第27話
夜。
ガウスは王都に近い他店舗からの連絡を待つため商会に残ることにし、ジュリアだけ帰宅することになった。
ジュリアはこれからのことを考えると、気が重くなる。
偽装は最も憎むべき犯罪の一つだ。真面目に仕事をしている生産者の思いを否定し、業界全体の風評被害を招きかねない。
ジュリアには、とても許すことのできないことだった。
既に外はとっぷりと暗くなり、月が頭上に輝いている。
夕食後、ジュリアはどうにもそのまま休む気にならず、1人中庭に降りた。
(今日は風が気持ちいいわ。これから段々涼しくなるわね……)
夏の最盛期から少しすぎ、夜風が気持ち良い頃だ。
ジュリアは先日も座ったガーデンテーブルの椅子に座り、ぼんやりと月を眺めながら、これからのことを考えていた。
「あれ、奥様。こんな時間にどうされたんですか?」
ジュリアがその声の主の方に顔を向けると、案の定、ビルが居た。
初めて会った時も夜遅くまで仕事をしていた。ジュリアには庭仕事のことはよく分からないが、そんなに遅くまでやる仕事が多いのだろうか。
「ビル、ご苦労様。あなたこそまだ仕事なの? ここの庭はそんなに厄介なのかしら?」
「ああ、いえ。今日は前の仕事に時間が掛かってしまって、ここに来るのが遅くなったんです。次来られるのがまた3日後なので、今日中に全部やってしまいたくて」
「そうなの。他にも色々な所で仕事をしているのね。庭師というのも大変ね」
ジュリアはなるほどと頷く。
この庭を見る限り、ビルの腕は確かだ。きっと色々な所で贔屓にされているのだろう。
そんなジュリアに、ビルもいつも通りのにこやかな笑顔を返す。
「奥様は最近お忙しいのですか? 俺もここ最近はこっちに来れてなくて代理の人間に頼んでいたので、よくは知らないのですが……」
「ええ、そうね。商会の仕事を続けさせてもらっているから」
「何だかお疲れのようですね。何か大変なことでもあったのですか?」
「ええ……ちょっとね……」
今回の偽装事件のことは、さすがにビルにも話せない。いっそ全て打ち明けてしまいたかったが、ジュリアはもどかしい気持ちになった。
「ですが最初に会った時より、ずっと生き生きとしてます。以前の奥様は、あまりに痛々しくて見ていられませんでしたから」
ジュリアの雰囲気を感じ取ったのか、ビルが意識的に話題を変える。ビルの気遣いが嬉しい。
「そこまで? そんなに酷かったかしら」
「そうですよ! 何というか、まるで傷だらけの兵士みたいな……。あ! いえ奥様がそんな逞しそうという訳ではなくですね!」
「ふふふ。まったく失礼な人ね」
ジュリアは口の前に手をやり、自然と上がる口角を隠した。
ビルと居るといつも自然と笑顔になってしまう。それは彼の持つ独特な雰囲気のせいだろう。どうにも力が抜けて、素の自分が出てきてしまう。
「でも、きっと辛いこともありますよね? どうか無理をしないでくださいね」
そう言ってビルは、腰につけたバッグに刺さっていた花をジュリアに手渡した。
それは、いつものクチナシの花だった。
「今年はもうこれで終わりです。例年より長く咲いたんですけどね。クチナシの香りにはリラックス効果もあるそうですよ。直接渡せて良かった」
そう言ってビルは、どこか照れたような笑みを浮かべた。
ジュリアはその笑顔に、目が釘付けになってしまった。
月明かりのせいか、いつものように跳ねた茶色の髪が、何故か輝いて見える。
ジュリアはその時、その髪に触れてみたいと思った。
月明かりの下で見るビルは、いつも通りの笑顔なはずなのに、どこか艶を感じる。
垂れ目がちな瞳、案外細い首筋、その割に筋張った手。
それらから目が離せない。
ジュリアはどきりと胸が高鳴るのを感じた。
そして、そんな自分に驚きを隠せない。
(私……そんなまさか……)
「奥様? どうかしましたか?」
「い、いいえ何でもないわ」
