第54話 sideマルセル 上

 

 ダルベルギア侯爵の話を聞いたマルセルは、ただ困惑していた。

 自分に知られざる本当の両親がいるなど、思いもしなかった。


 ……いや。


 本当は夢見ていた。

 今の状況は全て何かの間違いで、本当は他に自分の居場所があるのではないかと、子どもの頃はよく夢想した。

 大人になるにつけ、そんな感情とは折り合いを付けたのだ。ジュリアと結婚し、新たな居場所を作ればいいのだと思った。


 しかしまさか、自分に王族の血が流れているだなどとは、想像すらしなかった。


 当然、マルセルはすぐにその話を信じることができなかった。

 確かに女の瞳は自分と同じ色をしている。珍しいには違いないが、他にこの瞳を持つ人々がいない訳ではない。

 彼女が本当にダルベルギア侯爵なのだろうことは、紋章の指輪で確認した。あれは当主のみが身につける指輪だ。ローズウッド子爵家の系譜を覚える時に、ちらりと見た記憶があった。

 ローズウッド子爵家にとってダルベルギア侯爵家は、過去一度、一族の娘が嫁いだ家に過ぎない。本来その紋章など、覚えている方が異例だ。

 子爵がマルセルに課した厳しい勉強が、こんなところで役立つとは思わなかった。



『いきなりこんなことを言われても、信じられないのは分かるわ。それでも私を信じて、と言うことしか出来ない。あなたと私の関係を証明するものは、全て排除してきたから。あなたのためだと信じて……。

 けれど、私は間違っていたわ。周りから何と言われようと、あなたをこの手から離すべきではなかった。どうか、これからでも償いをさせて欲しい。あなたのために出来ることは、何でもすると誓うわ』


 そう言ってダルベルギア侯爵は、鉄格子越しにマルセルの手を握った。


『あなたが罪を償ったら、私と一緒にホルツへ来てくれないかしら。ティンバー王国には、もう生活基盤がないでしょう? 私と、そしてあの人と一緒に暮らしましょう……?』


 ダルベルギア侯爵は涙を流したまま、微笑んでそう言った。


 本当の母と、本当の父と一緒に暮らす。

 マルセルには分からなかった。

 ダルベルギア侯爵の話が本当なのか、もしそうだとして、彼女やまだ一度も会ったことのない男を両親だと思って暮らせるのだろうか。



 その時、マルセルは思い付いた。

 彼女たちなら、もしや自分の希望を叶えられるかもしれない。


『あの……一つ願いを叶えてもらえませんか』

『何? 何でも言って』

『僕の婚約者だったジュリア・マホガニーと、一緒に暮らせませんか』


 罪人には婚姻の権限がない。

 しかし彼女なら、マルセルに新しい名前と身分を与えることができるのではないかと思ったのだ。

 ジュリアは既にホルツ王国の平民の男と結婚しているという。

 相手が誰だかは分からない。誰に聞いても分からないと言われたからだ。

 けれど、そんなことはどうでも良かった。

 ジョシュアが無理矢理結んだ結婚で、彼女にとってそれは、望んだことではないだろうと思ったから。

 離婚が出来ずとも、連れ去ってしまえばいい。

 行方が分からなくなって3年経てば、自動的に離婚が成立する。

 それに、ジュリアにも新しい名前と身分があれば、きっと一緒になることは出来るはずだ。



『あのコンテナ男爵家の御令嬢ね。そう……あなたは彼女を愛しているのね……?』

『はい。彼女は、僕の全てです』


 一切の迷いなく、真っ直ぐダルベルギア侯爵を見つめて告げる。

 そう、嘘偽りないマルセルの本心だ。


『…………分かったわ。取り計らいましょう。彼女の夫のガウス・ウォルナットとは知り合いなの。もう1年ほど前だけれど、話を聞いた時にはあまり上手くいっていないようだったわ。案外簡単に離婚が整うかもしれない』

『いえ、僕が直接ジュリアと話します。侯爵には、環境整備をお願いしたい』


 息子に『侯爵』と呼ばれたことが切なかったのか、ダルベルギア侯爵は、哀しげに顔を顰めた。

 しかしすぐににこりと笑顔を作り、頷いた。


『そう、分かったわ。……そうしたら、私たちと一緒に来てもらえる……?』

『ジュリアと共になら』

『ありがとう……本当にありがとう……。次に会う時までに、あなたの新しい名前と身分を用意するわ。あと、ジュリア嬢にも名前と身分を変えてもらう必要があるわね。少しでもあなたに繋がる要素を排除したいの』

『分かりました。説得します』


 マルセルと母との最初の邂逅は、これで終わった。


 牢の中にいるマルセルに、ダルベルギア侯爵の話が本当か確かめる術はない。

 けれど、正直に言えばどちらでも良かった。

 その時のマルセルにとっては、ジュリアと共にいられることの方が重要だった。


 ジュリアを思うことで、心の中に密かに湧き上がった怒りに蓋をする。

 侯爵の勝手で、他人にマルセルを預け、今の今まで放置したこと。

 マルセルは卑しい血が流れているのだと、幼い頃からずっと言われ続けてきたのだ。それが今になって高貴な血筋だと言われて、嬉しいという感情よりも、では何故自分がこんな人生を歩まねばならなかったのかという不満の方が大きかった。


