第一章 新たなる生命③

 一〇年前。


『ねぇ、おかーさん! 今度はね、パンケーキつくりたい! 甘くてふかふかのやつ!』

『んー? じゃあ来週までにお父さんに卵を仕入れてもらわないとね』


 鈴蘭は六歳の頃まで生物学者の両親とともに月面居住区で暮らしていた。

 両親は毎日忙しそうに働いていて平日は会話すらろくにできなかったが、毎週末の休日だけは鈴蘭のために時間を割いてくれて、一緒にお菓子作りをしたり天体観測をしながら家族団らんの一時を過ごした。


 鈴蘭は両親のことが好きだった。

 実際に顔を会わせられる時間こそ少なかったが、毎週末、いろんな話をしながら料理を作るたびに自身に注がれる愛を実感できた。


『やったぁ! じゃあ来週までにおいしいパンケーキの作り方、いっぱい調べておくね! おかーさんとおとーさんに最高のパンケーキをごちそうしてあげる!』


 しかし、その約束が果たされることはなかった。


 二日後の火曜日、月面エリアⅩに設立された児童センターで算数の勉強をしていた鈴蘭の耳に、頭をかき乱すかのような甲高いサイレンの音が侵入してきた。おぞましい大音量が街中に鳴り響き、数多の大人や子供たちが不安そうに外へと飛び出して右往左往しはじめる。


 そこから先の光景を、鈴蘭は断片的にしか覚えていない。


 何事かを告げるアナウンスの後に、街中の大人たちが顔面に恐怖を貼りつけてどこかへと向かって一斉に走り出す。尋常ではない雰囲気に泣き叫ぶ子供たち。空の向こう側から飛行してくる無数の白き異形生物。近代兵器を駆使して生物に立ち向かう軍隊。白い化け物に喰われていく住民たちと、為すすべなく敗れ去る軍人たち。


 そして、地球外生命体に追われていた鈴蘭を助けた、黒髪の少女。


『あァ? 何してやがる、クソガキ。さっさと逃げろ』


 右眼から血を流すその少女は、拳銃型の武器を駆使して地球外生命体と応戦しながら鈴蘭を抱きかかえて走り出した。


『まって! 駄目、まだおかーさんとおとーさんが! お願い、エリアⅪに行って! そこにいるはずなのっ! ねぇ、聞いてるの! 駄目だってば!』

『うるせェ。何の力もねェクソガキがピーピー泣くんじゃねェ! オレだってなァ、行けるもんなら行きてェよッ! だけどなァ、オレじゃ足りなかったんだ』


 鈴蘭を抱えて走る黒髪の少女の身体は全身が血みどろで、右目の部分には大きな傷が刻まれていた。その少女は歯噛みしながら告げた。


『何かを守りたいならなァ、強くなるしかねェんだよ』


 そして鈴蘭は地球へと脱出するための救助船へと運び込まれた。

 救助ロケットの中は多くの一般市民でごった返していた。負傷した人、家族を探す人、泣き続ける人、不安感から怒鳴り散らす人……。人々の荒波に呑まれているうちに、いつの間にか鈴蘭はここまで運んでくれた黒髪の少女と離れ離れになってしまっていた。


 代わりに鈴蘭の隣にいたのは、彼女と同年代の泣き続ける小さな女の子。

 二人は壁際にうずくまり、少しだけ会話した。誰かと話していないと不安で圧し潰されそうだった。


『あたしは鈴蘭。あなたは?』

『……わ、わたじは、小羽根って、言いまず……』

『パパとママは、どうしたの?』

『わ、わだしの目の前で、死んじゃっだの……っ! わだしを守っで!』

『そう。あたしも、もしかしたらおかーさんとおとーさん、死んじゃってるかも』

 

 周囲のざわめき合う大人たちの会話内容が断片的に彼女たちの耳に届いていた。

 エリアⅪは地球外生命体の強襲が最も激しく防衛が間に合わなかったらしい、と。鈴蘭の両親はエリアⅪの研究所で今日も働いているはずだった。


『ね、小羽根には、夢ってある?』

『……ゆめ?』

『つらいときはね、前を向いたほうが良いんだって。おかーさんがね、教えてくれたの』


 小羽根は口をつぐんだ。やがてぽつりと『スペースガールズになりたい』と漏らす。初めて聞く単語に鈴蘭は首を傾げた。


『スペースガールズ?』

『あのね……武器を使って、地球外生命体と戦う女の子なんだって。その人に、助けてもらったの。すごく、かっこ良かった』

『――スペース、ガールズ』


 鈴蘭の脳裏に浮かんだのは、先ほど地球外生命体から命を守ってくれた黒髪の少女。


『夢、叶うと良いね』

『ね、鈴蘭ちゃんのゆめは……?』


 その質問を受けて、鈴蘭の心の中に浮かんだ返答は一つだけだった。だけどそれはあまりにも幼稚で恥ずかしい内容で、彼女は良い代案も浮かばず口籠る。

 そんな彼女の様子を見て勘違いしたのか、小羽根が遠慮がちに提案した。


『もし、ゆめが決まってないなら……鈴蘭ちゃんもスペースガールズにならない? 一緒に強くなって、みんなを守るの』

『それは――』


 最初に心に浮かんだ、本当の夢ではないけれど。


『そうだね、あたしもスペースガールズになりたいな』


 とても素敵な夢だと、素直にそう思った。


 ***


 端末型デバイスからニュースの生放送音声が流れて、鈴蘭はハッと意識を現実に戻した。


『ここ、アメリカ合衆国フロリダ州のケネディ宇宙センターでは、今年も月で亡くなった二万人余りの犠牲者を悼むための式典が執り行われています。あの悲劇から一〇年目の節目を迎える今日は、私たちをBIOSから守るスペースガールズを代表して、あの灼熱の英雄アレクシス・アッカーソンが式辞を述べる予定となっています。あ、今、鐘の音とともに追悼式が開始され――』


 あれから一〇年。

 鈴蘭は工場で毎日働きながら、安部屋で細々と生きている。


 あの日交わした約束からはあまりにも遠い現実に自嘲しながら、彼女はため息を吐く。


「……あの子、今頃どうしてるんだろう」


 あれ以来一度も会えていない小さな女の子――朝日小羽根のことを思いながら、彼女は夜空に浮かぶ月を眺め続けた。

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