第57話

 

 夜、ジュリアはガウスの帰りを待っていた。

 昼のことを気まずいと思ったのか、いつもより帰りが遅い。

 スチュアートがガウスの帰りを告げると、ジュリアは玄関ホールまで迎えに行った。


「お帰りなさいませ、ガウス様」

「ああ……」

「ガウス様、後ほどお時間をいただけますか? 少しお話をしたいのですが」

「……俺も、話したいことがある。後ほど君の私室に行く」

「いえ、私が執務室に伺います」


 そう言って頭を下げ、ジュリアは私室に戻った。

 ガウスは嫌な予感がした。



 コンコンと、しっかりとしたノックの音が響く。


「入ってくれ」


 ガウスは声を掛け、ジュリアはガウスの執務室に入った。


「ガウス様……」

「待て。話の前にまず言わせてくれないか。俺が悪かった。申し訳ない」


 ガウスはジュリアの言葉を遮り、頭を下げた。


「君の気持ちを考えられていなかった。君にとっては、彼は大切な友人の一人だものな。心配して当然だ。俺だけの思いで勝手をしてしまったと、反省した」

「そう、ですか……」

「だからそう臍を曲げないでくれ。今度お詫びに、君のドレスを買いに行こう。きっと気分も晴れる」


 一瞬、ガウスに期待した自分を、ジュリアは恥じた。

 やはり……何も分かっていないのだ。

 過去の女性たちと同様、ジュリアの気持ちを軽く考えている。

 ジュリアは怒りが湧いてきた。


「ガウス様。ドレスは必要ありません。ただ臍を曲げている訳でもないわ。私たちは、そろそろはっきりとさせなければなりません。この結婚について」

「それはどういう……」

「ガウス様。あなたはおっしゃいました。『3年経ったら出ていけ』と。もうあと一月もしたら、その3年が経ちます。既に離縁状にサインされて、教会に届けられていると聞いていますわ。その時が来たら、私はここを出て行きます」

「待て……待ってくれ! 確かに離縁状にはサインをした! けれどそれは君のことを勘違いしていたからだ! 君が無実だと知っていたなら、そんなことなどしなかった!」

「ガウス様は聞いてくださらなかったわ。私の話など、これっぽちも」


 ジュリアは思い出す。

 嫁いできて初めて会った時のガウスの表情、言葉、あの視線。

 それらの全てが、ジュリアを切り裂くナイフのようだった。


「それは……本当に悪かった。だからそんなことを言わないでくれ」

「確かに、きっと私の努力も足りなかったのでしょう。もっとあなたに理解してもらおうと、無視をされても話すべきでした。

 あなたは変わった。私が怪我を負ってからのことは、心から感謝しています。過去のことは水に流して忘れるべきなのだと、私も思いました。けれど……やはり根本は変わっていないのよ。あなたは今も、愛人をたくさん抱えていた時のあなたのまま」

「今は一人も愛人などいない! 全て関係を清算したんだ!」

「ええ、一方的にね。一時でも深い仲になった女性たちを、いとも簡単にあなたは切ってみせた。それに、私が言っているのはそういうことではないわ。あなたは今も昔も、女性を軽く見ているからそういう事が出来るのよ」

「そんなこと……」

「いいえ、そうよ。あなたはそう思っていないかもしれないけれど」


 常に女性を側に置き、そして相手をコロコロ変える。

 まるでアクセサリーのように。

 お気に入りは自宅に招き入れる。

 けれどそれも日替わりだ。

 ただの着せ替え遊びのように。

 そんなことは、相手に敬意を払っていたらできる事ではない。


「女性はあなたを慰めるための道具ではないのよ」

「違う! 仮にこれまでがそうだったとしても、君だけは違う!

 愛してる……。こんな気持ちは初めてなんだ。君を愛している……!」


 ガウスは膝を突き、泣きそうな顔をしながら、ジュリアに縋った。

 ジュリアはつい最近、マルセルにも同じように言われたことを思い出す。

 ああ、何故。

 何故いつも、その言葉を聞くのが遅いのだろう。


「ガウス様。私はあなたを信頼していました。夫としてではなく、仕事仲間として。そして夫としても信頼し、任せられるかもしれないと思ったからティンバーに行ってもらったのです。けれど……あなたはそんな私を裏切った。そんなことでとお思いになるのなら、どうぞ恨んで下さって構いません。ですが、私はもう諦めてしまったのです。あなたが私の頬を打った、あの時から」


