第58話

 

 残りの一月を、ジュリアはいたく事務的に過ごした。

 自分が去ることを考えば、やるべきことは山ほどある。ジュリアは繁忙を極めた。


 ガウスと決別してすぐ、ジュリアは屋敷や商会の皆に、ガウスと別れてクルメル商会を離れるつもりだと伝えた。

 すると、ジュリアの予想を遥かに上回るほど、酷く惜しまれた。



 スチュアートやマルタは『自分たちを許せないならばどうぞ罰してください。奥様はウォルナット家に必要な方です』と涙ながらに引き止めた。

 トビーは引き止めることはなかったが、寂しげに俯き『奥様の幸せを願います』と言った。



 マシューはジュリアの今後を案じ、行く宛はあるのかと必死に尋ねて来た。

 ジュリアはそんなマシューに、心から愛する人の元に行くのだと言った。

 マシューはとても驚き長らく固まった後、とても切なげに『幸せにならないと、怒るから』と言った。



 カンナはどうやら、何かを察しているように見えた。

 もしかすると、ビルのことに気付いているのかもしれない。

 けれどカンナは、誰にも何も言わなかった。

『いつかそうなるだろうとは思いました。正直、ガウス様があんなにヘタレだとは思いませんでしたから。どうか奥様は……いえ。ジュリア様はご自身の選んだ道をお進み下さい』

 ただ、それだけ言った。



 ジュリアはガウスと一定の距離を保って接した。

 同じ商会を営み、家も同じだ。

 顔を合わせないようにするのは無理がある。

 ガウスはジュリアを見かける度、いつも名残惜しそうに、何か言いたそうにしていた。

 けれど、いつもそれ以上言わず、悲しげな瞳を向けていた。





 そして、ちょうど3年目の日。

 ジュリアはウォルナット邸を去り、教会へと向かう。

 クルメル商会のことは他の優秀な人材たちに、きちんと全て引き継いできた。

 屋敷から持っていくのは、あのジュエリーボックスと、ジュリアの個人資産のみだ。


 元々、何かの拍子に間違って結ばれたような縁だった。

 ジュリアがここから去ったとて、元通りになる訳ではないが、ジュリアにはこれが自然の流れのような、そんな気がした。



「みんな、お世話になったわね。どうか、元気で」


 ウォルナット邸の門の前で、ジュリアは言った。

 屋敷の面々が、ジュリアを見送る。


「ジュリア様も、お元気で」


 カンナは無表情ながら、スカートを強く握りしめている。


「これ、少ないですがお持ちください。ジュリア様の望みが、叶いますように」


 そう言ってトビーはポルボロンの入った包みを渡してくれた。

 スチュアートは目を伏せ、マルタは目尻をハンカチで押さえている。


 ガウスは居ない。

 ガウスは朝から商会へと出かけて行った。

 見送りはしないつもりのようだ。



 ジュリアは感慨深くウォルナット邸を見上げる。


 色々なことがあった。

 3年前のジュリアには、今のジュリアなど想像もつかなかっただろう。


 これから自分は、どうなるのだろう。

 やはり、今のジュリアには想像もつかなかった。


 屋敷の皆に頭を下げ、歩き出す。

 教会は運河沿いに南に行けば、すぐに着く。

 足にはまだ不安が残るけれど、ゆっくり歩いていけば問題ない。



「ジュリア!!!」


 後ろから大きな低い声が聞こえた。

 その声に振り返ると、運河の向こうにガウスが走って来るのが見えた。

 橋を渡り、息を切らせながらジュリアの元に駆けてくる。


「本当に……本当に行くんだな……」

「ええ。ガウス様、お世話になりました」

「行くな!!」


 そう言ってガウスはジュリアの腕を掴んだ。


「お願いだから行かないでくれ。お前まで居なくなったら、俺はどうすればいいんだ……」


 そう言ってジュリアの腕を掴んだまま、ずるずると崩れ落ちた。



「ガウス様。後ろをご覧になって」


 ジュリアはガウスの頭に手をやり、優しく声をかけた。

 ガウスはゆっくりと、振り返る。


「ほら。あなたを愛し、心配してくれる方がいるではありませんか。彼らだけではないわ。商会の皆だって、あなたのことを待っていたでしょう? 大丈夫よ。あなたには、たくさんの味方が居る。

 あなたは一人じゃないわ」


 ガウスは静かに涙を流した。


「ガウス様。どうか、お元気で」

「…………」


 ガウスはしばし俯いてから、ゆっくりと立ち上がる。

 それからそっと、ジュリアの腕を離した。


「……君も。どうか健やかに」


 そう言って、ガウスは微笑んだ。

 ジュリアも微笑み返す。



 そして、ガウスに背を向けて、ジュリアは歩き出した。


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