第46話

 

 ガウスがティンバーに旅立って、2日後の朝。マシューが屋敷に訪れた。

 最近王都本店の営業を再開したため、その開店前に寄ってくれたのだろう。


 ジュリアはガウスの言葉を『私室に入れるな』という意味だと解していた。何故なら目覚めてからの3週間、ジュリアはほぼ私室から出ていなかったからだ。

 しかしガウスはジュリアのため、立派な車椅子を手に入れていた。屋敷には昇降機がなく屋外に出ることは厳しいが、同じフロアであれば移動が出来る。

 ジュリアの私室がある3階には、ちょうど図書室の真上にあたる位置に談話室が設けられている。壁で囲われておらず、客人たちが気兼ねなく会話を楽しめるよう、ゆったりとしたソファーが置かれているスペースだ。

 マシューを迎え入れるには、ちょうどいい場所だと思われた。


 マルタとスチュアートが本当に会うのかと何度もしつこく聞いてきて、ジュリアは首を傾げた。自分を心配して部下が訪ねてきたのだ。商会の話もあるという。それに、船乗りの男とも同じように談話室で会ったのだ。断る理由がない。

 スチュアートなど『ガウス様から誰も屋敷に入れるなと申しつけられています』と言っていたが、『まさかガウス様がそんな非常識で恩知らずなことをおっしゃるはずがない』と返したら、何故か少し顔を青くして黙ってしまった。

