第43話

 

 次にジュリアが目を開けると、見慣れた自室の天井が目に入った。

 起き上がろうとして、上手く力が入らないことに気付く。

 恐る恐る自身の顔に手をやると、額の当たりにざらざらとした感触を感じた。どうやら包帯が巻かれているようだ。


(もうダメかと思ったけれど、なんとか生きているみたいね……)


 朦朧とした頭が、徐々にクリアになってくる。

 一体今は何時だろう。

 ゆっくりと力を入れて、上半身を起こす。


「痛っ」


 ジュリアは両脚に痛みを感じた。

 何かが脚に巻かれている感触がある。

 すると、ガチャリと扉が開く音がした。


「っ奥様!! お目覚めになられたんですね!」


 カンナが持っていた洗面器とタオルを抱えたまま駆け寄ってくる。

 どうやら体を拭いてくれようとしていたようだ。


「急に起き上がってはなりません! ゆっくり横になってください。何か違和感はありませんか? 私が分かりますか?」

「ええ。大丈夫よカンナ……。両脚が痛むけれど……。ねえ、あれからどうなったの? どれくらい時間が経った?」

「良かった……。本当に良かった……。奥様、奥様の脚の上に彫像が倒れたことで、両脚の骨が折れていらっしゃいます。頭も強く打たれたようで、もう1週間も気を失っていらっしゃったんですよ」

「1週間!? そんなに!?」


 ジュリアは驚いた。

 どうりで体が上手く動かない訳だ。


「ええ。ですが彫像の倒れる位置がズレていたのは不幸中の幸いでした。きちんと2か月は安静にして、それから訓練すればまた歩けるようになるとのことです」

「そう……良かったわ」


 ジュリアは安堵のため息をつく。

 彫像の倒れ方によっては、2度と歩けなくなっていただろう。

 いや、もし頭の上に倒れていたのなら、命も危うかったに違いない。

 九死に一生を得たとは、まさにこのことだ。


「ガウス様を呼んでまいりますね。酷く心配していらっしゃいましたから」


 カンナは笑顔を見せると、一礼して部屋から出ていった。

 ジュリアははぁと息を吐き出す。

 本当に危ないところだった。生きているのは奇跡に近い。

 少し頭を上げて毛布をめくり、折れてしまったという自身の脚を見ると、両脚ともギプスが嵌められている。

 なかなかに痛々しい姿だった。



 すると部屋の外からバタバタと人の走る音が聞こえたかと思ったら、バンッと激しい音を立てて扉が開いた。

 現れたのは、予想通り、ガウスだった。


「ジュリア!!」


 ガウスがまるで泣き出しそうに顔を歪めて、ジュリアに駆け寄った。

 そしてそれまでの勢いが嘘のように、そっと優しくジュリアの手を取った。


「良かった……。このまま目を覚さないかと……。どこか痛いところはないか? この指は何本に見える? 倒れる前のことを覚えているか? 脚は痛まないか? 俺の声はきちんと聴こえているか?」

「ガウス様。そんなに質問攻めにされては奥様が困ってしまいます。一つ一つゆっくりお願い致します」


 カンナは非難するような目でガウスを眺めた。


 ジュリアはきょとりとする。

 ガウスの様子にも驚くが、カンナがそんな表情をガウスに向けるのも驚きだ。


「……そうだな。すまなかった。ジュリア、今痛いところや不快なところはないか?」

「いえ、大丈夫ですガウス様。脚も動かさなければ痛みは感じません。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

「何を言う! ジュリアは何も悪くないだろう! まさかエマがあんなことをするとは……。……いや、元はと言えば俺の責任だな……。すまなかった……」


 そう言ってガウスは肩を落とした。


(なんだろう……まるで垂れた耳と尻尾が見えるようだわ……)


 今のガウスは完全にしゅんとしていて、まるで捨てられた子犬のようだ。あの飢えた獣のようなガウスはどこに行ったのだろう。

 少しガウスが可愛く見えた。


「運良く訓練すれば歩ける様になるとのことですし、大丈夫です。しばらく動けないのは辛いですが……。あ、ガウス様。商会の方は大丈夫でしょうか? あの……事務所の方は行っていらっしゃらないのですか?」


 カンナが呼びに行って、ガウスがやってくるまでの時間が早すぎることが気になった。

 ガウスは事務所に行っていないのだろうか。


「大丈夫だ。仕事の資料を全部こちらに運んでやっている。いつジュリアが目を覚ますか分からなかったからな。もう、商会の仕事を放り投げたりはしない。安心して欲しい」


 そう言ってガウスは、ジュリアの瞳を真っ直ぐと見つめながら、手を握りしめた。

 2つの金の瞳に見つめられると、ジュリアは何だか落ち着かない気持ちになる。

 ジュリアは視線を逸らした。


「そうですか。それなら、安心です」

「確かに君の抜けた穴は大きいが、幸運にも今事業は落ち着いてきている。なんとかやるさ。ジュリアは自分の体を第一に考えて、ゆっくり休んでくれ」

「はい……ありがとうございます」


 ジュリアはくすぐったい気持ちになった。

 ここまで真っ直ぐに肯定され、優しくされると、どうしていいか分からない。


「……申し訳ありませんガウス様、医者を呼んで参ります。奥様をよろしくお願い致しますね」

「ああ。頼んだぞカンナ」


 カンナはそう言って部屋を出て行った。

 ガウスと2人きりになり、ジュリアは思い切って問いかけた。


「あの……エマはどうなったのですか。今どこに?」


 ジュリアの口からエマの名前が出ると、ガウスは憎々しげに顔を顰めた。

 それは、かつてジュリアによく向けられた表情だった。


「エマは解雇した。一歩間違えばジュリアの命が危なかったんだ。当然だろう。またジュリアに危害を加えられては堪らないからな、遠方に送った」


 そう言ってガウスはジュリアの頬に手をやり、微笑んだ。


「だから心配しなくていい。もう君に危害を加える人間はいない。ああ、ルーナも商会の売り子に戻らせたんだ。……遅くなってすまない。もう決して不誠実な真似はしないと誓おう」


