第38話 sideガウス

 

 ガウスはあの事件以来、漠とした靄の中にいる気分だった。

 人はあまりに信じられないことが起きると、理解するのを放棄するのかもしれない。周りでたくさんの人が色々と言っていたけれど、全てガウスの耳を通り過ぎて行った。




 ガウスがユアンと初めて出会った時、その仕事ぶりに感嘆した。的確かつ端的に、そして物腰柔らかく指示を出す様は、ユアンの有能さを如実に語っていた。

 そして何より、ユアンは一人で立っていた。もちろん物理的な話ではない。ユアンはただユアン自身を信じ、自分だけの力で生きているように見えた。

 まだ成人したての若者で、頼るべき両親の居ないガウスにとって、その姿に憧憬しょうけいを感じたのだった。


 だからガウスはユアンを地方の店舗から引き抜き、自分の側に置いた。

 最初は遠慮していたユアンも、徐々に打ち解け、いつの間にかガウスの兄のような存在になっていった。




 ガウスは弱い男だ。

 見た目の力強さと裏腹に、とても弱い男だ。

 ガウスは1人で立つことは出来ない。常に誰かが側で支えてくれなければ、立っていられない。代わる代わる隣にいる女たちは、いっときの慰めにすぎない。

 しかしユアンは違った。

 ユアンはまさしく、ガウスの支えそのものだった。



 けれどガウスはそれを表面に出すことはなかったし、ガウス自身が正しく認識していたとも思えない。

 ガウスは弱い故に、自身の弱さを認められない男だった。






 しばらく事務所で寝泊まりし、いつの間にかスチュアートに連れられ屋敷に帰ってきた。

 ガウスはただ自分の殻に引きこもり、漠とした靄の中で膝を抱えていた。



 ユアンが、自分を裏切った。



 そんなことは信じられないし、信じたくもなかった。

 やはりそんなことは間違いで、ユアンは誰かに嵌められたのかもしれないと思った。けれど時が経つにつれ、ぽろりぽろりとユアンの罪の証拠が見つかる。

 無常にも、スチュアートはその事実を日々報告する。ガウスはその声も耳に入らなかった。

 いや、入らないように心を閉ざしたと言うのが正しいだろう。ガウスは、自分が何か黒いものに飲み込まれていく感覚を覚えた。



 自分は裏切られたのだ。

 他でもない、ユアンに。



 2人でクルメル商会の展望を語り合ったあの日々は、虚構でしかなかった。

 ガウスは空っぽだった。

 ガウスの中には、ただ空虚な穴が広がっていた。




 どれくらいの時間が経っただろう。

 ある日ガウスは、夜になると声が聞こえることに気が付いた。それまで全ての声に耳を塞いできたガウスだったが、その声が妙に気になった。

 扉越しでくぐもっているが、それでもよく通る美しい声だ。

 最初は声がする、というだけで内容はよく分からなかった。だが1日、1日と過ぎるうちに、徐々に靄が晴れていくように、次第に明瞭になっていった。


(ジュリア……そうだジュリアだ……)


 あまりの衝撃で、すっかり忘れていた。

 ジュリアという、己の妻の存在。



「ガウス様。新しくしたオリジナルブランドですが、じわりじわりとではありますが業績が上がっています。従業員が減ってしまったのは残念ですが、人件費が減ったのは良かったかもしれません。今残ってくれている従業員たちを、辞めさせたくはありませんから」


 ガウスは耳を傾ける。

 本来は自分がしなければいけないことだ。

 分かっている。

 だが何もする気が起きない。

 けれど、ジュリアはやっている。自分でも酷い扱いをしていたことは自覚しているのに。

 ジュリアが来てから、まだ1年も経っていない。クルメル商会に強い思い入れがある訳でもないだろう。


(何故……何故ジュリアはここまで出来るんだ……)



