第20話
なんとか昼休憩中に涙を抑えたジュリアは、午後も黙々と働いた。
マシューは仕事に必要なこと以外喋らず、訳を聞かなかった。
ジュリアはそれが有難いと思った。訳を話せば、どうしても自分の身分を話さなければならない。普通に仕事ができなくなるのは嫌だったし、マシューに態度を変えられることも嫌だった。
ジュリアは翌日も同じように働いた。
不思議なことに、またガウスと共に出勤することになった。その日もガウスは、きちんと朝食後にジュリアを迎えにきたのだ。
ジュリアは、もう職場への道は分かると断ろうかとも思ったが、数少ないガウスと触れ合う機会である。この機会が、ガウスの誤解を解くチャンスなのではないかと思い直した。
しかし、ガウスはジュリアが話しかけても無視をする。話は何も出来なかった。
それでもやはり、心なしか初日よりも歩みがゆっくりとなり、ジュリアが小走りにならないよう配慮してしてくれている気がする。
ジュリアにはガウスがよく分からなかった。
1日中バックヤードでマシューと作業をし、昼は2人で賄いを食べた。
やることがあるのはいい。やはり気が紛れる。
そして仕事を初めて4日目。
今日は店の定休日だった。
ガウスはそれでも仕事があるようで、朝一人で事務所へと出かけて行った。カンナは今日スチュアートの使いに出ている。
ジュリアはここに来て初めて、何も予定がなく1人で過ごすことになった。
朝食を食べると早速やることがなくなり、まずは図書室に行って本を物色した。
すると、しばらくしてルーナが本を抱えてやってきた。どうやら図書室の整理を行うようだ。あの体調不良で下がらせた時以来、ジュリアは初めて会ったので、声をかけることにした。
「もう体調は大丈夫なの? ルーナ」
「あ、奥様……。はい、この通りすっかり良くなりました。夏だからと素肌で寝てしまったのが良くなかったようです……あっ」
そこでルーナはしまったという顔で口を両手で隠した。
どうやらガウスと同衾していたことを言っているのだろう。あの日ジュリアが見たのはエマだったので、その前日はルーナの番だったようだ。
ルーナは激しく動揺して、目を白黒させている。わざとではなく、うっかり口を滑らせただけのようだ。
「あの、申し訳ございません、奥様……」
ジュリアがしっかりと意味を読み取ったのが分かったのだろう。
消え入るような声でルーナが言った。
「良いのよ。私は気にしていないわ。だけど、あなたはそれで良いの?」
ジュリアはルーナに心配気に問う。
ルーナからは初日のような敵対心は感じられない。あるのは怯えと不安だ。
「まさか、あなた何かガウス様に弱みでも握られて……」
「違います!」
ルーナはジュリアの言葉に被せる勢いで言った。
「ガウス様は気が多い方ですが、そんな卑怯なことはなさいません。私は、私の意志でここに居ます。だから、責任は自分で取ります。……失礼します」
そう言ってルーナは図書室から出て行った。
ジュリアは1人残され、はぁと溜息をついた。
(何だか地雷を踏んでしまったのかしら……)
ジュリアは本を読む気になれず、窓の外を眺めた。
すると、ビルが中庭で作業をしているのが見えた。そう言えば、初めて会った時に次は3日後に来ると言っていた。
(中庭に出てみようかしら)
今日は気候も良く、外を散歩するにはちょうどいい。
ジュリアは思い立つと、階段を降りちょうど図書室の真下にある、庭に出るための扉を潜った。
「奥様! どうもこんにちは! 随分と顔色が良くなりましたね!」
ビルが帽子を取って立ち上がり、にこにこと笑顔で挨拶をする。
相変わらず茶色の髪がはねている。この間はまだ暗い時間で良く見えなかったが、目は髪よりも少し薄い茶色のようだ。
色合いが凡庸なことと、本人の雰囲気からどうも全体的に印象が薄いのだが、近くで見るとやはり整った顔をしている。
少しだけ垂れ目がちな目元が穏やかな印象だ。
まだ会って2回目だというのに、ジュリアは何故か安心したような気持ちになった。