 ジュリアは目が零れ落ちそうなほど見開き、ガウスの手を振り払うことも忘れて驚愕した。

 まさか自分が意識を失っている間に、そんなことになっていようとは。

 心にぞわぞわと不快感が広がる。


「だが、それでは使用人の数が足りていない。今度、何人か候補を連れてくるから、ジュリアの気にいる者を選んでくれ」

「ガウス……様……」

「ああ、すまない。起きて早々に長く話しすぎたな。急に色々言っては疲れてしまう。さあ、ゆっくり休んでくれ」

「は……い……。ありがとうございます」


 ガウスはジュリアの頭をそっと撫で、微笑みを浮かべたまま、静かに扉を閉めた。



 ジュリアは考える。

 この不快感の正体は何なのか。


 エマは最も長くガウスの愛人をしていたと、カンナから聞いていた。元は酒場の売り子をしていたエマを、たまたま立ち寄ったガウスが気に入り、エマもそう望んだため連れてきたのだという。

 それからかれこれ5、6年、エマは愛人としてこの屋敷で暮らしていた。

 エマがこの屋敷に来た時は、まだ10代だったという。女として貴重な時間を、この屋敷の中で過ごしてきたのだ。ガウスを慕って。


 だからと言って暴力は許されないし、ジュリア自身エマに言ったように、本妻と同じ屋根の下でよくもあのような恥知らずな行動が出来るなと思う。

 けれどきっと、その全てはエマだけの責任ではない。

 ガウスは「すまなかった」と言ったが、それはジュリアに対してだけだろう。エマをあそこまで追い詰めたのは、ガウスなのに。


 ルーナにしてもそうだ。

 急に売り子に戻されて、上手くやれるものだろうか。かつて売り子を辞めた時の蟠りはないのだろうか。

 屋敷から出て行かせるにしても、急すぎる。きちんと準備が整っていたとは思えない。


 愛人を妻のいる家に置くなど、正気の沙汰ではない。愛人関係を清算するなら、もっと前にするべきだ。

 これまで彼女たちの人生を独占しておきながら、急に手放したガウスに、逆に不誠実さを感じてしまう。

 彼女たちはこれからの人生、どう過ごすのだろう。



(こんなふうに考えるなんて……私ってお人好しなのかしら。殺されかけたっていうのに)


 ジュリアは目を閉じる。

 急に色々なことを考えて、頭が重たい。

 カンナが医者を連れてくるまで、そのまま横になって休んだ。








 パタンと扉を閉めて、ガウスはジュリアの私室から出てきた。


 先程、ジュリアはカンナが連れてきた医者の診察を受けたところだ。医者の話では、頭を強く打った割には今のところ問題は見られないとのことだった。

 両脚の骨折はかなりの重症だが、やはり障害が残るようなことはないだろうという。


 ガウスは安堵のため息をついた。


「本当にようございました。奥様が目覚めない間、このスチュアートも気が気ではございませんでしたよ」

「ああ、そうだな。もしジュリアがこのまま目覚めないようなら、エマの顔を引き裂いてやるところだった」


 ガウスは憎々しげに吐き捨てる。

 かつては愛でたこともある女だったが、浅はかで短慮で、思い上がった女だった。

 それでも側に置き続けたのは、その身体が魅力的だったことと、ガウスを求める姿が心地良かったからだ。

 他の愛人たちは、ガウスを「クルメル商会の会頭」と知った上で男女の仲になったが、エマは違った。エマは酒場にやってきたガウスを、ただの男として気に入り、そして愛人になったのだ。

 肩書きなしの、ただの男として求められることが嬉しかった。

 そんな自分が愚かだったのだ。

 あの嫉妬深いエマなら、いつこの様な事件を起こしてもおかしくなかった。

 ガウスは自分の浅慮さを嘆いた。




「ところで……ガウス様。あの話は一体いつ奥様に話される予定ですか?」

「ああ……そうだな……」


 スチュアートの言葉に、ガウスは一気に暗い表情を見せる。

 あの日、ジュリアが階段から落ちる直前に、スチュアートから聞いた話。それはあまりにも衝撃的で、ガウス自身、酷く胸が痛む悲しい話だ。


「ジュリアは今日目覚めたばかりだ。まだ、伝えるべきではない。体に障ってしまう」


 ガウスは悩む。

 一体ジュリアに、なんと伝えればいいのか。


「マレーナさんが亡くなり、まさか……あのジョシュアが、件の男爵令嬢を手に掛けるとは……」


 ガウスは思わず頭を抱えたくなった。

 ガウスの口から、ジュリアに残酷な真実を伝えなければならない。

 その事実が恨めしい。


(ジョシュア……お前は何故……)


 ガウスは金の瞳を手で覆い、大きくため息をついたのだった。

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