第56話

 

 マルセルが去って、数週間が経った。

 ジュリアは精神的に落ち着かない日々を送っていた。


 マルセルはどこに行ったのか。

 何故急に走り去ってしまったのか。

 ジュリアはマルセルが気がかりで仕方なかった。


 マルセルがまさか、あんなにも燃えるような強い想いを自分に向けていたとは、全く気付かなかった。マルセルはいつも物静かで、淡々としているように見えたから。

 もしも知っていたなら、違った未来があったのだろうか?


 ジュリアは私室でマルセルから貰ったアメジストのペンダントを手に取って眺める。

 きっともう、これを身に付けることは出来ないだろう。

 マルセルの想いを、知ってしまった今は。



 コンコン、と控えめなノックの音が響く。

 ジュリアは憂鬱な気持ちで息を吐くと、ネックレスをジュエリーボックスに戻した。


「どうぞ」

「調子はどうだ? 少し一緒に散歩でもどうだろうか」

「いいえ、結構よ」


 落ち着かないもう一つの原因は、ガウスだ。

 あれ以来、二人の間には険悪な空気が漂っている。

 と言うよりも、ジュリアの方が一方的にガウスを避けていた。


 マルセルの出所日を偽り、更に屋敷に何度も訪ねてきていたマルセルを追い返していたこと。

 それを一切ジュリアに知らせなかったこと。

 ジュリアはそれらが許せないでいた。



 あの後すぐ、ジュリアはガウスを問い詰めた。


『いくら薬を使われていたとはいえ、人を殺した男だ。君のことが心配だったんだ』


 ガウスはそう言った。

 ガウスの気持ちも分かる。守ってくれようとしたのだろう。

 けれど、どうしてジュリアに相談してくれなかったのか。二人で話し合って対処しても良かったはずだ。

 ジュリアは、ガウスに裏切られたような気分だった。



「……まだ怒っているのか? 言っただろう。君のためにしたことだ」

「それでも、何故あなたが勝手に私のことを判断するの? 今回のことは、私に相談されるべきことだったわ。……何故、嘘をついたの……?」


 マルセルが訪ねてきていることを隠すのは、百歩譲って分かる。けれど、牢から出る日を偽っていたことが理解できない。

 ガウスはジュリアの代わりにエミリアに会いに行ったのだ。それなのにその話を偽られたら、ジュリアは何を信じていいのか分からなくなってしまう。

 ……ガウスなら、きっとジュリアの代わりに、聞いたこと全てを伝えてくれると思ったのに。



 ガウスとて苛立っていた。

 ガウスはずっと不安だったのだ。

 もしマルセルがジュリアの元にやってきたら、ジュリアはここを出て行ってしまうのではないかと。マルセルの手を取ってしまうのではないかと、不安で仕方なかった。

 だからマルセルの出所日を離婚の約束の日の後だと、嘘をついた。

 その後ならば、きっとジュリアはここに残ると決心した後だろうから。


 ジュリアがマルセルの誘いを断り、ここに残ってくれてどれほど嬉しかったか。

 ジュリアは、ガウスを選んでくれた。

 そう思い憂いがなくなったと思ったのに、何故ジュリアはまた心を閉ざしてしまったのか。

 ガウスには分からなかった。



「それは……君が彼のことを気にしていると体に障ると思ったからだ。君は自分のことに専念するべきだ」

「それでも! マルセルは……私にとってどれだけ大切な人だか分かるでしょう? 父も母も亡くなって、お兄様とももう会えるか分からない! ティンバーで親しかった人たちの多くは、もう会うことが出来ないのよ! マルセルが何故居なくなってしまったのか分からないけれど、もう少し早く会えていたら何か変わったかもしれないわ!」


