第42話

 

「ジュリア。今日はまだ時間がある。食後に中庭で茶でも飲まないか」

「……ええ。畏まりました」

「茶請けにポルボロンを出させよう。好きだろう?」

「はい。ありがとうございます」



 朝食後のひと時を、ガウスとジュリア2人で和やかに過ごす。2年前には考えられなかった光景が、ウォルナット家には広がっていた。



 アンブルの内乱が終結し、徐々に物流が正常化して日常を取り戻してきた。

 最近になって、ガウスはジュリアと食事を共にするようになった。朝など、わざわざジュリアの自室に迎えに来て、食堂へとエスコートをするくらいだ。



 動乱の中で、確かに2人には信頼関係が出来上がった。

 ジュリアは会頭代理を返上し、代わりに臨時の副会頭となった。相応しい人材が見つかるまでの暫定措置だ。

 ガウスとジュリアは2人力を合わせ、必死に働いた。ただがむしゃらに働いた、という表現以上に、この2人の2年間を表す言葉はないだろう。昼も夜もなく働き、2人は同志とも言える信頼関係を築いた。


 だからジュリアは、会頭と副会頭という立場であれば、いくらでもガウスと話すことが出来る。

 けれど、夫と妻、という立場になると、ジュリアは何も話せなくなってしまう。


 夫婦として、ガウスとジュリアが築いたものは、何もなかったから。



 先日ガウスから、ジュリアの部屋をガウスの隣の部屋、つまり本来の妻の部屋に移そうと提案されたが、ジュリアは辞した。

 中庭がよく見える今の部屋を気に入っているのもあるし、あと数か月で出て行く身で、わざわざ部屋を替える必要性を感じなかったからだ。

 ジュリアが断りを入れると、ガウスはまた傷付いたような悲しげな顔をした。



 どういう訳か、今になってガウスはジュリアに夫婦としての関係性を求める。

 愛人たちと会うこともやめ、まるで誠実な夫になったかのようだ。


 今更。


 ジュリアはそう思う。

 3年経てば、2人は離縁するはずだ。あと残された期間は半年もない。今から2人がどうこうなるには、あまりに色々なことがありすぎた。

 ガウスが何故そのような態度をするのか、ジュリアには分からない。

 だからジュリアはガウスが夫の顔をする時、冷めた気持ちでそっと一歩引く。するといつも、ガウスは悲しげに傷付いた顔をするのだ。





 ガウスと2人、中庭でお茶を飲む。

 トビーの作ったポルボロンを口に含むと、ジュリアは自然と顔が綻んだ。


「やはりジュリアはそれが好きだな。実に幸せそうな顔をする」

「あっ、つい……。お恥ずかしい限りです」

「いや、いい。そんなに好きなら、商会にも少し持っていこう」

「本当ですか? 従業員たちも喜びます。甘党が多いですわよね、我が商会は。マシューさんなどしょっちゅうお菓子を持ってきて」

「違う。食べるのはジュリアと俺だけだ。他の従業員にはやらない」


 ジュリアが言い終わらないうちにガウスはそう言って、不機嫌そうに紅茶を一気に流し込んだ。

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。ジュリアは何か悪いことを言ってしまったかと首を傾げる。


(もしかして、他の男性の話題を出したから……? いえ、まさかね……)


 つい先程まで機嫌良さそうに紅茶を口にしていたのに、あまりの落差に戸惑うしかない。


「さあ。もう行くぞ。準備しよう」

「ええ、分かりました……」


 荒々しく立ち上がるガウスの後について、ジュリアは中庭を後にする。

 それでも以前のように小走りで追いかける訳ではない。ガウスはちゃんとジュリアのペースに合わせて待ってくれている。ゆったりとジュリアはガウスの隣へと向かい、肩を並べて歩き出した。



 ジュリアはその時気付かなかった。

 そんな2人を、射殺さんばかりに睨みつける、黒い瞳に。








 その日の夜。

 ジュリアはガウスと共に商会から帰宅した。

 最近ではジュリアの私室の前までガウスがエスコートをするのが常であったが、その日はスチュアートと話すことがあったようで、先に自室に戻るよう言われた。

 ガウスがジュリアの額にキスしようとするのをするりと躱し、就寝の挨拶をする。

 ちらりとまたガウスの傷付いた顔が見えた気がしたが、見て見ぬふりをして、ジュリアは1人スカートを摘みながら階段を登る。


 すると、2階と3階の踊り場に、エマがいた。



「……あんた、馬鹿にしてるんでしょう?」

「え?」


 腕組みをしながら憎悪のこもった瞳で睨み付けるエマに、ジュリアは首を傾げる。

 この1年ほど、エマとはまともに顔を合わせていなかった。

 アンブルの内乱が治るまでは商会のことで慌ただしく、まともに屋敷でゆっくりすることもなかったし、ここ最近は避けられていたのか見かけなかった。だから、ジュリアはエマが何を言っているのか分からなかったのだ。


「馬鹿にって、あなたのことを? それこそ馬鹿げたことだわ。何故私が?」

「ハッ! お前のことなんて目にも入らないということ? 余裕なのね。どうやったのか知らないけれど、よくガウス様を籠絡したわね。ティンバーでやっていたように、体で迫ったのかしら? 随分と床上手だったのね。さすが売女は違うわ」


 エマのその態度に、さすがのジュリアも腹が立った。


「何か勘違いしているようだけれど、ガウス様とは何もないし、今まで一度もそんな恥知らずなことはしたことないわ。それに、本妻と一つ屋根の下にいるのに、堂々と夫の寝室に行くような愛人がよく言うわね」

「ッこの!!!」


 エマがジュリアの髪を鷲掴みにする。

 ジュリアはあまりの痛みに涙が滲むのを感じた。


「痛い!! 何をするの!?」

「婚約破棄されて家族にも捨てられた傷物のくせに!! 何故あんたなの!? ガウス様は今まで一度も特別を作らなかったのに! あんたさえ居なければ!!」


 エマは悪鬼の形相でジュリアの髪から指を離したかと思うと、渾身の力を込めて、ジュリアを突き飛ばした。



 落ちる。


 ジュリアはそう思った。

 足が踏み板から離れ、宙に浮く。

 まるで時間が急にゆっくりになったように感じた。

 ジュリアはエマの憎悪の浮かんだ顔を眺めながら、徐々に落ちていく。


 途端、激しい痛みが全身に走った。


 ジュリアは見た。

 2階の階段ホールに置かれていた大理石の彫像が、ゆっくりと自らの上に落ちてくるのを。



 そして、ジュリアの視界は暗転した。

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