第37話

 

 翌朝。

 ジュリアは朝食もそこそこに、事務所へと向かった。

 既に慣れたものとなった昇降機を操作して、ガウスの執務室へと向かう。扉を開けると案の定、ガウスがソファでぼんやりとしていた。

 髪はボサボサで、きっと王都に帰ってきてからずっと風呂に入ってもいないのだろう。

 無精髭を生やし、魂が抜け落ちたように佇む様からは、普段の飢えた獣のような鋭さは微塵も感じられない。


「ガウス様。しっかりしてくださいませ」


 ジュリアが毅然とした声でそう告げると、のろのろとした動作でガウスがジュリアを見つめた。


「ガウス様にとってヒッコリー様が大事な方だったのは分かります。彼の裏切りに、心を痛めていらっしゃるのも当然でしょう。ですが、あなたはクルメル商会の会頭です。やらなければならないことがあります。商会の従業員の人生は今、あなたの腕にかかっています。

 もしも今、あなたがどうしても動けないというのなら、私を臨時の会頭代理としてくださいませ。絶対に、クルメル商会をこのまま終わらせは致しませんわ」


 ジュリアは真っ直ぐガウスの目を見つめて言った。


「……好きにしろ」


 ガウスはそんなジュリアを焦点の定まらない目で見返した後、ぽつりと言った。

 ジュリアはガウスの言葉に、大きく頷いた。



 ジュリアはその場で、ジュリアを会頭代理とする正式書類を作成し、どうにかガウスにサインをさせた。自身もサインをし、その足で必要書類を携え商会組合へと提出しに行った。

 書類が受理されれば、一定期間会頭代理が会頭と全く同じ権限を有する事ができる。


 書類が受理された頃には、すでに夕方になっていた。


 ジュリアは急ぎ商会の店舗へと急ぐ。

 会頭代理になったからには、ジュリアがガウスの妻であることを隠しておくわけにはいかない。


(マシューさん……きっとびっくりするわね……)


 ジュリアは心が重たくなった。

 決して騙そうとしてついた嘘ではないが、罪悪感が胸いっぱいに広がる。

 それでもやらなければならない。

 今、クルメル商会を背負っているのは自分だ。


 ジュリアは店舗の前に着くと、一つ大きく息を吸い込んだ。

 そして、意を決してドアを押し開けた。


「っ! 何かあった!? どこに行ってたの」


 心配してくれていたのだろう。

 マシューが駆け寄ってきた。ジュリアはまた申し訳なさが募る。

 しかし、もう決めたことだ。

 いつもマシューたちの前でしていた町娘のような話し方ではなく、元の口調に戻して話し出した。


「遅れてしまい申し訳ありません。けれど、マシューさん、そして皆さんにお話がありますの。上の事務所の方々も呼んでいただけます?」


 ただでさえ客足がなくなる時間帯だ。

 店内には1人も客が居なかった。

 ジュリアは早めに店を閉め、事務方の従業員も全員集まったところで、口を開いた。


「私は、皆さんに黙っていたことがあるのです。

 私の名前はジュリア・ウォルナット。

 ガウス様の妻ですわ」


 ジュリアがそう告げると、一瞬全員がきょとりとした後、皆一様に驚きの声を上げた。

 マシューなど、開いた口が塞がらないといった様子で呆然としている。


「今まで隠していてごめんなさい。もし真実を伝えたら、きちんと仕事をさせてもらえないと思ったの。けれど、もうそんなことは言っていられないわ。ガウス様が動かれない今、誰かが商会を背負わなければ。今日正式に、組合に会頭代理の書類を提出したわ。今日から私が会頭の権限を行使します。絶対にこのままクルメル商会を潰したりはしないわ。決して楽ではないけれど、どうか私に力を貸して」


 ジュリアは祈るような気持ちで皆を見つめる。

 驚きから立ち直れない者、隣の者と囁き合う者、皆それぞれだ。

 しかし、誰もが答えを返さない。

 当然だ。

 急にそんなことを言われても、戸惑うなと言う方が無理だろう。


「戸惑うのは分かる。急に言われても困るわよね……。もしもクルメル商会を去りたい人が居れば、私は止めないわ。それぞれの人生だもの。きちんとこれまでの分の給料も支払うようにするから、心配しないで。けれど、もしも残ってくれるなら……私はあなたたちのために誠心誠意働くと誓うわ」


 それまで騒然としていた店舗の中が、しんと静まり返る。

 しばらくして、1人、また1人と店の外へと去っていく。

 ジュリアは思わず口をキュッと引き結んだ。


(当たり前よ。急にただの町娘だと思っていた小娘が、会頭代理だなんて言ったって、信用されなくて当然だわ)