「ありがとうビル。トビーの料理をきちんと食べているからかしら。あと『ノーチェ』の賄いも食べているし」
「あれ、奥様、商会の仕事を始めたのですか?」
「ええ、手伝い程度だけれどね」
ジュリアは話しながら、中庭に置かれたガーデンテーブルの椅子に腰掛けた。
そしてビルには作業を進めてもらうよう声をかける。ジュリアのせいで作業の手を止めさせたら申し訳ないと思ったのだ。
ビルは恐縮しながらも、作業をしながら話を続けた。
しばしたわいない会話を続けていくと、ジュリアは心がほぐれていくのを感じた。
ジュリアは久々に、気を抜いて心からの笑顔で話せていると思った。
「なんだ。親父さんはあんなこと言っていたけれど、旦那様と仲良くしてるんですね。それ、旦那様からもらったのでしょう?」
そう言ってビルはジュリアの首元を指差す。
どうやら無意識にネックレスを指で弄っていたようだ。
「これ? いいえ、これは昔ある方に貰ったものよ」
「なんだ。アメジストだからてっきり旦那様に貰ったのかと」
「それ……どういうこと?」
「知らないですか? アメジストの宝石言葉は『真実の愛』ですよ。大切な人との絆を深めるとされているので、結婚の約束の際に渡されることが多いそうです」
ジュリアは驚いた。
あまり宝石に関心がなく、そんな意味があるだなんてことは考えたこともなかった。
(マルセル……これをくれた時は、私のことを大切に思ってくれていたのかしら……)
ジュリアは黙り込み、ネックレスのアメジストを握りしめた。
マルセルはどんな気持ちでこのネックレスを選んだのか。
あの時、2人は同じ未来を思い描いていたのだろうか。
「……すみません奥様。余計なことを言ったでしょうか」
「いえ……いいのよ。気にしないで」
2人の間に沈黙が流れる。
しばらく、ビルが花々を剪定するパチンパチンという音だけが響いた。
ジュリアは俯き、自分の膝を見つめていた。
「あの……奥様」
しばらくして、ビルが恐る恐る声をかける。
「もしもお節介だったなら申し訳ないのですが……奥様は自分の傷に気付いてますか?」
「え?」
ジュリアが視線を上げると、ビルが正面に立っていた。
「奥様。もしかしたら自分では気付いてないかもしれないですが、あなたは今とても傷ついているように見えます。自分で思っている以上に。何だかとても我慢しているみたいです。
俺は詳しい事情を知らないのですが……色々と大変だったんですよね? ずっとずっと無理をしてきたんじゃないですか?」
「そう、かしら……」
確かにジュリアはもう自分の感情がよく分からなくなっていた。
ふとした瞬間に涙が溢れてきたり、後悔に押し潰されそうになったり、でも仕事をしていると楽しい。
自分でも情緒不安定だなと思う。
だがそれは、やはりしっかりしなければとずっと気を張っていたからかもしれない。だからこそ少しの衝撃で感情が決壊し、人前で醜態を晒してしまうのだ。
「あの。俺では力不足かもしれないですけど。もし良かったら、話してみませんか。話したらすっきりするかもしれません。ほら! 庭師なんて庭の一部だってよく言うじゃないですか。俺のことはその辺の草だとでも思って、大きな独り言を言うような気分で」
ビルはわちゃわちゃと手を動かし、必死に伝えているのが分かる。
ジュリアはくすりとした。
「独り言?」
「そう! 独り言です! 独り言に何だか相槌を打つ花の精がいるのかな〜? と思えばいいんですよ!」
「ふふ。花の精って」
ジュリアは思わずくすくすと笑い出した。
ビルは唇を尖らせて、頭を掻きながらそっぽを向いている。
自分で言って少し恥ずかしかったようだ。
ジュリアは一頻り笑うと、すぅっと息を吸い込んだ。
「そうね。そうするわ。独り言、だものね」
カンナに話した時は、出来るだけ主観を入れず、事実だけを話そうと心がけた。
そのため、言うならば自分の気持ちはまだ誰にも伝えていない。
ジュリアはポツポツと、これまでのことを話し出した。
しかしやがて止まらなくなり、一気にどんどんと言葉が口から飛び出していく。