 ジュリアはそっと頬に触れる。

 今でもあの痛みは忘れられない。


「ああ……あの時は本当に……すまなかった……」

「…………いいえ、あなただけが悪いのではありません。私もまた、許されない想いを持ってしまったのですから」


 項垂れて縋っていたガウスは、涙で濡れた金の瞳で、ジュリアを見上げた。


「…………それは、あのジュエリーボックスの中にあるものを、贈った男のことか?」

「っご存知でしたか……」


 ガウスは気付いていた。

 ジュリアの私室に行くと、度々ジュリアがジュエリーボックスを開いているのを。

 そして蓋を閉じる時、どこか切ない表情をしていることを。

 あの瞳が自分には一度も向けられたことがないことも、分かっていた。


「やはり……あの元婚約者のことを愛していたのだな……」


 ジュリアが身につけていたアメジストのネックレス。それをジュエリーボックスに入れているのだろうことは分かっていた。

 身につけていた時は、時折あのネックレスを指で触っていた。

 以前に、あれはどうしたのだと聞いたことがあった。

 すると、あれは元婚約者から貰ったもので、既婚者には相応しくないだろうと外したと言っていた。


「この前、一緒に行かなかったのは何故だ? いや、君のことだ。きちんとけじめをつけてから出ていこうと言うのだな」


 ジュリアは目を伏せた。

 いっそ、そうだったなら良かったのかもしれない。

 自分の想いは、きっと他人から見れば馬鹿げたものだと思うから。


「いいえ、マルセルのことではないわ。私が辛い時に、励ましてくれた人のことよ。接した時間はとても短いけれど……それでも彼は私の気持ちを救ってくれた」


 ガウスには衝撃だった。

 一体誰の事だ? どこで出会った?

 自分の知っている人物なのか?


「一体……誰のことなんだ? マシューか? それとも他の商会の男か!?」

「違うわ。……ごめんなさい。彼のことは言えないの」


 もしもガウスにビルのことを告げれば、ビルに迷惑がかかると思った。

 彼はただの庭師に過ぎない。

 ……いや、本当にそうなのかすら分からない。

 そう、ジュリア自身も彼が本当は誰なのか分からない。

 それなのに、こんな決断をしようとは。

 自分でも愚かだと思う。



 もしかしたら、忘れることが出来るかと思っていた。

 かつては待つと言ってくれたけれど、かなりの時間が経ってしまった。

 もう待っていてくれないだろうと思っていた。

 けれど、彼はジュリアに会いにきてくれた。

 あの祝福の言葉を贈ってくれた。



 今、もう一度、彼の手を取りたい。



「あなたを責めるような言葉ばかり言ってしまったけれど……結局、私は私の幸せを選び取りたい。ただそれだけなの。その幸せに、あなたは居ないわ」

「ジュリア……!」


 ガウスはジュリアのドレスの裾を掴んだ。

 ジュリアを見上げる金の瞳から涙が溢れ出る。

 あのガウスが、まるで王のように振る舞い、飢えた獣のような瞳をしていたガウスが、このような姿を見せるとは。

 ジュリアは胸の中に走る痛みに、見て見ぬふりをする。

 この3年で、ジュリアにとってガウスも、大切な人の内に含まれていたのだろう。


 だがガウスの手を取らないならば、優しく慰める資格は、ジュリアにはない。


「元々この日を見据えて準備はしてきたわ。あと1か月で、きちんと商会の引き継ぎを終えます。どうかそれまでは、会頭と副会頭として接しさせて」


 ジュリアはガウスを見下ろし、言った。

 ガウスはショックを受けた青い顔のまま、力なくドレスの裾を掴んでいた手を、下ろした。


「もし…………」

「え?」


 ガウスは視線を床に落とし、何事か呟いた。

 ジュリアはその言葉を拾うことが出来ず、聞き返した。


「もし、俺がもっと早くに君を愛していたら、これからも隣にいてくれただろうか……?」


 ガウスはジュリアの瞳を真っ直ぐ見つめ、そう尋ねた。



 ジュリアは思う。

 もしもジュリアが嫁いできてすぐに、今のような関係を築くことが出来ていたら。

 せめてジュリアの話を聞き、信頼関係が築けていたら。

 二人の関係は変わっていただろうか。

 もしかしたら、偽装事件のこともすぐに二人で乗り越えられたかもしれない。

 ……もしかしたら、ジュリアがビルに惹かれることは、なかったかもしれない。


 ジュリアも真っ直ぐに、ガウスを見つめた。


「そうね……。もしかすると、きっと」



 ガウスは慟哭した。


 何故こうなったのか。

 何を間違えたのか。

 どこで間違えたのか。

 分かっている。

 最初から、何もかもを間違えていたのだと。

 過ぎた時は戻らない。

 一度付けた傷は、治ることはあっても傷跡が残る。


 ジュリアとガウスの関係は、これで終わりだ。

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