 一体どうしたというのだろう。


 とにかく、ジュリアはカンナとマルタに手伝ってもらい、きちんとしたドレスに着替えた。カンナに車椅子を押してもらい、談話室へと向かう。

 すると、ソファーに腰かけていたマシューがジュリアに気付き、慌てて立ち上がった。


「ジュリア!!」

「マシューさん。ご心配お掛けして大変申し訳ありませんでした。私はこの通り元気ですよ」

「どこが元気!? そんな痛々しい格好で……」


 マシューはとても痛ましそうにジュリアを見つめた、ように見えた。


「もっと早く来たかったけど、会頭がまだ安静が必要だからって、許してもらえなかった」


 ジュリアはそれを聞いて驚いた。

 何もガウスから聞いていなかったからだ。

 しかし、ジュリアの体調を気にしてのことだろう。随分と過保護になったものだと、笑いが漏れる。


 ジュリアは知らない。単にガウスがマシューを警戒しているだけなのだと。

 ガウスは引きこもりをやめ初めて事務所に行った時、マシューがジュリアに何かを言いかけた場面を目撃している。

 ジュリアはあの時、マシューが何を言いかけたのか分からず、後に聞いてみたりもしたが、マシューははぐらかすばかりで答えてはくれなかった。

 だがガウスは察していた。マシューがジュリアに想いを寄せ、それを伝える決意をしていたのだろうと。

 だから決して屋敷にマシューを入れたくなかったのだ。

 結局、ジュリアはあっさりと迎え入れてしまったのだが。



「それはごめんなさい。でも、本当に大丈夫ですよ。不便ではありますけれど、しばらく大人しくして、訓練すれば歩けるようなるということでしたから」

「ん、良かった……。でも、無理は駄目」

「はい。そうですね。分かりました」


 ジュリアはにこりと笑ってマシューに応える。

 マシューはどこか照れたように下を向いた。

 彼の頭の中は、今とても騒がしいことだろう。



「あ……それとこれ。前に好きって言ってたから」


 そう言ってマシューはクチナシの花束を差し出した。

 ジュリアは驚く。

 確かに言ったことがあったかもしれないが、それをマシューが覚えていたことも、この時期にクチナシを用意出来たことも驚きだった。

 クチナシが咲くのは、もう少し後の季節だ。

 そんなジュリアの考えを察したのか、マシューは早口で言った。


「薔薇とか百合とかが好きって女の人は多いけど珍しいと思ったから覚えてただけ。それにこれは春に咲く品種でたまたま見つけたから買ってきた。……迷惑だった?」


 嘘である。

 本当はジュリアから好きな花の名を聞いた瞬間に必死で心の中でメモを取っていたし、春に咲くクチナシを必死になって探した。

 なんとなく、ジュリアもマシューが探して持ってきてくれたのだろうことを察し、笑顔でそれを受け取った。


「ありがとうございます。とても綺麗。それに良い香り。部屋に飾らせてもらいますね」


 ジュリアがにこりと微笑むと、マシューはまた照れたように視線を外した。


 ジュリアは胸にちくりと走った痛みに、見て見ぬふりをする。

 クチナシはビルとの思い出の花だ。

 ビルに貰って以来、ジュリアの好きな花になった。どうしてもクチナシを見ると、ビルを思い出してしまう。

 ジュリアは意識的にビルを頭から追い出し、マシューに尋ねた。


「そうだ。ルーナが店に戻ったのですよね。どうかしら、きちんと馴染めていますか?」

「ん。最初はやっぱりみんなぎこちなかったけど、大丈夫。ルーナが明るく頑張ってるから」


 ルーナがガウスの愛人として屋敷のメイドになったのは、周知の事実だ。

 しかしルーナが屋敷から出されたということは、愛人関係が終わったことを意味する。会頭の元愛人である元同僚に、皆どう接するべきか戸惑うのは無理もないだろう。それにてっきりルーナは落ち込んでいると思っていたが、どうやら前向きに頑張っているようだ。

 ジュリアは安心した。




 それからしばし商会の事務的な話をした後、マシューがぽつりと、ジュリアに問いかけた。


「ねえ。今は? 幸せ?」


 ジュリアは目を瞬かせる。

 2年ほど前に、マシューから問いかけられた時を思い出す。

 あの時は、どうしても肯定することができなかった。



 ジュリアは考える。

 まずは母と兄の顔が浮かんだ。

 結局会えないまま母は亡くなり、兄もこれから命を賭して償わなければならないかもしれない。

 2人のことを思えば、とても幸せだなどと言えない。


 しかし商会はまだ完全復活とはいかないまでも、かなり安定してきた。

 ガウスは愛人たちとの関係を清算し、とても優しく丁寧に接してくれている。

 ジュリアは気付いていた。

 ガウスが父と母、そして兄のことに責任を感じていることを。確かにジュリアを娶った動機も、最初の頃の態度も、決して誠実だったとは言えない。

 けれど、ガウスは変わった。変わろうと努力している。

 そんなガウスの気持ちを思えば、今自分が不幸であると言うのは、とても非情なことのように思えた。


「……ええ。きっと」

「…………そっか」


 マシューは手付かずだったお茶を一口飲むと、寂しげに笑った。


「なら、良かった。じゃあ、そろそろ行く。顔が見られて良かった」

「こちらこそ。マシューさんたちには迷惑をおかけします」

「ん。気にしないで。なんとかやるから。ジュリアはしっかり治して、戻ってきて」


 そう言ってマシューは、帰っていった。




 ジュリアは悩んでいた。

 約束の3年まで、あと4か月。

 本当にガウスと離縁することが、良い道なのだろうか。

 自分はこれから、どうしたらいいのだろう。













「あーあー。やばいじゃん。クチナシがボスの専売特許じゃなくなっちゃったよ」


 中庭の木に登り、窓から2人の様子を眺めていた赤毛の少年は、ひらりと地面に着地して呟いた。

 その身のこなしは、まるで重力など感じていないかのようだ。


「夫ともいい感じだし、これはいよいよボスの出番はないなぁー。ひひひ。ボスをからかえる絶好の機会だぜ! 帰ってさっそくリーに話そーっと」


 少年は意地悪く笑うと、まるで柵など存在しないかのように軽々と乗り越え、橋を渡り王都の中心街へと駆けていく。

 彼の頭の中は、どんな報告書を書き上げたら上司をやきもきさせられるかという悪戯心でいっぱいだ。


 彼が向かう先には、ロイドがジュリアに贈った髪飾りに刻まれた名と同じ、『宝花亭』の看板がゆらゆらと揺れていた。

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