 けれど、ローズウッド子爵家に来なければ、ジュリアには出会えなかった。

 そう考えれば、きっと全て、無駄なことではなかった。

 そう思うようにした。











 時は流れ。


 よく晴れた日だった。

 久々に仰いだ広く青い空に、マルセルは大きく息を吸い込んだ。


 刑期を終え、牢から出されたマルセルを出迎える者は、誰もいない。

 ローズウッド子爵家は、子爵が亡くなりマルセルが継ぐはずだった爵位を剥奪されたことで、取り潰しとなった。

 かつて交友のあった者たちは、自分自身のことで手一杯で、マルセルのことを気にかける余裕はないだろう。

 唯一、エミリアだけはマルセルの今後を支援しようと名乗り出たが、マルセルは断った。

 ホルツ王国の親戚を頼るから心配いらないと言い添えて。


 マルセルが収監されていたのは、王宮の近くにある貴賓用の牢獄だ。

 鉄格子は嵌められているものの、シャーロットのいた地下牢獄とは雲泥の差がある。

 それでも2年以上1度も部屋から出ていなかったため、久々に仰いだ空は新鮮に映った。


 それも全て、ジュリアとの未来を思えばこそだ。


 マルセルは一人街道を歩いて行く。

 まずはジュリアに酷い言葉を投げつけたことを謝らなくては。

 それから、これまで一度も言葉にしたことのない想いを伝えよう。

 そして、もう一度やり直そうと伝えるのだ。



 マルセルは賑やかな中心街を離れ、閑散とした郊外の道を進んだ。

 この日に備えて幾分筋力をつけたものの、体力の落ちた体では息が上がる。

 しばらくして、一台の馬車が止まっているのが見えた。

 紋章は何も描かれていない。粗末と言うほどではないが、何の変哲もない馬車だ。

 マルセルが近付くと、御者が扉を開け、中に招き入れられる。


『疲れたでしょう。よく来てくれたわ。港までしばらくかかるから、ゆっくり休んで』


 そう言って微笑んだダルベルギア侯爵の足は、不自然な形をしていた。




 侯爵は計画通り、わざと内乱の騒動で傷を負った。現在のダルベルギア侯爵は、人の手を借りなければ歩くこともままならない。

 ここまでの傷を負うことになろうとは、ニグラ公爵は思っていなかっただろう。だがダルベルギア侯爵は元々そのつもりでいた。

 政界を退いたとしてもおかしくない程の傷で無ければ、周囲を納得させることは出来ない。



 侯爵はその後何度かマルセルの元に訪れ、今日という日の打ち合わせを行っていた。

 初めてマルセルとダルベルギア侯爵が会ったのは、まだティンバーとの交渉が本格化する前だった。そのため身分を隠して会いに行ったが、それ以降侯爵にはマルセルと会う大義名分が出来た。

 マルセルがシャーロットの一番のお気に入りだったことは周知の事実であるため、今回の騒動の話を聞くという名目で、簡単にマルセルと会うことが出来たのだ。


 マルセルは未だにニグラ公爵には会っていない。

 公爵の死が世間に認知されるまで、安全な場所に身を隠しているという。




 馬車がガタガタと揺れながら進む。

 整備された街道ではないため、かなり揺れる。

 傷に障るのか、ダルベルギア侯爵は時折顔を顰めた。

 マルセルはその姿を、ならば自身で来なければ良かったのにと思った。

 未だ、母を心配する感情は生まれない。



『ジュリアは、どうしていますか』


 マルセルは尋ねる。

 マルセルの関心はジュリアにしか向けられていなかった。

 そのことをダルベルギア侯爵は、よく理解していた。これまで何度かマルセルと対面し、彼が話すのはジュリアのことばかりであったからだ。

 侯爵は、その時ジュリアが階段から落ち足を痛めている事を知っていた。けれどそれをマルセルに伝えては、錯乱してしまうのではないかと懸念し、敢えて真実は伝えないでいた。

 どう足掻いてもマルセルがジュリアに会うまでには、最低でも数日かかる。

 今伝えるのは最善ではないと判断した。


 ジュリアとガウスの関係性が変化していることも、侯爵の耳に入っていた。

 当初考えていたよりも、簡単には事が運ばないかもしれない。

 マルセルがジュリアを説得できるか。

 しかし説得できなかったとて、大した問題ではない。

 どうしてもマルセルがジュリアを手に入れたいというのなら、取れる手段は幾らでもあるのだから。



 ダルベルギア侯爵は敢えて質問の主旨をずらし、答えた。


『あなたにはまだ言っていなかったけれど、マホガニー男爵……ジュリア嬢のお兄様が、捕らえられたの。あのシャーロット・メイプルを牢から連れ出して……殺害したのよ。

 連れ出す時、牢の警備をしていた者たちに薬を嗅がせて眠らせていたのだけれど、その内の一人が頭の打ち所が悪くてね。重い障害を負ってしまったの。重大犯罪人を脱獄させた挙句に命を奪い、罪なき人にも大きな怪我をさせた。彼は未だ心神喪失状態だとも言われていてまだ裁判の途中だけれど、極刑もあり得るかもしれないわ。そのことで、ジュリア嬢は胸を痛めていることでしょう』

『ああ……そんな……』


 マルセルは酷く辛そうに息を吐き出し、目を伏せた。

 かつて交友のあったジョシュアの行く末を嘆いたのではない。

 兄のことで胸を痛めているジュリアを哀れに思い、そして隣で支えられない自分自身を嘆いたのだ。

 そんな歪んだ想いを抱くマルセルのことを、ダルベルギア侯爵は哀れに思った。




 マルセルはただ只管にジュリアだけを想い、海を渡った。

 

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