第一章 新たなる生命①

 幸せになりたい。

 ただそれだけだったのに。


「はぁはぁ、なんで、こんなことに!」


 藍色の髪が特徴的な少女――宵野鈴蘭は息を切らしながら、幼い女の子を小脇に抱えて真夜中の路地裏を駆け続ける。

 複数の男たちが走る足音と異国の言語による怒声を背中に浴びながら、鈴蘭はどうして余計なことをしてしまったのだろうかと後悔する。


 ――二〇八八年の日本。


 経済的に困窮したこの国において人攫いはそう珍しいことではない。

 親が目を離した隙に子が攫われて、海外や国内を問わず違法な労働施設に売られるなんてよくある話だ。

 実際に、鈴蘭が生きるこの労働者街でも先月から数十人にのぼる男女が路地裏で忽然と姿を消しており、大規模な組織による犯罪が行われているのではないかと噂されていた。


 だから最初、安部屋で眠っていた鈴蘭の耳に女の子の悲鳴が聞こえたとき、無視してそのまま寝てしまおうと思った。けれどどうしても気になって寝られず、しぶしぶ様子を見に外へ出てみれば複数人の男たちに追いかけ回されている少女の姿が目に入り、いつの間にか手を差し伸べてしまっていた。


「このままじゃ二人とも捕まっちゃう。あたしが囮になるから、アナタはそこの角を右に曲がって逃げて! 早く!」


 女の子が指示通りに角を曲がって逃げていく。

 その姿を見送った後に、鈴蘭はわざと走る速度を落として男たちを引き付けながら適当に路地を何度か曲がった。


「あの子、逃げ切れたかな。時間は稼いだし、そろそろあたしも逃げ――」


 走る速度を上げようとしたとき、鈴蘭は目の前が袋小路になっていることに気づいた。前方と左右がビルの壁に覆われていて逃げ場がない。

 しまった、と気づいた頃にはもう遅く、彼女の背後に二人の男が迫っていた。


「ちっ、どうしようかな」


 悩む鈴蘭へと向かって、二人の男は指をさしながら「~~~~ッ! ~~ッッ!」と異国の言語で何やら叫ぶ。どうやら仕事を邪魔されて怒っているようだった。徐々に壁際へと追い込まれながら鈴蘭は冷や汗を流す。


(一か八か、多少暴行を受けても振り切って逃げるしかないか)


 覚悟を決めて男たちのほうへと一直線に駆け出す鈴蘭。

 スピードを上げながら男たちの横をすり抜けようとするがそう上手くいくはずもない。髪を掴まれて頭ごと壁に勢いよく押し付けられた。ガンッ、とコンクリートに後頭部がぶつかり痛みが走る。


「っ、離せッッ! 汚い手で触んなッ!」


 そう叫ぶ鈴蘭の腹に男の拳がめり込んだ。

 さーっと血の気の引くような痛みが駆け巡って彼女は嘔吐する。涙目になりながらも彼女は強い瞳で男のことを睨みつけた。


 更にもう一発、男から放たれた拳が鈴蘭の腹にめり込む。声にならない声が漏れ出た。苦しむ彼女を見てどう感じたのか、二人の男は楽しそうに肩を回した。


「~~~~~~、~~~~!」

「っ! やめろ、離せッ! 離せよ! 触んな、カスッ!」


 男に向かって蹴りを入れたり、腕を引っ搔いたりするがまるで効いている様子はない。むしろ抵抗する様を楽しむかのように男たちは鈴蘭の身体を何度も踏みつけた。衝撃が加わるたびに彼女の華奢な身体が跳ねる。がはっ、と何度も声を漏らしながらも、彼女は決して泣かないように涙を堪えて身体を丸める。


(やっぱり余計な手出ししなきゃ良かった。誰かを助けても良いことなんてあるはずないのに。自分のことだけ考えて、あいつらと同じように見捨てれば良かったんだ)


 脳裏に浮かんだのは、両親を失った鈴蘭をたらい回しにした挙句に追放した親族たちの姿。


 しかしそんな思考も、頭皮から伝わる痛みによって中断させられる。髪を引っ張られて彼女は顔を上げさせられる。男が拳を握りしめる様子が目に入った。


「誰か一度ぐらい、あたしを助けてよ……」


 そのとき、ぐさりと嫌な音が耳に届いた。


 同時に、彼女の顔に生暖かい液体が大量に降りかかる。

 何が起こったのか分からなかった。しばらくして事態を把握する。鈴蘭の髪を掴んでいた男の胴体を太ももほどの大きさの真っ白な物体が刺し貫いていた。そして彼の身体から多量の血液が溢れ出している。


「……え?」


 そんな疑問符が漏れ出ると同時に、真っ白な物体に刺し抜かれた男の身体が宙に浮いて、次いで地面に勢いよく叩きつけられた。

 短い断末魔を上げて男が動かなくなる。


(一体、何が起きてるの?)