 毎晩聞こえるジュリアの声を、ガウスは楽しみにすると同時に耳を塞ぎたくなった。

 ジュリアの美しい声を聞きたい。けれど話は聞きたくない。

 思考がクリアになっていくのと比例して、後ろめたさが膨らんでいく。


 自分は彼女に何をしただろう。

 ユアンが怪しいという彼女の言葉を、ほぼ反射的に否定して、手を上げた。


 そう、ガウスは自分でも自覚し始めていた。

 ユアンの怪しい動きに、ガウス自身気付いていたのだと。けれどその疑惑から目を背けた。まさかユアンがそんなことをするはずがないと。

 結局、ガウスは何も分かってはいなかったのだ。


 もう部屋から出なければならないと分かっている。けれど、ジュリアと顔を合わせるのが怖かった。ガウスはユアンという支えを失い、すっかり臆病になっていた。




 ガウスが部屋に引きこもってから、2か月。


 ガウスの身の回りの世話はスチュアートやマルタが行っていた。

 少しずつ動くようになったものの、当初は放っておくと、食事も摂らなければ風呂にも入らない始末だったのだ。

 ガウスは自尊心が高い故に、身なりには人一倍気をつかう質だった。自分自身の見た目が人に与える印象を熟知していたし、武器として使えるものだと自負していた。

 しかし今や、かつての姿は見る影もない。

 髪は整えられず、髭も生やし放題。鍛えられていた肉体も、ずっと動かずにいたためほっそりとしてしまっていた。

 徐々に靄が晴れていくのと比例して、自身の見た目が気になってきた。それ故に、エマやルーナにも姿は決して見せなかった。

 こんな姿は誰にも見せられないとは思うのに、ではどうにかしようという気は起きなかった。




 ある晩。

 ジュリアの就寝の挨拶を聞いてからしばらくした後。

 もう深夜という時間に、スチュアートが部屋に入ってきた。


「ガウス様。そろそろお部屋から出ませんか。中庭などどうでしょう。気分転換になりますよ」

「……もう遅いだろう。今日はいい」

「いいえ、今日はとても月が綺麗な夜ですよ。それに夜ならば身支度もいらないでしょう。さあ」


 確かに、夜ならば見た目は気にしなくていいだろう。マフラーとガウンを着込めば、誰にも見られまい。


 ガウスは徐々に動かなければという焦燥感が生まれていた。

 確かに慣らしていくには、ちょうどいいかもしれないと思った。そしてスチュアートの誘いに乗ることにした。



 約2か月ぶりに自室から足を踏み出し、階段を降りる。

 それだけの動作で、息が上がる。かなり筋力が落ちてしまったようだ。

 中庭へと続く扉を開け、庭に出る。

 すると、思った以上の爽快感があった。


「少し前に庭師が変わったので、また違う雰囲気で気分転換になるのではないですか。トビーは前の庭師と仲良くしていたようで、寂しがっていましたが」

「……そうか」


 確かに、どことなく庭の雰囲気が違うように感じる。

 ガウスはハーブやスパイスには造詣が深いが、観賞用の花には疎い。言われてみればという程度に納得しながら、辺りを見回す。



 ふと、南棟3階の端の部屋に目をやる。

 そこには、ジュリアの姿があった。


 ガウスは非常に驚き、咄嗟に顔を隠す。

 が、どうやらジュリアはガウスに気が付いていないようだ。

 庭の奥の方をじっと見つめ、微動だにしない。


(こんな時間に……どうしたんだ……?)


 ガウスは一歩一歩と歩を進める。

 気付かれないよう慎重に、けれどジュリアから目を離さずに。


 そして、気が付いた。

 ジュリアが涙を流していることに。


 月明かりがジュリアの顔を照らし、涙に反射してキラキラと輝いていた。

 ガウスは目が釘付けになった。



 美しい、と。

 素直にそう思った。



「奥様は時折、夜に中庭を眺めては、涙を流していらっしゃいます。奥様も、お強いばかりではございません」


 囁くような小さな声で、スチュアートは言った。


 ジュリアの涙の理由は分からない。

 しかし、毎晩ガウスの部屋の前で明るく話す女と、あれは同じ女だろうか。


(ああ……俺はただの愚か者だ……)



