第36話
事件から1週間が経過した。
クルメル商会の状況は、最悪と言っていい。
副会頭の犯罪が露呈、更に失踪というただでさえ混乱した状況の中、ユアンが商会の金銭をかなりの額持ち出していたことが発覚した。
ジュリアが懸念した通り、商会の引き出し名義人にユアンが名を連ねていたことで、加工工場から姿を消してすぐに金銭を引き出したようだ。
それは商会全体に、少なくない影響を与えた。
そして何より最も深刻だったのが、ガウスの落胆ぶりだった。
それまでのガウスは、人間性に疑問はあるものの、商人としては優秀でクルメル商会をしっかりと牽引していた。
しかし、ユアンが姿を消した後のガウスは抜け殻だった。
この事態に最も迅速かつ真剣に取り組まねばならないガウスが、ほとんど機能していなかった。
結果ジュリアの指摘通りだったことも、そのジュリアに手を上げたことも、ガウスの中では些細なこととされているように見えた。
帰路の馬車では、ただ一言。
「……お前の言う通りだったな」と呟き、それ以外一切口を開かなかった。
そこにはただ絶望があるだけで、ジュリアへの感情は何も見えなかったのだ。
王都に戻ってからガウスは家に帰らず、事務所で寝泊まりをしている。その割に行動している訳ではない。ただ事務所のソファーで、頭を抱えているだけだ。
ジュリアは憤っていた。
自分自身への仕打ちに対してではない。
ガウスの会頭としての姿にだ。
これが小さな個人商店であれば、周りに迷惑はかけるがそれでも許されるかも知れない。
しかしクルメル商会は違う。
いくつも店舗を抱え、従業員の数も多い。それだけ、ガウスの責任は重い。ガウスは今、とにかく動かなければならない。
けれどもっと腹が立つのは、当然ユアンだ。
仮にもクルメル商会の副会頭ともあろうものが、何と無責任で、何と非道なのだろう。
今すぐユアンの頬を張り、罵りたい気分だった。
王都に戻ってから、3日。
ジュリアはガウスの代わりに休みなく働き、疲弊していた。
ちょうどその日は満月だった。
ジュリアは中庭に出て月を見上げた。
あのキクの花を貰ってから、ビルとは会えていない。
ジュリアは普段、昼間は屋敷にいない。ビルもそう毎日夜遅くまで居るはずがないだろう。
けれど、もしかしたらまた会えるのではないかと、自然と中庭に足が向いてしまった。
(何を考えているのかしら……)
ジュリアは愚かな自分の行動に呆れてしまう。ビルに会ったからといって、どうするつもりなのか。
ジュリアが引き返そうとした、その時。
「奥様!」
振り返ると、待ち侘びた茶色いふわふわの髪が、そこにあった。
「ビル! 久しぶりね!」
「本当にそうですね! 俺も別のとこの仕事が忙しくて、こちらは他の庭師が入っていましたし……奥様もお忙しそうでしたからね」
「そうね。ビルの方は大丈夫なの?」
「ええ! 何とか区切りのつく所までやってこられましたから。それより……奥様は大丈夫ですか? その、親父さんから聞きました……大変な状況だと……」
「そう……。ええ、大丈夫よ。ありがとう、心配しないで」
「嘘をつかないでください!」
ジュリアが顔を上げると、真剣な色を放つ茶色い瞳とぶつかった。
真っ直ぐにジュリアの黒い瞳を見つめるビルの瞳から、まるで魅了されたように視線が逸らせない。
「奥様、大丈夫だなんて嘘をつかないでください。俺でも分かります。もうクルメル商会は泥舟だ。このまま乗っていたら、奥様まで沈んでしまいます」
「ビル! 駄目よそんなことを言っては!」
「奥様には一緒に沈む義理なんてないはずだ! 君を省みることのない旦那と辛く当たる使用人、商会の人間だってそう長く時間を共にした訳じゃないだろう!」
「ビル……?」
ビルの口調の変化に合わせて、雰囲気が変わっていく。
——今、目の前にいる男は、本当にビルだろうか。