 ジュリアは落ち込んだ。

 予想されていたこととは言え、自分の無力さが憎らしい。やはり自分では駄目なのだろうか。

 そう思った時、それまで無言だったマシューが、口を開いた。


「……で、俺たちは何をやれば?」


 相変わらず表情は見えない。

 けれど、しっかりとジュリアを見つめていることを感じる。


「付いてきて、くれるの……? マシューさん」

「聞きたいことはたくさんあるけど。でも、俺はあんたを信じる」


 マシューが、しっかりとした口調で告げる。

 すると、それに続いて幾つかの声が上がった。


「まぁ、あんたの見る目は確かだし。話してて頭がいいんだろうなぁというのは分かったしな。俺は残るよ」

「正直信じる信じないは分からないけれど、私はここ以外に行くとこはありませんし……」

「どうせ沈みかけの泥舟だ。あんたに託すよ」


 場の空気が一つに纏まる。

 皆、一様に笑みを浮かべている。


「ありがとう……ありがとうみんな……」

「感謝は後。俺たちに指示して。でも自分だけでやろうとしないで。俺、あんたの先輩だから」


 マシューはジュリアの頭をぽんぽんと優しく叩いた。それはまるで、初日に泣いてしまったジュリアを慰めてくれた時のような、優しい仕草だった。

 ジュリアは思わず涙が溢れそうになった。

 それをグッと我慢して、意を決して前を向く。


「みなさん! これからが踏ん張り時です! 頑張りましょう!」




 それから、ジュリアは怒涛の如く働いた。

 まず偽装問題の前後で付き合いを変えなかった貴重な顧客は、最も最優先事項として考えた。そうした顧客が多く残る地方の店舗をメインに稼働させることとし、王都の本店は付き合いのある顧客への販売以外、一時閉鎖することにした。

 オリジナルブランドの製品は、ブランド名、パッケージデザイン共に一新し、前の印象から少しでも脱却することを図った。

 同時に、ハーブやスパイスの産地、収穫日、封入日などをラベルに記載し、信頼のおける製品であるということを全面に押し出していく。

 地方では自店舗に置き、王都では別の商会の店頭にマージンを限りなく低くした状態で新ブランドの商品を置かせてもらい、本来の質の良さを再度確認してもらおうという作戦だ。


 それにあたって、ジュリアはまず休職中だった本店の店長を復帰させた。

 そしてジュリアは、店長に頭を下げた。

 確かに証拠はあったものの、現在はそれはユアンに偽装されたものであることが発覚している。無実の罪で疑われる辛さは、誰よりも分かっているジュリアだ。

 誠心誠意謝罪をし復帰を願うと、店長は複雑な顔を浮かべながらも、一つ頷いて商会に戻ってくれたのだった。

 いわば店長は、クルメル商会の幹部の1人だ。店長が再度商会に戻ってくれたことは、大きな力になった。






 ジュリアが会頭代理を務め始めて、早3か月。

 季節は秋が終わり、冬が始まった。

 ジュリアはあの日以来、ガウスに会って居なかった。

 ガウスはもう事務所では寝泊まりしていない。スチュアートに連れられて、今は家に居る。しかしジュリアが毎晩遅く、そして朝早く出かけるために顔を合わせない。それどころか、部屋から出て居ないようだ。

 ジュリアは毎晩、寝ているだろうと思いながらも、ドア越しにガウスに就寝の挨拶に行く。そしてその日あった些細なことを話すようにしていた。

 なんの返答もありはしない。けれど、ジュリアは話すのをやめなかった。


 一度、カンナに「まだ続けられるのですか」と聞かれた。

 その時に答えたのだ。

 いつかガウスが乗り越えられるまで、続けるのだと。





 その日、ジュリアはマシューと2人で新ブランドの売り上げ状況を確認していた。少しずつではあるが、徐々に売り上げが回復している。

 ジュリアは笑顔になった。

 ちなみに、ジュリアはマシューにそれまでと同じ態度で接してほしいと伝えていた。会頭代理だからと線を引かないで欲しいと。ジュリアにとって、マシューは商会の中で1番親しい人物だ。ビルほどではないけれど、心を許していると言っていい。そんなマシューによそよそしい態度を取られるのは、とても悲しいと思ったのだ。

 希望通り、マシューはそれまでと同じようにジュリアに接してくれる。ジュリアはマシューに助けられてばかりだなと自嘲した。



 ふと、マシューがジュリアを見つめていることに気付いた。相変わらず目が見えないのに、視線を感じるとは不思議だ。


「どうかしましたか? マシューさん」


 ジュリアは小首を傾げて尋ねる。

 マシューはふいっと視線を外した。


「……あんた、本当はさ。会頭のこと、好きだったの?」


 ジュリアは予想だにしない質問に面食らった。

 以前、ジュリアがガウスのようなタイプは好きじゃないと言ったことに対しての言葉だろう。


「いいえ……と言うと、妻としてどうかと思いますが……。私とガウス様は何も恋愛をして結婚した訳ではありません。私は以前婚約が駄目になってしまって……。ガウス様も妻を求めていたので、条件が合って嫁いできたのです。ガウス様と兄が友人で。なので、好きかどうかと問われると、答えに困ってしまいます。ですが、妻として出来る限りのことはしなければと思います」

「ふうん……」


 そう言ってマシューはしばし口を噤んだ。

 けれど今、マシューは何か考え事をしていることをジュリアは知っている。

 沈黙が続いた。


「あんたは、それでいいの?」

「え?」

「あんたは、幸せ?」

「それは……」


 ジュリアは思わず言い淀んだ。


 今、自分は幸せか。

 そう問われると、どうしても首を縦に振ることができない。かといって不幸せかと言われると、それも違う気がした。

 例え夫に顧みられずとも、例え紡ぎ始めた信頼を打ち壊されようと、商会が窮地に立たされようと、それを以て不幸だと言うのは、違う気がした。


「もしあんたが幸せじゃないと思ってたら……。俺、あんたが笑ってなきゃ嫌だ。だから……その……俺と……」


 マシューは逡巡し、口籠もりながら言葉を紡ぐ。

 マシューが緊張していることが分かる。ジュリアまで釣られて心臓がバクバクし始めた。

 一体何を言うつもりなのか。


 マシューが意を決し、再度口を開いた、その時。




「悪いがマシュー、俺の妻の心配は無用だ」


 なんと、3か月ぶりに見るガウスの姿がそこにはあった。

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