第44話

 

 ジュリアがその話を聞いたのは、目覚めてから2週間が経った頃だった。

 ガウスの口から聞いたその事実は、ジュリアを三日三晩嘆き悲しませるのに、十分だった。

 あまりの嘆き方に、ガウスはジュリアがこのまま儚くなってしまうのではないかと心配したほどだ。


 全ては、あの1通の手紙により齎された。






 ジュリアが階段から突き落とされた、まさにその直前。

 仕事帰りのガウスに、スチュアートが1通の手紙を差し出した。


「今日の昼過ぎにある男が訪ねてきまして、これを置いて行きました。男はセンダン商会所有のコンテナ船の船員と名乗っており、確かにセンダン商会の紋章が入ったバンダナをしていましたので、お預かりしました」


 ガウスがその手紙を受け取ると、差出人の所に『ジョシュア・マホガニー』と記載があった。

 ガウスは慌ててその場で封を切った。



 そこに綴られていたのは、ジョシュアの懺悔と懇願だった。



『親愛なるガウス。


 久しく連絡が取れずにすまない。

 ようやく世情が落ち着きを見せ、俺も正気を取り戻すことができた。

 自分のやったことをきちんと理解できる様になったのは、本当にここ最近の話だ。俺はアーク様や他の皆より、摂取した薬が多かったようだ。正気を取り戻した時には、全て取り返しのつかないことになっていたよ。


 ああ、ガウス。

 こんなことを伝えなければいけない自分が、心から恨めしい。


 母が、亡くなった。


 ジュリアがそちらに嫁いで、父が亡くなってから、ずっと臥せっていたんだ。

 それなのに、俺は満足に医者の手配もしなかった。

 どうかしてる。

 母の亡骸は、目も当てられないほどに痩せ細っていたよ。


 俺のせいだ。

 父の死も、母の死も。

 俺が殺したんだよ。


 以前俺がジュリアに対して伝えたこと、それは全て、事実とは違う。


 シャーロットが使っていたのは、本来その人物が持っている不満や嫌悪感を僅かに増幅させるシガレットと、解毒作用のある香水だったそうだ。

 それぞれ単体であれば問題はないようだけれど、2つが合わさることで麻薬のような成分に変わるのだと、説明を受けた。

 しかもシガレットの効能を香水が中途半端に解毒することで、感情に落差が生まれて却ってシガレットの効果が倍増するんだそうだ。香水を纏った人間の側では気分が落ち着くことから、麻薬効果も相まって、香水を付けている人間に盲目的な好意を抱くようになる。

