を傾げながら鈴蘭を見上げる。
「これで一緒に遊べる?」
駄目、と鈴蘭は告げようとした。
しかしどうしてもその言葉は喉から出てこず、代わりに彼女は嘆息した。
「はあ。いいよ、わかった」
「じゃあ今から一緒にでかけよう? スーパーに行きタい。果物を見たいの」
「えー、今からぁ? ま、いっか。工場に戻っても怒られるだけだし。どうせ怒られるならいっぱいサボって明日怒られてやる」
「イッパイ怒られたら、ノノがいーっぱい慰めてあげる」
「誰のせいでこうなったと思ってんの、この変態」
結局、その日は鞄の中から風景を見せる形で一緒に街中を歩いて、帰りはスーパーで果物を眺めて味を想像し、キウイフルーツを一つだけ購入した。
楽しかった、とても。
友達と遊ぶ愉快さと背徳感。
甘酸っぱいその心地を鈴蘭は人生で初めて味わった。
それから数日間、彼女たちは他愛もない日々を過ごした。
ノノを鞄に入れて海岸にお出かけしたり、朝から夕方まで家でごろごろしたり、ゴミ捨て場で拾ったボードゲームで遊んだり。
ある日の夜、二人は夕食後にデザートを作った。
ホイップクリームすら載っていないシンプルなパンケーキ。二人はテーブル越しに向かい合って座り、それを口へと運んだ。
「食べて食べて、スズラン。おいしい? おいしい? 褒めて褒めて」
「おいしいおいしい、天才天才」
「えへへ」
本当は裏側が焦げていたが、それを差し引いてもとても美味しかった。
シンプルで家庭的で落ち着く味。きっと、ずっと求めていた味。
「……スズラン、どうシて、泣いてるの?」
「あれ、なんでだろう? こんなにも楽しいのに、どうして」
いつの間にか鈴蘭の頬を涙が伝っていた。
彼女自身にも分からなかった。それなのに涙はとめどなく溢れてきて、いくら拭ってもおさまらない。やがてぼろぼろ泣きながら鈴蘭は胸の奥にある温かな感情を理解した。
「ああ、そっか。あたし、憧れてたんだ。こんな風に誰かと一緒に暮らせる日々に。……ずっと、こんな日々に憧れてた」
ぼろぼろ泣いて嗚咽を上げながら鈴蘭は両目を手で押さえた。
感情を抑えられず泣きつづける鈴蘭へとノノがそっと歩み寄る。そして彼女をそっと抱きしめた。
「スズラン、覚えてる? ノノに教えてくれタこと。家族とは一緒の家に住む者のこと。だからノノとスズランはもう家族なの。家族だからこんな日々もズッと一緒に続けられるの」
「……家族?」
「そう。あ、もちろんオマエも!」
そう言うとノノはベッドで寝ていた黒猫を抱きかかえた。
当初は警戒していた黒猫だが、今では大人しくノノの胸に抱かれている。そんな両者を交互に見つめて鈴蘭はふっと笑った。
「そっか。いつの間にか、いっぱい家族ができてたんだね」
一〇年前、月からの救助船で出会った少女――朝日小羽根。
彼女と交わした会話を想い起しながら、鈴蘭は小さく声を漏らす。
「あのときは恥ずかしくて言えなかったけど……私の本当の夢はね、家族と一緒にパンケーキを食べることだったんだよ」
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