 自分だけが辛い気持ちでいた。

 悲劇の主人公になったつもりで、ただ甘えていただけだった。


 ジュリアとて、何があっても傷付かない頑強な心を持っているわけではない。

 弱さを持つ人間なのだ。

 自分と、同じように。



 ガウスは、悟った。

 自分の我儘、愚かさ、弱さに。



「……部屋に戻る」

「ガウス様……」


 ガウスは一言そう告げると、ガウンを翻し屋敷の中へと戻った。

 階段を登り自室に着くと、息が上がり膝が笑っている。たった1階分登り降りしただけでこれでは、仕事をするどころか、事務所まで辿り着けないかもしれない。


「……俺はあまりに動かなすぎたようだ。明日から、外に出る」

「っ本当ですか!」

「体力と筋力を付ける。トビーにメニューを考えてもらってくれ。それから、屋敷で出来る商会の仕事を出来る限り持ってこい。…………遅れを取り戻さなければ」

「はい……! 畏まりました」


 ガウスの見た目は酷いままだ。

 しかし、その金の瞳は、以前のように獣の如く光を灯していた。




 ガウスはそれから、筋力の回復と現在の商会の状況把握、そして事務仕事に明け暮れた。

 マルタなど、ずっと動かないでいたところに急に動き出しては、かえって体に悪いと反発したほどだ。

 しかしガウスは焦っていた。

 早く現場に復帰し、1日も早くジュリアの負担を減らさなければならない。

 調子の良い時は、顔をフードで隠しながら店舗まで歩いて行ったこともある。店舗でのジュリアは、あのよく通る明るい声で何事か話していた。従業員の人数は減ったようだが、残った者はジュリアの言うことをよく聞いている。


(ジュリア…………)


 ガウスはゆっくりと邸宅に帰り、またトレーニングと作業を開始する。

 ガウスは必死だった。


 その間、見た目が元に戻ってきてもなお、一度もエマやルーナを自室に呼ぶことはなかった。




 1か月後。

 マルタの強い勧めで医師の診察を受け、心身共に仕事に復帰できるだろうとの診断が降った。

 ガウスはついに、商会へ赴く日を迎えた。

 全く以前の通りとは行かないまでも、かなり筋力は回復し、商会の状況と対策も頭の中に入っている。


 ガウスは逸る気持ちを抑えながら、商会へと向かった。




 店舗へ顔を出すと、店長が驚いた顔でガウスを見つめた。


「ガウス様……!」


 他の従業員たちも驚いてガウスの顔を見つめる。

 しかしその目には、以前にはなかった問い詰めるような色が滲んでいる。

 当然だ。

 ガウスは商会の従業員たちの信頼も、これから回復していかなければならない。


「お前たちに言わなけれならないこと、謝罪すべきことがたくさんあることは分かっている。だが……まずはジュリアの所へ。彼女は今どこだ」

「……今は3階でマシューと作業中です」

「分かった」


 そう言ってガウスは店を出ようとする。


「会頭!」


 徐に店長が声をかけた。

 ガウスが振り返ると、店長はあの大きな腹を突き出して、言った。


「おかえりなさい。これから大変ですよ!」

「……ああ」


 ガウスは口角を上げて、答えた。



 昇降機を動かし、3階へと向かう。

 ジュリアが居るという部屋の前で、ドアノブに手をかけたまま、ガウスは深呼吸をした。

 ガウスは緊張していた。

 ジュリアに会ったらどんな顔をすれば良いのか、何を言えば良いのか、そして何を言われるのか分からなかった。



「あんたは、幸せ?」

「それは……」


 中からジュリアとマシューの声が聞こえる。

 ガウスは思わず耳をそばだてた。


「もしあんたが幸せじゃないと思ってたら……。俺、あんたが笑ってなきゃ嫌だ」


 マシューのその声色を聞き、ガウスは全身の血が沸騰するように感じた。

 ガウスにとって、生まれて初めての経験だ。


「だから……その……俺と……」


 これまでたくさんの女と過ごしてきた。けれどガウスは女に執着したことはなかった。

 女は移ろい行くものと知っていたから。

 だからその感情が、『嫉妬』と呼ばれるものだと気付かないまま、扉を開けた。


「マシュー、心配は無用だ。夫婦のことは夫婦で決める。俺の妻の心配は無用だ」


 3か月分ぶりにジュリアの前に姿を現したガウスは、独占欲以外の何物でもない感情をむき出しに、言葉を放ったのだった。

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