 そう聞いた。

 だから、俺はシャーロットの言葉を無条件に信じてしまった。

 ジュリアも、俺の苦手な貴族令嬢たちと同じように、自分と異なる異分子を虐げているのだと。



 …………いや。

 そんな薬の効果を説明したところで、ただの言い訳に過ぎない。

 俺はジュリアの言葉に耳を貸さず、シャーロットの言葉だけを信じて、君に嘘偽りを伝えた。

 ジュリアは、何も悪くない。

 むしろ日に日におかしくなっていくフルールを、どうにかしようと必死に働きかけていたんだ。周りから蔑まれ、白い目で見られたとしても。


 ジュリアはこんな兄をどう思っただろうか。

 何も説明せず、何の準備もさせず、コンテナ船の食料庫に押し込んだ兄を。



 なあガウス。

 君を友人と信じて、頼みがある。


 どうか、どうかジュリアを大切にしてやってくれ。


 君とジュリアが結婚して、2年以上が経った。

 今更あの婚姻は無効だという訴えが、通る訳がないことは分かっている。

 だからせめて、どうかジュリアを大切にしてやってくれないか。それが出来ないなら、ジュリアを自由にしてやってくれ。

 君の結婚に対する考え方は、よく知っているつもりだ。君がいつまでも自由を謳歌したいと思っていることも知っている。それでも構わないという女性もいるかもしれない。

 だが、ジュリアは違う。

 ジュリアには、そんな生活は耐え難いはずなんだ。


 商人が契約を反故にするなど、愚かなことだと分かっている。

 けれど今俺が望むのは、ジュリアの幸せだ。


 ジュリアは俺のことを、兄と呼びたくもないだろう。今更、ジュリアの前に顔を見せるなど、できる訳がない。

 いや、ジュリアの前に膝を突き頭を床に擦り付けてでも、許しを乞うべきなのだろうか。


 それに……ああ、ガウス。

 俺はやはり今でも正気でないのかもしれない。

 俺は、今でもシャーロットを愛しているんだ。

 彼女が全ての元凶だ。

 彼女のせいで全てが壊れてしまった。

 そんなことは分かっている。

 なのに、おかしい、俺は狂ってしまったんだろうか。

 それでも、それでもシャーロットを愛しているんだ。


 シャーロットはもうすぐ断頭台の上に上げられてしまう。

 その前に、彼女を連れて逃げるつもりだ。

 君にも、ジュリアにも決して会うことのない遠くへ。



 ガウス。

 どうか、どうかジュリアを頼む。

 ジュリアは何も悪くない。

 全ては、俺が悪いんだ。

 頼む。

 こんな俺を許してくれ。



 ジョシュア・マホガニー』




 ガウスは手紙を読み終えると、大きく息を吐き出した。


「ガウス様、いかがでしたでしょうか。マホガニー男爵の筆跡に違いありませんか」

「……ああ。間違いないだろうな」

「そうですか……。実は、手紙を持ってきた男が言うことには……」


 そしてスチュアートから聞いた事実は、ジョシュアがシャーロットを手に掛けたという、更に信じられない内容だった。









 ガウスから全てを聞いたジュリアは、悲嘆に暮れていた。


(お母様……そんなお母様まで……。ああお兄様……何故そんなことを……!)


 ジュリアはベッドの上で、涙を流し続けた。

 あともう少しで、ティンバーに向かう予定でいた。

 物流は正常に戻ってきていたが、まだ貨物船以外の行き来は再開されておらず、またクルメル商会も手が離せない状態が続いていたため、最近やっとティンバーに行く段取りがついた所だったのだ。


(この足のことがなかったとしても、もう間に合わなかったのよ……。こんなことなら、コンテナ船でも何でも乗って行けばよかったんだわ。商会のことだって、ガウス様に任せていけば良かったのに)


 ジュリアは激しく後悔していた。

 そして、止めどなく自責の念に苛まれていた。


 そんなジュリアを支えるように、ガウスはそっと寄り添った。



 ガウスはガウスで、罪悪感に押し潰されそうだった。

 ジュリアが語った事実。それを嘘だと思っていた訳ではない。

 だが、いざこうしてジュリアには本当に何も落ち度がなかったのだと知ると、これまで自分がしてきたことがどれほどに酷だったのか、思い知る。

 心身ともに傷付いたジュリアに、自分は何をしただろうか。

 そしてあの加工工場で、ガウスがジュリアに手を上げたこと。その事実に、ガウスの胸は後悔で引き裂かれてしまいそうだった。

 しかも、ユアンの裏切りの衝撃があまりに強かったために、未だにそのことをきちんと謝罪できていない。あの時のことを蒸し返すことを恐れて、今までずるずると来てしまった。


(必ずティンバー王国に連れていくという約束も、果たせなくなってしまった。今連れて行ったとしても、何も意味はないのだから……)



 警邏に事情を聞きに行って、現在ジョシュアはホルツの王都郊外にある牢に収監されていることを確認した。

 そしてジョシュアが手紙で語ったことが真実であると、警邏から聞いた。

 一つの国家を滅亡へと導いた重罪人を逃し、そして命を奪ったのだ。


 面会をすることは叶わなかった。

 今後、軍の管轄する重大犯罪者を収監する牢に移送されるという。簡単な刑にはならないのだろう。

 ジュリアとジョシュアを、もう一度会わせることが、果たしてできるだろうか。


(マレーナさんに至っては、もう二度と会わせることができない。俺は、本当に大馬鹿者だ。ジュリアと離れたくないがために、商会を理由に引き止めていたなんて……)


 ジュリアがすぐにティンバーに渡らなかった理由。それにはガウスの行動も少なからず関係があった。

 何かとジュリアに商会の仕事を任せ、ティンバーに渡る隙を与えなかったのだ。ジュリアがティンバーに渡ってしまったら、もう戻って来ないのではないかという恐怖が、ガウスを支配していた。

 結局、ティンバーに渡らなかったのはジュリア自身の判断だ。

 しかし人一倍責任感の強いジュリアが、そうしてくれるのではと期待したのは事実だ。もちろん、いつまでも行かせないつもりではなかった。ただもう少しだけと、先延ばしにしていた。


 マシューはいつもジュリアを気にかけている。

 今では日々、ジュリアの体調はどうなのか、お願いだから見舞わせてくれと、しつこく言ってくる。他の従業員たちも、事あるごとにジュリアのことを聞きたがる。

 ジュリアは、皆に愛されている。

 ガウスはこの2年で嫌と言うほどにそれを感じた。なのにジュリアと本当の夫婦になるには、時間が足りない。

 ガウスは焦っていた。


(その結果が、この様だ。呆れて物も言えない……。俺はいつまで経っても、自分勝手なガキだ)


 ガウスもまた、一人自室で涙を流した。


(ジョシュア。何でこんなことになったんだろうな。俺がお前の異変にすぐ気が付いていれば、こんなことにはならなかったんだろうか。何故お前はあんな所にいるんだ。何故あんなことをしでかしたんだ。何故あんな悪女のために、お前が罰を受けなければならない。何故、ジュリアが涙を流さなければならないんだ……)


 ガウスは一人声を押し殺して泣いた。

 月明かりに照らされ、その雫はガウスの瞳と同じ色に煌めいていた。


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