 ジュリアは涙まじりに訴える。

 そんなジュリアを見て、ガウスは眉間に皺を寄せ、力強く拳を握りしめた。


「いい加減にしてくれ!! それとも、彼を愛しているのか? ハッ! そうだよな君は望んで嫁いできた訳じゃないものな!? 本当はあいつと一緒に行きたかったのか!?」

「そんな話はしていないわ! 何故そんなことを言うの? ただ、マルセルは私に残された数少ない大切な人だということなのに……何故分かってくれないの……?」


 ジュリアは顔を歪めてガウスを見つめる。

 ガウスは、ふいと視線を外した。


「……そうやって、いつも目を逸らすのね」

「もういい。お互い頭を冷やそう」


 そう言ってガウスは部屋から出て行った。





 ジュリアはベッドにうつ伏せ、一人涙を流した。


 自分の気持ちが分からない。

 夫として甲斐甲斐しく世話をしてくれたガウスに、心から感謝していた。

 過去のことは水に流して許すべきなのか。

 そう思っていた矢先に、これだ。

 ガウスはどうにも、女の感情を簡単に考える癖があるように思う。それは、これまで数多の女性と関係を築きながらも、そのどれもがひどく浅いものだったからかもしれない。

 ガウスには、そのつもりはないのだろう。けれど、女とはこういうものという固定観念を持っている。だから何故ジュリアがこんなにも怒っているのか、理解出来ないのだろう。

 一度ガウスに疑念を持ってしまうと、過去にガウスから受けた様々な仕打ちを思い出してしまう。


 ジュリアは自分の頬に手を当てた。


 ガウスが今自分に好意を持ってくれているのは、確かだろう。

 今は優しくしてくれる。

 けれど、その好意がなくなったらどうなる?

 ガウスが好意を持たない相手に非情になることは、経験から分かっている。

 また手を上げられることがあるのだろうか。

 これからも嘘を吐かれるのだろうか。

 自分も、エマのように捨てられるのだろうか。



 ジュリアは自問し、顔を更にシーツに埋めた。




 しばらくして、控えめにノックがされ、カンナが顔を出した。


「奥様。たまには気晴らしに、屋敷の外に出てみましょうか。すぐ近くにはなりますが、運河沿いを散歩しましょう。大丈夫です。ガウス様は事務所に行かれましたし、言いつけなど構いやしませんよ」


 そう言ってジュリアのショールと帽子を持ってきた。


 部屋の中に閉じこもっているから嫌な方に考えが回るのかもしれない。

 少しは気晴らしも必要だ。


 ジュリアはその提案を受けることにした。



 スチュアートたちに心配されながらも、すぐ近くまでだからとカンナと二人で屋敷を出る。屋敷の中庭も好きだが、壁に囲われていない空はまた違って見えた。

 カンナと談笑しながら、運河沿いに歩いていく。


 もう夏はすぐそこまで来ている。

 陽射しが運河の水面に煌めいて、ジュリアは一瞬目が眩んだ。

 眩しさに目を眇めて、手を顔に翳す。

 そして手を退けると、一人の青年が立っていた。


 ジュリアは驚いた。

 先程まで、この青年は周りに居ただろうか。

 かと言ってジュリアもカンナも警戒心を抱かなかった。

 それは、明らかに青年が敵意なく微笑んでいたからに違いない。

 黒に近い茶色の髪にキャスケットを被った青年は、手に花籠を持っていた。

 顔がよく見えないが、花売りなのだろうか。


「お嬢さんは運が良い。今日はもうこれで最後なんだ。だから、特別にプレゼントするよ」


 そう言って青年は、一本の花を差し出した。


「あ、ありがとう……」


 反射的にジュリアはそれを受け取った。


「あなたを愛する人はたくさん居る。あなたの幸せはあなたにしか選べない。あなたには、選ぶ権利がある」

「え……?」


 青年は帽子の鍔を押し下げ会釈して、言った。


「きっと、あなたに喜びがやってきますように」

「っ! 待って……!!」


 ジュリアがはっとして目をやった時には、青年は姿を消していた。


 ジュリアの手には、一本のクチナシの花が握られていた。



「何だったんでしょう……っ奥様申し訳ありません! 何故か反応できず……。そちらは私が預かります。何か危険があってはいけません」

「いいえ……。いいえ、大丈夫よ。これは危ないものじゃないわ」

「ですが……」

「大丈夫。きっと、彼は私を傷付けたりしないから」


 そう言ってジュリアは、涙で潤んだ瞳で微笑んだ。





 早々に散歩を切り上げ、ジュリアは私室へと戻った。

 カンナはジュリアを心配したが、少し一人になりたいとジュリアは伝え、部屋から出てもらうことにした。


 カンナが去った後、ジュリアは花を花瓶に生け、ジュエリーボックスを開いた。

 そして、クチナシの花で彩られた髪飾りを手に取った。


 ジュリアはビルを思い出す。

 最後に会ったのは、もう2年以上も前のことだ。




 恋には幾つかの形がある。


 一目見て一瞬で落ちる恋もあれば、時間を掛けゆっくりと育む恋もある。

 中には、惨めで傷付いた自分と、それを取り巻く状況の中で救いのように見出す恋もある。

 それはただの錯覚だと、唯一の希望に縋っているだけだと言う者もあるかもしれない。


 けれど、どれが真の恋だなどとは、誰にも選り分けることは出来ない。

 どれも全て、恋には違いないのだから。


(ビル……。私は、あなたのことを一度だって忘れたことはないわ……)


 一度も身に付けたことのない髪飾りを、ジュリアは撫でた。


 そして、ジュリアは決心した。

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