第19話 sideガウス

 

 時間は少し遡り、ユアンがジュリアを店舗に案内した後。

 ユアンは事務室に戻ると、黙々と書類にサインをするガウスに声を掛けた。


「奥様のことですが、あの方は凄いですね。きちんとその場での身の振り方、役割を瞬時に把握出来る。それに、店舗の人間には、自分がガウス様の妻だとは伝えないでくれと言われましたよ。特別扱いされずにきちんと 仕事がしたいからと。

 ガウス様、あの方は本当にセンダンの新会頭が言っているような方なのでしょうか」

「ジョシュアが嘘をついているとでも言うのか?」


 ガウスはペンを止め、ユアンを睨む。

 ユアンはその視線を目の前から消すかのように顔の前で両手を振り、ぽすんと自席の椅子に座った。


「いえ、そういう訳ではないのですが……。何か行き違いや誤解があるのではと思いまして」

「かつてジョシュアもあの女の才能を誉めていた。頭がいいのは確かなのだろう。今は猫を被っているだけだ」


 そう言ってガウスはまた書類に視線を落とす。

 そんなガウスを、ユアンはデスクに両肘を突いて手の甲に顎を乗せて眺めた。


「そうは言っても、ガウス様も思っていらっしゃるのではないですか? ジュリア様が、思っていたような女性とは違うと」


 そう言われ、ガウスは黙り込む。

 そして昨日のことを思い出していた。






 昨晩。

 ガウスは食堂で夕食をとっている最中に、ルーナの姿が見えないことに気が付いた。


『ルーナはどうした?』

『ルーナは体調が悪いらしく、今日はもう下がらせました』


 ガウスの問いかけに、マルタが答えた。

 しかしどこか釈然としないマルタの様子に、ガウスは不思議に思った。


『何かあったか?』

『いえ、特にはございません』


 ガウスは首を傾げながらも、食後にルーナを見舞うことにした。



 ガウスは愛人たちに真摯に接する。

 それがガウスのモテる理由の一つでもあり、複数の愛人を囲っても表面上何も問題が起きない理由だ。

 その代わり特別扱いはしない。皆同様に愛人以上の地位を与えない。

 実を言うとガウスの愛人歴が1番長いのはエマである。年もガウスと近く、良家の出であれば、最も正妻の座に近かったのはエマだろう。その分、唐突に湧いて出たジュリアのことが、エマは気に入らない。

 その場所は自分こそが相応しいと思っている節があるようだ。


 反対にルーナは、自分の立場を重々理解していた。

 元々クルメル商会の店舗で売り子をしていたルーナは、ガウスと愛人関係になったことで店を辞め、メイドになった。

 店での仕事はとても気に入っていたが、ガウスに惚れていた彼女は、ガウスのより近くにいることを選択した。

 しかし、本妻の出現でルーナは急に怖くなったのだ。普通に考えて、本妻が同じ家に愛人がいることを許すとは思えない。ルーナに頼れる実家はもうない。

 ここを追い出されたら自分はどうなるだろう。ルーナは不安に押しつぶされそうになっていた。




 ガウスがルーナの部屋に入ると、ルーナはベッドで丸くなっていた。


『具合はどうだ? 辛いか?』

『ガウス様……はい、申し訳ありません。大丈夫です』

『あとでマルタに薬を持って来させよう。ゆっくり休め』


 そう言ってルーナの頭を撫で、ガウスは部屋を出ようとした。

 その時、ルーナはガウスの袖を引いて引き留めた。


『あの……ガウス様。奥様のことなのですが……』


 ルーナがそう言うと、ガウスは途端に眉を顰めた。


『あいつがどうかしたのか。もしや、あいつに何かされたのか!?』


 ガウスが声を荒げると、ルーナはぶんぶんと首を横に振った。


『違います! あの、そうではなくて……。先ほど、奥様の夕食の給仕中に目眩がしてしまって、水で奥様のドレスを濡らしてしまったのです。

 ですが奥様はそれでも怒らずに、それどころか私の体調不良に気付いてくださって……。噂とは異なる、お優しい方でした……』



 ルーナは考えた。

 エマのようにジュリアを虐げ、自分の居場所を確保することも考えられたが、それにはリスクを伴う。


 昨日、ルーナはエマが足を引っ掛けジュリアが花瓶の水を被ったところを見ていた。その際、ジュリアの叱る言葉に違和感を持った。

 ジュリアが噂通りの人物ならば、まず自分が転んだこと、濡れたことに対する叱責をするだろうと思われたが、彼女の口から出てきたのは全く異なる言葉だった。

 もしもエマの行動で、取り返しのつかないことになったら。その覚悟を持ってやったのかと言っていた。

 ルーナには、あの言葉はエマのために言われた言葉のように感じられたのだ。自分の行動で取り返しのつかないことになったら、後で後悔するのは他でもないエマだ。ジュリアは自分の身の不快な出来事よりも、相手のことを優先するのだと思った。