 目の前の凄惨な光景に思考が止まり、鈴蘭は恐怖のあまりその場で腰を抜かす。

 死亡した男とは別の男が悲鳴を上げながら、裏路地から抜け出そうと駆け出す。けれど彼が動くと同時に白い物体もずるりと動き出した。


(――触手だ)


 そこで、鈴蘭は気づいた。

 大蛇のように蠢く白い物体は鈴蘭の頭上から垂れ下がってきており、暗くて見えないビル同士の隙間にその根元となる存在がいるようだった。


 白い触手は地面を這うようにして逃げ出した男の足元に迫り、もう少しで大通りに出られるところだった男の身体を再び薄暗い路地裏へと引き摺り込む。そのまま悲鳴を上げる彼を抱え上げて、暗くて視認できない触手の根本部分へと運んでいく。

 ゴリ、バキッ、ゴリゴリという何かを磨り潰す音とともに断末魔が響き渡り、大量の臓物と血液が地面へと零れ落ちた。勿体ないとばかりに頭上から伸びてきた触手がその臓物を掬い上げて、根元の部分へと運んでいく。


「………………っ」


 先月から数十人にのぼる男女が路地裏で姿を消している。

 その噂を鈴蘭は思い出した。

 先ほどの男たちが実行犯かと思っていたが違う。彼らはただの人攫い。本当の犯人はきっと、たった今、目の前で二人の男を惨殺したこの触手――。


 どさりと、目の前の地面に何かが降り立った。

 恐怖を感じながら鈴蘭は凝視する。


 そこにいたのは、尻尾の生えた少女だった。


 十三、四歳ほどに見える少女で衣服は何も纏っていない。髪色も含めて全身の肌が病的なほどに真っ白で、顔立ちはこの世の者と思えないほどに美しく、その小顔のなかに浮かぶ二つの真紅の瞳だけが爛々と異彩を放っていた。

 一見すると妖艶で病的な美少女だが、しかし彼女の腰から生えた白い尻尾と、人間ではありえない真紅の瞳、そして相対して伝わってくる威圧感が彼女の異常性を表していた。


 間違いなく、人ではない。

 美しき悪魔か、異形の神か、もしくは宇宙から来訪した新たなる生命体か。


「っ……!」


 震え続ける両足に力を込めて鈴蘭は立ち上がった。そして何度も躓きながら路地裏から逃げようと足を動かす。しかし大蛇のような白い触手が巻き付いて、信じられないほど強い力でゆっくりと路地裏へ連れ戻された。


「な、何なの? あたしをどうするつもり!?」


 その問いに、尻尾を生やした全裸の少女は小さく首を傾げる。

 一瞬、可愛らしい少女がきょとんとしているようで微笑ましく感じてしまうが、その考えを振り払う。違う。相手は人外の化け物だ。

 何十人もの人間を行方不明にして、ついさっき目の前で二人の命を奪った化け物――。


 しかし鈴蘭の警戒心と反比例するように、その少女は柔和な笑みを浮かべて鈴蘭をそっと抱きしめた。鈴蘭を自身の胸に抱いたまま、少女はよしよしと頭を撫ではじめる。


「え?」


 そこでふと、彼女は思い至る。


(もしかしてあたしを襲うつもりはない? むしろ……男たちから守ってくれた?)


 彼女を抱きしめたまま、その少女はすんすんと鼻を鳴らして鈴蘭の身体を嗅ぎ、そしてたっぷり一〇分ぐらい匂いを堪能したのちに、蛇のような細長い舌で頬を一舐めした。


「……オマエ、いいニオイ、する……ナ。にやり」

「あっ、違うこれ、あたし食べられるパターンだ!」


 少女がにやりと笑いながら、あーんと口を大きく開ける。

 蛇のように細長い舌と、およそ人間のものではない小さく尖った歯が百本近く生えた口が鈴蘭へと迫る。あまりの恐怖から彼女の身体は震えて下半身から尿が漏れた。


「…………?」


 そこで人外の少女はぴたりと動きを止めた。

 彼女はすんすんと鼻を鳴らして鈴蘭の顔を嗅ぎ、胸部を嗅ぎ、下半身を嗅いで――そして、地面に広がるおしっこをペロリと舐めた。


「何してんの!?」


 思わず大声を上げる鈴蘭とは対照的に、少女は不思議そうに首を傾げる。


「ウマイ」

「いや、うまいじゃなくて」

「……オマエ、は。このウマイミズ、もっと、ダセル?」

「そ、それは……まあ。毎日、多少は……」

「じゃあ、キメタ」


 そう告げるや否や、美しき少女は背中から幾多の触手を出して鈴蘭の身体を拘束した。そして触手を次々にビルの外壁に突き刺すことで、勢いよく高所へと向かって上昇し始める。上昇するごとに増す夜風を感じながら鈴蘭は声を上げた。


「ちょ、ちょっと! 一体、何なの!?」

「いいニオイする。きにいっタ」


 最後にぐおん、っと一際勢いをつけて、彼女たちはビルの屋上を超えて、何もない夜空に飛び出した。鈴蘭の視界にあらゆるものが映る。ネオンに照らされた労働者街、その向こうに広がる煌びやかなビル群、飛行する警備ドローンの群れと、赤く点滅する高速道路。


 流石に暗くて海と山は見えなかったけど、夜空に浮かぶ星は見えた。


 そしてその星々の海の中に、本物の満月と人工の月が浮かんでいる。


 真っ白な肌の美しき人外少女は月明りに照らされながら、まるで花嫁を抱えるかのように鈴蘭へと向かって微笑んだ。


「オマエは、ノノのモノ。もう手放さない」

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