ジュリアは頭を振り、今浮かんだ可能性を頭から追い出す。
きっとこの雰囲気に呑まれているだけだと自分に言い聞かせ、ジュリアは恐る恐るクチナシの花を受け取った。
「ありがとう……良い香りだわ……」
「そうでしょうそうでしょう。あ、そう言えば、最近仕入れたこの花もまた違った香りでとても良いですよ」
そう言ってビルは、見たことのない黄色い花を取り出した。
「そうなの? 初めて見る花だわ。ダリアとも違うし……。何という花なの?」
「マリーゴールドの仲間なのですが、東洋でキクと呼ばれる花です。まだこの国でもティンバーでも馴染みがないですよね。中でも、この品種はしっかりとした香りが特徴なんですよ」
ビルにそう言われ、ジュリアはキクに顔を寄せた。
その瞬間。
嫌悪感が身体中を駆け巡り、思わず花を投げ捨ててしまった。
「こ、これ……」
「奥様! どうされたんですか!? 香りが気に入りませんでしたか?」
「ち、違うの……。ごめんなさい、ビル。せっかく私のために摘んでくれたのに……」
ジュリアは自分で気付かぬ内に、ぎゅっと自分自身の手を握り合わせていた。
そんな彼女を宥めるように、ビルは自分の手でジュリアの手を握り込んだ。
「そんなことはどうでも良いんです。奥様……顔が真っ青ですよ。どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい……。ただ、前に嗅いだことのある香りに似ていてびっくりしただけなのよ。どうか気にしないでね……」
「前に嗅いだことが? この花はまだまだ流通していないですし、僕もツテで偶然手に入っただけなのですが……。どこで嗅いだんですか?」
ジュリアは少し大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
そう、この香りは嗅いだことがある。
回数は多くない。
だが、ジュリアにとって忘れられない香りだった。
「シャーロットの……あの、お兄様と元婚約者が傾倒していた男爵令嬢……彼女が使っていた香水に、似ていたの……」
「そう……でしたか」
そこでビルは申し訳なさそうにキクを拾い上げ、ポケットに突っ込んだ。
「嫌なことを思い出させてしまい申し訳ありませんでした。これは、この中庭には今後植えないようにします。奥様、知らなかったこととは言え……本当にすみませんでした」
「良いのよ。誰だって、まさかこんな偶然があるだなんて思わないじゃない。気にしないで。でも、ごめんなさい。このクチナシの花だけいただくわ」
「はい……すみませんでした……。
……あの! 俺、もっともっと、奥様に喜んでもらえるような花をたくさん咲かせますから! どうか、まだ見捨てないでくださいね!」
ビルはズボンを両手で握りしめ、必死の様子でジュリアに訴えかける。
その様が何だか可愛らしくて、ジュリアは自然とまた力が抜けるのを感じた。
「ええ。ありがとうビル。楽しみにしているわ」
夜もかなり更けてきた。
ガウスはまだ帰らないようだが、もう休まないと明日に響くだろう。ジュリアはビルにクチナシのお礼を言い、自室へと戻って行った。
ビルはその様子をにこやかに見送り、自分自身も中庭を後にした。
ウォルナット家からかなり離れた場所。
しかし王都の貴族街にある、とある屋敷。
その一室に、何故かビルの姿があった。
「まさか本当にビンゴとはなぁ。調べても出てこないはずだよね。キク自体は毒どころかその逆だし。彼女には悪いことしちゃったけど……早いとこ兄さんのとこに行かなくちゃ」
ビルは部屋の浴室に入り、湯を浴びる。
頭に石鹸をつけ湯をかけると、泡と共に茶色い湯が流れ出た。
そして、金に近い栗色の髪が現れたのだった。
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