整った顔の割に印象が薄く、穏やかで明るい。
それがビルの印象だった。
しかし今目の前にあるのは、しっかりと意志を持った瞳に真剣な表情。
強烈な印象を与える男がそこには居た。
顔の造作は何も変わっていないはずなのに、まるで別人ではないか。
「俺は! このまま君を放っておくことなんて出来ない。一緒に逃げよう。大丈夫、こう見えて苦労させないだけの伝手があるんだ。俺についてきてくれ、ジュリア!」
ビルはしっかりとジュリアの両手を握りしめた。
茶色の瞳がジュリアを捉えて離さない。
まるでそのまま瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「……好きなんだ、ジュリア。どうか、俺を選んで」
ビルは少し顔を歪め、切なそうに、懇願するようにジュリアに告げた。
ジュリアは混乱していた。
しかしそれ以上に、喜びが胸を満たしていた。
気付いていたのだ。自分の気持ちに。
ジュリアはビルに惹かれていた。
確かに接した時間は、とても僅かだ。
けれどいつものビルの隣にいると、まるで陽だまりの中にいるような温かさを感じた。
今のビルはいつものビルとは違うけれど、まるで花に引き寄せられる蝶のように、彼はジュリアを強烈に惹きつけた。
ビルが好きだ。
ビルも好きだと言ってくれた。
この手を取りたい。
この手を取って、今すぐここから逃げ去りたい。
ジュリアは自らの手を動かそうとした。
その瞬間。
マルセルの姿が浮かんだ。
このまま一生、共に人生を歩むのだと思っていた彼の、裏切り。恋していなかったとしても、それは酷くジュリアを傷付けた。
あの最後に見たマルセルの顔が、いつまでもジュリアの傷を抉る。
そしてガウス。
妻と同じ屋根の下で暮らしながら、いつも違う女を寝室に呼んでいるあの男。
いくら最近は態度が軟化してきているとしても、ジュリアに対する誠実さなど1ミリもない。
自分でも気付かないようにしていたが、それはジュリアを傷付けていたのだ。
(ここでビルの手を取ってしまったら、私も、彼らと何も変わらなくなってしまうわ。嫌でも私は、ガウス様の妻なのだもの)
ジュリアは静かに、自分の手を掴んでいたビルの手を、下ろした。
「ごめんなさい……」
とてもビルの顔が見えない。
今、彼はどんな表情をしているのだろう。
勝手に涙が溢れてくる。
「……そう……か」
「ごめんなさい……でも……ありがとう……」
「……わかった……。けど、もしも逃げたくなったら、この店に来て。詳しくは言えないけれど、これから世情が荒れる。ただでさえ苦境のクルメル商会では、きっと乗り越えられない。君は君の幸せを考えて。待ってるから」
ビルは薄く笑うと、小さな箱を取り出した。
ジュリアがそっと開けると、中にはクチナシの花を象った髪飾りが入っていた。
細工の裏に『宝花亭』と銘打ってある。
「さぁ、もう体が冷えてしまう。中に入りな」
「ビルっ……あの……もうここには来ないの?」
ジュリアは感じていた。
ビルの口ぶりから、もうこの屋敷には来ないのであろうことを。
「そうだね。もうここに居る必要はないんだ。やらなければならないことは終わったから」
「それはどういう……」
「君に言えないことがたくさんある。でも俺の気持ちは、嘘じゃない。もし君が会いたいと望んでくれたなら、また会えるよ。じゃあね」
そう言ってビル……いや、ロイドは、ひらりと身をかわして塀を乗り越えた。
ジュリアは慌てて塀に近づいたが、あっという間にロイドの姿は闇に紛れてしまった。
「ビル……あなたは一体何者なの……?」
ジュリアは塀越しに、ロイドの去って行った暗闇を見つめ続けたのだった。
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