第55話 sideマルセル 下

 

 マルセルは真っ先に、ジュリアの居るウォルナット邸へと向かった。


 しかし、マルセルはジュリアに会うことが叶わなかった。

 屋敷の主人であるガウス・ウォルナットが、頑としてマルセルを中に入れなかったのだ。、


『今更元婚約者が何の用だ。ジュリアはもう、君とは会う必要がない』


 そう素気無く言い放たれ、ジュリアを一目見ることさえ叶わなかった。

 ジュリアに会いたい。

 一目だけでも。


 ——いや嘘だ。

 あの柔らかな手を取って口付けたい。

 抱きしめたい。

 ジュリアに会いたい。

 マルセルはその一心で、3週間、ウォルナット邸に通い続けた。


 ダルベルギア侯爵は、もう諦めるようマルセルに言った。直接説得するのではなく、別の手を考えようと。

 しかしマルセルは首を縦には振らなかった。

 どうしても、自分自身で想いを伝えたかった。

 マルセルが欲しいのはジュリアという器ではない。

 その心だ。

 そう、ずっと欲しかった。

 ジュリアの心が。



 そしてついに、好機が訪れた。

 マルセルがいつもの通りウォルナット邸に向かうと、ガウスが屋敷から出てくるのが見えた。

 忌々しいあの男は、商会を抱えているくせに屋敷からほとんど出てこない。職務放棄も甚だしいただの無頼漢だ。あんな男の元にジュリアを置いて置く訳にはいかない。

 マルセルは強く思った。


 普通にジュリアに会わせてくれと言っても門を開けられることはないだろう。

 出入りの商人のふりをして、帽子を目深に被り、ジュリアに取り次いでもらうよう門番に声をかける。

 門番は訝しみ、確認のため屋敷の中に入ろうと門を開けた。

 その隙に、マルセルはするりと門の中へと入っていった。

 慌てて外に出そうとする門番の声を聞きつけ、スチュアートがやってくる。

 門番と揉め合っていたため、帽子が外れ、顔が露わになった。


「あなた様は……! ガウス様より、あなた様を屋敷に入れてはならないと厳命されております。お引き取りください」

「ジュリアに会わせてくれ! 彼女と少し話がしたいだけなんだ!」

「なりません! これ以上なされるようならば、警邏を呼びますよ!」


「スチュアート? どうしたの、お客様かしら?」



 マルセルはその声に、心が震えるのを感じた。

 ずっとずっと、待ち望んでいた声だ。



「っジュリア!!!」

「マルセル…………?」


 ジュリアが自分を見た。

 ジュリアが名を呼んでくれた。


 そのことだけで、どれだけマルセルが喜びを感じているか、きっとジュリアは知らないだろう。

 マルセルは、シャーロットが現れてから今に至るまでの間で初めて、息が出来る気がした。



 ジュリアはマルセルを応接間へと誘い、ソファーを勧めた。

 最後に見た時よりも、ずっと大人の女性へと変貌している。

 歩みも以前に比べずっとゆったりとしていて、優雅さを感じる。

 少し痩せただろうか。

 自分が隣で支えたい。


 マルセルはその間、多くのことを考えた。

 まさかジュリアが補助具をドレスの下に隠して歩いているとは思わず、その所作の違いに、離れていた時間の長さを感じていた。


「……驚いたわ。まさかマルセルがここに居るなんて……何だか不思議ね」

「ジュリア……。ごめん、君にどうしても謝りたくて来たんだ」


 急に一緒に行こうと言っても、ジュリアが受け入れてくれないことは分かっていた。

 まずは謝罪を、そして伝えられなかった想いを、一つ一つゆっくりと言葉に乗せた。


 この時ほど、自分の寡黙な気質を恨んだことはなかっただろう。

 マルセルは想像以上に苦労をしながら、ジュリアに伝えた。

 君は何も悪くない。

 悪いのは、愚かな想いを持ってしまった自分自身なのだと、必死に訴えた。



「愛してた……。いや、今だって、心から愛してるんだ、ジュリア」


 愛している。

 その言葉だけでは、この想いは片付けられないかもしれない。

 執着。拘泥こうでい

 他人はそう名前を付けるのかもしれない。

 けれどマルセルにとってそれは、唯一自分の中にある温かな感情だった。

 この感情に愛と名が付かないのなら、きっと自分は一生愛を知ることはないだろうと思った。


「君と結婚することだけが、僕の希望だった。碌でもない僕の人生で、たった一つの光だった」

「そんな……」


 ジュリアが困惑している。

 それは分かっている。

 今まで伝えてこなかった、自分が悪いのだ。

 ジュリアとの未来は必ず訪れるものなのだと、そう信じて疑わず胡座をかいた自分のせいだ。


「ジュリア……僕たち、もう一度やり直せないか。ローズウッドの爵位はなくなってしまったけれど、これから2人で」


 ジュリアと共に、もう一度、未来を描きたい。

 そう大事なことを伝える前に、ガウス・ウォルナットが邪魔をした。

 ジュリアの肩に置かれたガウスの手を憎々しく見つめる。


 俺のジュリアに触れるな。


 激しい憎悪がマルセルを支配する。

 ジュリアに触れていいのは、ジュリアの手を取るのは、自分だけだ。