マルセルからの裏切り、兄からの侮蔑、父の死、母への心配、友人への心配。
悲しみ、後悔、絶望。
それら全てを、いつの間にか全てビルの前で話していた。
ジュリアとて誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
自分がどう感じているか、何に苦しんでいるのか。
自分ですら整理のつかない感情を全て吐露し、どれくらいの時間が経ったのか、陽はすっかり頂点に昇り下りかけている。
知らないうちに、ジュリアの頬は涙で濡れていた。
「奥様。大変でしたね。俺は毎日ここにいる訳ではないし、ウォルナット家の使用人ですらない。何も出来ないですけど……話ならいくらでも聞けます。誰かに話したい時は、いつでも話してください」
「ありがとう……ビル……」
ジュリアは涙を拭った。
ジュリアは心から嬉しかった。
誰かに話を聞いてもらうだけで、こんなに心が軽くなるとは思わなかった。
「それにしても、その男爵令嬢は怪しいですね。何か薬でも使ったんじゃないですか?」
「もちろんそれは調べたけれど、何もなかったのよ。メイプル男爵家からよくフルールのパーティーに蜂蜜が差し入れられたけれど、それを検査しても何もなし。それに男性にだけ効力を発揮する薬なんて、存在するのかしら。ごく一部の人に対してなら、直接グラスに何か入れたとも考えられるけれど、彼女と話したこともない男性までも彼女に夢中だったわ」
「うーんなるほど。確かに難しいですね……。あ! 香水ということはないですか? 花の中には香りを嗅いだだけで酩酊状態にさせるものもありますよ!」
「確かにそれも考えたけれど、難しいわ。それなら女性にも影響があるだろうし、何よりつけている本人に影響が出てしまうもの。確かに、彼女の香水はあまり嗅いだことのない香りだったけれど……。
それに彼らは自我をなくしたりはしていなかったわ。話すことの理屈は通っていたし、きちんと順序立てて話せていた。ただ、盲信的に事実とは違うことを信じていたという感じかしら。あと性格が多少荒くなったりはしていたけれど……」
「あーーそっか。だめだー。謎は深まるばかりですね」
「そうね。今頃ティンバーではどうしているのかしら。調査が進んでいるといいのだけれど……」
そう言ってジュリアは空を仰いだ。
まるでその視線の先に、ティンバー王国を見ているようだった。
「あの、俺、本当に何も出来ないですけど、せめてこれをどうぞ」
そう言ってビルは一輪の白い花を差し出した。
「これは……クチナシ?」
「そうです! 結構ホルツで咲かせるのは手間がかかるんですよ? でも綺麗でしょう! いい匂いだし。
クチナシの花言葉は『喜びを運ぶ』です。きっと奥様に喜びがやってきますように!」
「ありがとう……ありがとう、ビル」
ジュリアは花に顔を近づけ、胸いっぱいに香りを吸い込んだ。
甘ったるいと言う人もいるかもしれないが、ジュリアはこの香りが好きだった。
ビルの優しさが、胸に沁みた。
すると、邸宅の中からカンナが出てくるのが見えた。
カンナはジュリアの座るガーデンテーブルまで来ると、ビルに会釈をしてジュリアに向き合った。
「奥様。ここにいらしたのですね。只今戻りました。昼食が出来ましたので、ご用意いたします」
「ええ。ありがとうカンナ。ビル、ありがとう。部屋に飾らせてもらうわ」
ジュリアはにこりと笑うと、カンナと共に屋内へと戻って行った。
ビルはひらひらと手を振り、にこやかにジュリアを見送った。
ビルはふうと息をつく。
そして顎に手を当てて呟いた。
「メイプル男爵家は黒だな。裏に何か付いているのか……。兄さんの予想通りなら、これはちょっと厄介だ。準備が整ったら、ここもしばらく来られなくなる……か」
そう言ってビルは帽子を深く被り直すと、また花の剪定作業に戻る。
その顔には、先程の笑顔はかけらも残っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます