第47話 sideマシュー
「マシューさんおはようございます! また屋敷まで行ってきたんですか?」
ジュリアを訪ねた足でマシューが商会へ行くと、ルーナが店舗の前で明るく声を掛けた。
本店を開けることが出来るようになったタイミングで、ルーナが戻ってきたことはある意味で僥倖だった。本店にいた従業員の多くは、戦時下でも開けていた地方の店舗に派遣されている。ブランクはあるものの、本店の業務を知っているルーナが居るのは心強い。
「ん。やっとジュリアの顔が見られた」
「わあ良かったですね! ついに会えたんですか! あぁそうか、今会頭は不在ですもんね」
そう言ってルーナは元気に店舗の周りを掃除する。
そこには全く、ガウスやジュリアに対する感情が何も見えない。
「ねぇ、ルーナ。もう会頭のことは、いいの?」
マシューは知っていた。
ガウスに恋焦がれ、少しでも側に居たいと願い店を去ったルーナのことを。
あの時は、ルーナはガウス以外何も見ていなかった。ガウスがルーナの世界の中心のようだった。
ルーナはマシューの言葉に目をぱちくりとさせた。
マシューはこれまで、他人にそんなことを聞くような男ではなかったからだ。
「あ……ごめん。何でもない。ちょっと、どういう心境なのか気になって」
「マシューさんて、奥様のことが好きでしょ?」
ルーナはあっけらかんとして尋ねた。
マシューはあまりに驚きすぎて、全く仕事をしない表情筋が動くほどに動揺していた。
「なななななんっいやっそんなことっ……!」
「あははは! こんなに動揺するマシューさん初めて見た! 今日は良いことあるかも!」
ルーナは涙を浮かべるほどに声を立てて笑った。
ウォルナット家の屋敷の中で、いつガウスに捨てられるかとびくびくしていたルーナはもう居ない。これが本来の彼女の姿なのだろう。
「あの……なんで分かった?」
「なんでも何もバレバレじゃないですか。こんなに頻繁に屋敷に通って、いくら直属の後輩だったからって普通そこまで心配しません。なんで他の人は気付かないんだろう? それに、私が店に戻って来た日のこと覚えてます? ジュリアは無事かどうなんだーってすごい剣幕で迫ってきて、びっくりしましたよ。久々に会った同僚に初めてかける言葉がそれですもん」
「う……ごめん……」
マシューは恥ずかしくなった。
自分が傍から見ると、そんなに滑稽だとは思わなかった。
マシューが赤面しながら俯いていると、そんなマシューを見てルーナが言った。
「でもね、マシューさん。その恋は諦めた方がいいかもしれないですよ」
「え……?」
マシューは視線を上げた。
言われた内容もそうだが、それよりも、ルーナの声がどうにも気になったからだ。
「見込みないですもん。今のガウス様は、本気で奥様のことを愛してるんですよ。ずっと側に居たので分かります。ガウス様は、これまで多くの女性と浮名を流しましたけど、その誰のことも愛していませんでした。でも、今は違う。本気で奥様のことが好きなんです」
ルーナはマシューではなく、遠くを見つめている。
それに、先ほどまでガウスのことを『会頭』と呼んでいたが、いつの間にか呼び方が元に戻っている。
「もうね、ガウス様が長らく部屋に閉じこもって、出てきた時にはそうでした。そりゃそうですよ。あの辛い時期にガウス様や商会を支えたのは、他でもなく奥様ですから」
ルーナは分かっていた。
ウォルナット家を去らねばならない日が、遠からずやってくることを。
そして、吹っ切れた。
もう愛人ごっこは終わりなんだと、自分でも驚くほどすんなり受け入れることが出来た。
だから休みの日には街に繰り出し、住む場所を探したり、他の働き口を探したりと動いていたのだ。
結局、せっかく見つけた働き口は動乱の中で店を畳んでしまったが、またクルメル商会の店舗で働けるようになった。
ルーナは良かったと思っている。
どのみちあの終わりの見えない愛人生活が、未来永劫続く訳はなかった。愛に溺れてそれに縋ってしまったが、これからはまた1人地に足をつけて生きていく。貯金が貯まったら、また他の働き口を探してもいい。
ルーナの人生は、まだまだこれからなのだから。
ルーナはパッと明るい笑顔で、マシューを見つめた。
「まぁ、いくら会頭が愛していても、奥様がそうとは限らないですけどね! そういう意味では、マシューさんはつけ込む隙があるかも?」
「……いや。俺は、ジュリアが幸せなら、それで良いから」
マシューは思う。
ジュリアがガウスの妻だと初めて聞いた時の衝撃は、忘れられない。あまりに驚きすぎて、頭が真っ白になり動けなくなったほどだ。
そしてジュリアがガウスの妻として辛い思いをしているのなら、自分が助けてあげたいと強く思った。
けれど、マシューはいつもジュリアを見ていたから分かる。
今のジュリアは、昔と違ってガウスのことを信頼している。
それが夫婦の愛かどうかは分からない。だが確実に、2人の関係性は変わった。
それにジュリアは、元は男爵令嬢なのだと聞いた。それを聞いた時にも驚きすぎて、飲んでいた茶を全て溢しているのに気付かなかったほどだ。
仮に、本当に仮に、マシューとジュリアが一緒になったとして、自分はジュリアに何が出来るだろう。
クルメル商会の給料は決して安くないが、ガウスと自分を比べるべくもない。それに、そんなことがあれば二人ともクルメル商会には居られないだろう。
苦労をさせることは、目に見えている。
もしもジュリアがガウスに大切にされるなら、それでジュリアが幸せだというのなら、きっとそれが一番良いのだ。
(でも、もしまたジュリアを苦しめるようなことがあったら、絶対許さない)
マシューは奥歯を噛んで固く誓う。
上司だとか、会頭だとか、そんなことは関係ない。
大切なのは、ジュリアの幸せだから。
そんなマシューを、物珍しそうにルーナは眺めた。
これまでマシューは何をしても平坦で、感情の起伏が分からなかった。けれど、この表情が分からない同僚は、意外にも感情豊かなのかもしれない。
「マシューさん、この前髪切ったら良いのに。そしたら表情がよく見えますよ」
そう言ってルーナはぐいっとマシューの前髪を手で押し上げた。
マシューは予想だにしない行動に固まり、避けることが出来なかった。
「わぁ! マシューさんの瞳って綺麗なオレンジ色ですね! まるで採れたての瑞々しいバレンシアみたい!」
マシューは慌ててルーナの手を振り払った。
ジュリアに続きルーナにまで見られ、完全にパニックに陥る。
「ごめんなさい……つい……。でも、とても綺麗なのに、隠していたら勿体無いですよ?」
「ありがとう……。でも、もうやめて」
ルーナはしゅんと肩を落とす。
マシューは複雑な気持ちだった。
この目を綺麗だと言ってくれる人が、ジュリアの他にも居るとは思わなかったから。
(変なの……。なんか、あったかい)
大嫌いなこの目のせいで、マシューは自分に自信が持てなかった。
前髪を伸ばすのは防衛本能だ。
けれど、2人の女性のおかけで、小さな自信を持つことが出来た。
ルーナは店舗に、マシューは事務所へと向かう。
しかしそれからしばらく、マシューは胸の温かさを感じていた。
もうすぐ春も盛りだ。
彼らの日常は、少しづつ変わっていく。
穏やかに、ゆっくりと。
同じ春のその下で、誰かの悲劇など、知る由もなく。
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