「マルセル……。マルセル、ごめんなさい。あなたのことはとても大切よ。心からそう思う。でも……今からあなたとやり直すことは、もう出来ない」



 けれどジュリアの言葉で、マルセルは一気に絶望の淵へと落とされた。



「そんなこと言わないでジュリア!! 3週間! 一目ジュリアに会いたいと3週間ここに通ったんだ! 待てというならいくらでも待つから!!」


 そう幾らでも待つ。

 ジュリアがこの手を取ってくれるなら、何でもする。

 悪魔に魂を売っても構わない。

 ジュリアが、居てくれるなら。


「ねえジュリア! お願いだ!」


 マルセルがジュリアの手を掴む。

 ああ、この柔らかで温かな手。

 懐かしい、愛しいジュリアの手だ。

 誰にも渡さない……!



 マルセルは、自分が掴んでいるジュリアの手に目をやる。



 途端、視界が真っ赤に塗り潰された。



 赤、赤、赤。



 この赤は何だ?



 マルセルは自分の手を見る。


 ああ、これは自分の手に付いた血だ。

 真っ赤な、べっとりと付いて離れない、真っ赤な血。


 血塗れで倒れた子爵と夫人が目の前に浮かぶ。

 それまで思い出しもしなかった二人の姿が、その時になって初めて鮮明に思い出される。



 そして見た。

 自身が掴んでいるジュリアの手が、赤く汚される幻覚を。



 慌ててマルセルは手を離す。

 震えが止まらない。

 あの美しいジュリアの手を、汚してしまったのか。

 この薄汚れた、自分の手で。



 その時、マルセルは初めて認識した。

 自分自身の罪を。

 自分は、人を殺めたのだ。

 ただ自分自身の欲望のためだけに。



 ジュリアは美しい。

 この世で一番美しいものだ。

 それを汚すのか。

 他でもない、自分が?


 マルセルはガタガタと震え、その恐怖に怯えた。




 そんなことは、許されない。




「マルセル……? 顔色が悪いわ、どうしたの……?」

「ごめん……。ごめんジュリア……」


 涙が止まらない。

 一体何に涙を流しているのか自分でも分からない。

 ただ一つ、分かること。

 もう、自分はジュリアと一緒にいることは出来ないということだ。


「ごめん、全部忘れてくれ……。ジュリア……どうか幸せに。心から祈るよ」



 早く、早くジュリアから離れなければ。

 今やマルセルの幻覚は、自身から溢れ出た大量の血が床を伝いジュリアの足元に迫っていく姿を見せていた。


 マルセルは駆け出す。

 ジュリアを汚さぬよう、少しでも早く。


「待って! マルセルどこに行くの!?」


 早く去らなければならないのに。

 思わず足が止まる。

 ジュリアの声をもっと聞いていたい。

 けれど、行かなくては。


「大丈夫、僕は僕の居場所を見つけたんだ。だから、大丈夫。ジュリア……さようなら」



 決別。

 時間と共に罪は薄れるだろうか?

 いや、決して罪は消えないだろう。


 もう二度と、ジュリアに会ってはならないと、マルセルは思った。




 マルセルは駆ける。

 出来るだけ早く。

 また振り向いてしまわないように。








 マルセルは運河に架かる橋を渡り、止まっていた一台の馬車に乗り込んだ。

 中には、ダルベルギア侯爵が待っていた。


「どうしたのマルセル……酷い顔だわ。今日も会えなかったの?」

「…………もう、いいのです」

「そう……諦めることにしたのね。分かったわ。私が早くジュリア嬢を迎え入れられるよう計らうから」

「いいえ、いりません」

「え……?」

「もう……ジュリアのことは……いいのです……」


 そう言って、マルセルはただ涙を流した。


「彼女のことは、諦めるということ……?」

「はい。だから……もう行きましょう」


 それから、マルセルは一切何も喋らなくなってしまった。

 ダルベルギア侯爵は、あんなにもジュリアに固執していた息子に何があったのかと心配になった。


 けれどその理由を話してもらうには、まだ信頼が足りないことも、分かっていた。


「そう……。なら、行きましょう。あの人の待つ、新しい場所へ」




 馬車は走り出す。

 母子を乗せて。

 母子と言うには、あまりにも複雑な関係だ。

 マルセルにとってそれは、何の希望にもなり得ない。

 ジュリアの居ない人生に、最早希望はない。

 生きる目的さえ、存在しない。



 マルセルは今空っぽだった。

 馬車に乗り込んだことは奇跡に近い。

 このまま、自分がどうなろうと、構わない。

 マルセルに生きる気力は残されていなかった。


 そんなマルセルの空虚をダルベルギア侯爵は感じていた。

 自分が、その空虚を埋められたら。



 マルセルを心から愛する母が、確かにそこに居た。

 時間をかけ、ゆっくりとゆっくりとその心に触れ合えば、もしかしたら。



 馬車は行く。

 父と、母と、子が揃うまで、あと少しだ。

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