 そして自身が水をかけてしまったことで確信した。

『この人は噂通りの人ではない』と。


 今ガウスはジュリアを噂通りの人物だと信じ疎んでいるが、噂が嘘であれば、ジュリアのこの家での地位は変わってくる可能性がある。

 ここはジュリアに敵対し、後でどうにもならなくなるよりも、ある程度ジュリアを擁護した方がいいとルーナは考えた。

 ガウスは保身のための嘘を嫌う。もしも今日の出来事をルーナが隠し、それをガウスに知られたら、きっといつか信用を失うような気がした。



 ガウスはルーナの言葉を聞き、考えた。

 確かに、昨日商会で少しだけ話した印象は、ジョシュアから聞いていた印象とは異なっていた。

 昨日は簡単な仕事しかしていないものの、優秀であるだろうことは側から見ても想像できた。

 それに、あの昇降機の中のジュリアをガウスは思い出す。あれは決して嘘のへつらいではなかった。もしあれが演技であったならば、かなりの女優だろう。

 ジュリアには確かに、ガウスやクルメル商会に対する尊敬の念があった。

 すると、ジョシュアの手紙にあった「平民に嫁ぐことを厭って逃げた」ということと矛盾するように思える。


(だが……仕事と結婚は別物という考えなのだろう)


 ガウスはすぐに自分の心の中に生まれた疑念を否定する。

 そしてルーナへと向き合い、「そうか」とだけ返して、ルーナの部屋を出たのだった。









「……いや、あいつはまだ嫁いで来て3日だ。まだ本性を隠しているのだろう。お前もあいつの策略に乗って、絆されるなよ」


 回想から帰ったガウスは、間を置いてユアンにそう答えた。

 ユアンは肩を上げて、自らも資料に目を通し始めたのだった。



 しばらく2人とも黙々と作業をし、気付くと既に昼時だった。

 ガウスは基本的にしっかり3食とるようにしている。もちろん、朝方まで励み起きるのが遅い日は、朝と昼が同時になることも多いのだが。

 ガウスは昼食を「ノーチェ」で賄いを食べることにしている。楽だというのもあるが、実際に自分の舌で味わって、料理の質を確認する意味もあるのだ。


「俺は昼に行くが、お前はどうする」

「あ、私はまだもう少しこれを片付けてから行くことにします」

「そうか。なら先に行く」


 ガウスは1人事務室を出て、昇降機で下に降りる。

 その時、昨日のジュリアの様子を思い出した。


(あいつは、まるで子どものようにはしゃいでいたな)


 くすりと自然に笑いが漏れた。

 ハッとして、ガウスはすぐにキュッと口を引き締める。憎いジュリアを思い出して笑うなど、許されることではない。

 ガウスは自分自身の行いが信じられず、眉間に深い皺を刻んだ。



 休憩スペースに入ろうとした所で、ガウスは嗚咽が聞こえることに気付いた。


(なんだ……?)


 中を覗くと、ジュリアとマシューが居る。

 どうやらジュリアが泣いているようだと、ガウスは気付いた。


(マシューに何か言われたのか?)


 2人はお互いに何も言わず、ただ食事をとっていた。

 ジュリアは確かに泣いている。しかし、その姿は惨めさを感じなかった。理屈は分からない。だが、ガウスには何故か、ジュリアは誰かを思い泣いているのではないかと思えた。



 ガウスは流石にその場に入っていく気にはならず、踵を返して事務室に戻った。



 ガチャリと事務室のドアを開けると、ユアンが何やら慌てた様子で資料を片付けていた。


「? どうしたんだユアン」

「い、いえ。急にドアが開いたのでびっくりしただけです。どうされましたか、ガウス様」

「いや……何でも。やはりもう少し後で行くことにする」


 ユアンに問われ、ガウスは気まず気に言葉を濁した。

 ガウスは手元の書類を持ち上げ、読み始める。が、どうにも先程のジュリアの姿が脳裏にちらつき、目が滑る。


(自分の現状を嘆いているのか、それとも……)



 そしてガウスは、かつて会った子供の頃のジュリアを思い出していた。





 昔、ガウスがまだクルメル商会の会頭になる前、商談のためやってきたジョシュアにジュリアが付いて来たことがあった。

 当時はまだ7、8歳といったところだろうか。

 ガウスは、その時付き合っていた女のうちの1人を連れていた。ジュリアはガウスを見上げて、不思議そうにこう尋ねた。


『ガウスさまは、なぜいつもちがう女のひとをつれているの?』


 唐突な質問に面をくらったが、ガウスは声を立てて笑うと、こう答えた。


『俺はな、美しい女を皆愛しているんだ。だから1人には絞れないんだよ』


 それを聞いたジュリアは、首を傾げてこう言ったのだ。


『みんなのことをあいしてるってことは、だれのことも好きじゃないってことね? さみしいひと』


 ジュリアは心底そう思っているようだった。

 ジョシュアは慌ててジュリアを窘めた。

 それにガウスは笑って誤魔化したが、その時、確かに頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。


 それまで自分は満たされた人間だと思っていた。富も名誉も女も全て手に入り、好きなように出来た。

 けれど、それはただ満たされない心を紛らわせていただけだったのだろうか。

 ガウスの女遊びはいつから始まったのだろう。

 母が死に、父が仕事に明け暮れ始めた頃からだろうか。

 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 しかしガウスは、その時感じた思いに蓋をした。見ないふりをした。

 そしてそのまま、大人になったのだ。





 あの時のジュリアと、先程の涙を流すジュリアの姿を重ねる。

 どうやっても、ジョシュアから聞いた女の姿とは、重ならなかった。


(何故……どうしてなんだ……)


 ガウスは困惑していた。

 ジョシュアのことは心から信じているし、信頼している。なのに、何故か腑に落ちない。


(もう一度、ジョシュアに手紙を出してみるか)


 ガウスはそう決めると、やっと資料に目を通し出した。

 一つやることを決めると、心は少し軽くなる。

 ガウスはしばし業務に没頭した。




 そんなガウスを、ユアンは眺めていた。

 普段は絶対に見せない、冷たい瞳で。

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